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 赤ん坊が泣いている。
 闇の中で、孤独の中で、怯えて。
 光の中で、愛に包まれて、幸せに。


 赤ん坊が泣くのは、自分の意思を外界に伝えるためである。保護者に対して空腹を訴え、排泄後の不快を伝えるために。
 或いは、そのどれでもない時には、母の保護を確認するためであるという。赤ん坊は泣く事によって、慰め、抱きしめてくれる腕のぬくもりを確かめ、優しく話しかけてくれる声を確認する。
 そうすることによって、護られていることを知り、愛を知るようになる。
 しかし、それが与えられなかったら――
 赤ん坊は何の為に泣くのだろうか。




産女の約束




 刈谷純鈴(すみれ)の無断欠勤、しかもそれが一週間も続いたのは、初めてのことだった。心配した同僚や上司が自宅に連絡を入れても、携帯電話にかけてみても、全くつながらない。彼女の実家にも連絡したが、帰っていないということだった。
「岩井さん、刈谷さんとは親しいんでしょ。何か聞いてない?」
 今日もデスクワークの合間に師長から尋ねられたのはそのことだった。
「いいえ。心当たりは全部連絡しましたし、昨日彼女のアパートにも行ってみたんですけど、いる様子はないんです」
 亜弥(あや)は首を横に振った。それから、純鈴の欠勤が始まった前日、顔色が少し悪かったような気がしたのを思い出した。急病になって寝込んでいるのかもしれない。それで自宅にいないということは、別の病院に入院でもしているのだろうか。それでも、実家にすら連絡していないというのは奇妙だが――。
 純鈴は、この総合病院の外科病棟に務める看護師では二人きりの同期であることもあって、亜弥とは院内でいちばん親しい友人だった。純鈴はどちらかというと勝気で積極的な性格で、おとなしい亜弥とは正反対と言ってもいい。だがそれが良いのか、二人の関係は純鈴が先導、亜弥がフォローというかたちで上手くいっている。
 色々な相談事もお互いにしているのだが、一週間もの無断欠勤の原因になりそうなことは亜弥には思い浮かばなかった。
「岩井さん、手が止まってる」
 ナースセンターの中央に置かれたテーブルでは、他の看護師たちもカルテ作成や日誌をつけるのに追われている。
 注意されて、亜弥ははっと我に返った。今日中に仕上げなければならない書類があったし、純鈴がいない分の仕事は亜弥が率先して片付けていたので、彼女の仕事はほぼ五割増しになっていた。もちろん他の看護師たちも分担してはいるのだが。
「よっぽど刈谷さんのことが心配なのね」
 彼女に注意を促した看護師が隣に座って微笑んだ。
「針原先輩……」
 亜弥は苦笑した。その先輩看護師の名前は、針原京子(みやこ)といった。三年前に亜弥がこの病院に勤めはじめた時から、外科病棟にいた。外科の七人の看護師の中では師長の次に長く勤めているという大先輩だが、威張ることもなければ新人をいびることもせず、色々とアドバイスをくれたり助けてくれたりと、面倒見が良い。看護師としての腕も確かで、点滴や注射などは新米の医者などよりよほど上手にやってのける。
「すみません」
「謝ることじゃないわ。あなたと刈谷さんは友達なんだから、友達を心配するのは当然のことだもの。だけど、仕事は忘れちゃだめよ。切り替えは上手にね。医療ミスなんてことになったら大変だからね」
 京子はからかうように笑った。今は一つにまとめてあるが、長いまっすぐな黒髪は立ち上がれば膝に届くほど長い。これほど長い髪を、よくそんなに美しいまま維持できるものだと、亜弥は常々感嘆している。
「あ、また米田さんだわ。今度は何かしら」
 ナースコールが鳴り、亜弥は急いで立ち上がった。それから、今日の仕事が終わったらまた純鈴の家に行ってみようと決めた。


*   *   *


 その日の仕事帰り、純鈴が一人暮らしをしているアパートの前まで来て、亜弥は建物を見上げた。道路に面しているベランダからは、やはり明かりがついていないのが分かる。
(やっぱり、帰ってないのかしら……)
 しかし一室の明かりがついていないというだけで、部屋にいないと決め付けるわけにはいかない。奥のダイニングキッチンにいるとか、少し早いが眠っているということも考えられる。一応、部屋の前まで言ってみることにした。
 その前に郵便受けを確かめると、前に来たときから溜まっていた郵便物と新聞が一週間分になっているだけだった。溢れんばかりだったそれを抜き取って、玄関の前まで来たのだが、誰かがいるような気配はなかった。
「純鈴、純鈴。いるの? 亜弥よ。いるなら開けて」
 何度もインターフォンを鳴らし、ドアを叩いたが、一向に出てくる気配はない。もう一度ドアを叩いていると、隣の部屋のドアが開いた。
「あなた、刈谷さんのお知り合い?」
「え、ええ」
 亜弥は頷いた。いかにも主婦らしい四十歳くらいのその女性は、ちょっと困ったように眉を寄せた。
「なんだか様子がおかしいのよ、刈谷さん。三日くらい前から、変な臭いがするようになって。ごみが腐ってるんじゃないかしら。忙しくても、溜め込むような人じゃなかったのにねえ」
「じゃあ、家にいるんですか?」
「出ていった音は聞いてないけど……。あたしだって、四六時中家にいるわけじゃないから、ちょっとわからないのよね」
 彼女は当惑したように答えた。亜弥の心に、不安と嫌な予感が暗雲のように広がっていった。ドアが施錠されていることは前に来たときに判っていたので、部屋に入るためには大家を呼ぶ必要があった。
「すみませんが、大家さんに連絡していただけませんか?」
 大家の老人はこのアパートの一階に住んでいたので、隣室の女性が呼びに行き、彼が合鍵を持って現れるまでにはそれほど時間がかからなかった。五分後、亜弥は合鍵を使って純鈴の部屋のドアを開けた。
 ドアが開いた瞬間、異臭が鼻をついた。亜弥の後ろでこわごわ窺っていた隣の女性と大家が顔をしかめた。隣の女性は生ごみを放置したような臭いだと言っていたが、亜弥はその中に、どこか覚えのある臭いが紛れているのに気づいた。玄関の明かりをつけ、臭いがどこから流れてくるのかを突き止めるため、彼女は部屋に上がった。大家と隣の女性は臭いに負けたように、玄関前で立ち止まって亜弥を見守っていた。
「純鈴……」
 廊下代わりのダイニングキッチンを抜け、彼女が寝室兼リビングとして使っている奥の部屋まで入ってみたが、どこにも純鈴の姿はなかった。異臭も、この奥の部屋が原因ではなかった。確かにごみ出しをしている気配はなく、生ごみがストレーナーの中で腐っていた。だがごみの量は日常生活の範囲内にとどまっている。むしろ、日常生活を突然放り出して、主だけが忽然と消えてしまったような印象があった。
(じゃあ、どこから……)
 玄関に戻ろうと背を返したとき、脱衣所の電気がついていることに亜弥は気づいた。点けた覚えはないので、最初から点いていたのだ。心なしか、脱衣所の扉の前に立つと、生ごみが腐ったあの臭いとは、また違った臭気が感じられた。
(ここから……?)
 ハンカチで鼻と口を覆いながら、亜弥は脱衣所の扉を開けた。すると風呂場の電気も点けっぱなしになっており、異臭はますます強くなった。嫌な予感に手を震わせながら、亜弥は風呂場のガラス扉を引いた。
 風呂場の床は赤黒く汚れていた。
 タイルのもとの色である水色と、バスマットのピンク色。その上を、毒々しい赤褐色がまだらに染めている。それは搾り出したばかりの油絵の具のようで、ぬめった光を放っている。純鈴がこちらを向いたまま倒れていた。
 だらりと両腕を広げて、普通なら一分と耐えられないような角度に足を曲げている。濡れていたはずの髪は乾いて、彼女の顔を半ば以上覆い隠していた。それなのに、他の場所は何も隠されていなかった。本来なら皮膚と肉の下に隠れているはずのものまでさらけ出して、純鈴はそこに倒れていた。
 異臭の正体と、なぜその臭いに覚えがあったのか、亜弥は気づいた。


 これは血の臭いだ。
 この血は純鈴のものなんだ。


 その事実がはっきりと意識される前に、彼女の喉は本人の自覚とは無関係に絶叫を噴き上げていた。
 警察が到着したのは、それから三十分ほどが過ぎてからだった。亜弥は二人の警官に付き添われて、駐車場に停められたパトカーの後部座席に座っていた。ブルーシートが張り巡らされた奥でカメラのフラッシュが光り、鑑識官や捜査員が忙しく行き来しているのを、彼女はぼんやりと眺めていた。
「大丈夫ですか?」
 彼女の顔色がよほど悪かったのか、彼女より五歳くらい年上に見える女性刑事は心配そうに尋ねた。被害者も発見者も女性ということで警察側が配慮したのか、まさに紅一点といった感じでこの女性刑事が亜弥を担当することになったようだった。
 事情聴取も彼女を気遣ったのか、名前と職業、住所などの簡単な確認と、ここに来るに至った理由を聞かれた程度であった。亜弥は無言のまま頷いた。
「被害者とはご友人だったそうですね。お気持ちはお察しします」
 いいえ、あなたには私の気持ちは判らない。そう思ったけれども、亜弥は何も言わなかった。その代わり、事務的なモードに自分を無理やり切り替えようとした。親しくなった患者、思い入れのある患者が亡くなった時にはいつもそうしていた。仕事用の自分は何も感じないのだ、そう言い聞かせることで、亜弥はこれまでやってきた。
 それは少しだけ上手くいった。喋ろうとすると言葉ではなく涙が出てきそうだったが、何とか声を出すことができた。
「これから……事情聴取とかがあるんですか?」
「あなたは第一発見者ですし、被害者の交友関係などについて、詳しい事情をもう少しお聞きすることになります。よろしいですね」
「はい」
「ですが時間が時間ですし、明日もご出勤でしょう? 大まかな事情はお伺いしましたし、今日はもう、お帰りになったほうがいいでしょう。お送りします」
 亜弥は公共交通機関でここまで来ていたので、勧められるまま自宅までパトカーで送ってもらった。パトカーに乗るのも送られるのも生まれて初めての経験だったが、そんな感慨に浸っている余裕はなかった。
「後日、我々がお伺いしてもよろしいでしょうか」
「患者さんに不安を与えたくないので……職場には、ちょっと」
「ああ、そうですね。でしたらご自宅でも?」
 女性刑事は手帳を広げながら尋ねた。亜弥は頷いて、自宅の電話番号と、携帯電話の番号を告げた。
「あらかじめご連絡をいただけたら、休みを取りますので」
「些細なことでも、手がかりになりそうなことを思い出されたらご連絡ください」
 女性刑事は別れ際に、自分の連絡先を書いて手帳のページを破り取り、亜弥に渡した。それから事務的にならないように気をつけていると判る声で、言った。
「お気を強く持ってくださいね。我々もできるかぎり、お力になりますから」


*   *   *


 ついこの間まで一緒に仕事をしていた純鈴が、死んでしまったなどとはにわかに信じられなかった。
 通夜と葬式が終わった三日後、予告どおり看護婦寮に昨日の女性刑事ともう一人の男の刑事が現れて、事情聴取が行われた。亜弥は聞かれたことには知っている限りのことを答えたが、それも夢の中の出来事のようだった。
「何で、誰に殺されたの、純鈴……」
 初七日が過ぎるのはあっという間だった。今年の夏に純鈴と行ったテーマパークで、年甲斐もないと笑いながらキャラクターの顔がついた帽子をかぶって、二人ではしゃぎながら撮った写真を見つめて、亜弥は呟いた。
 それから急に、今夜は久々の夜勤が入っているという現実的なことを思い出した。
 夕方、亜弥が出勤すると、京子も夜勤でシフト交代したところだった。純鈴が殺されていたこと、亜弥が図らずも第一発見者となってしまったことは既に同僚たちの知るところとなっている。
「調子はどう、岩井さん?」
「まだ……信じられないです」
「気持ちの整理がつかないのは当然だわね」
 人の生と死が同時に存在する病院である。死は日常的なものであるが、そんな形での死を見たことなど、亜弥にはなかった。
 それからしばらく、二人は無言でそれぞれの作業を行っていたが、沈黙に――というよりも、わだかまる感情に耐えかねて亜弥は口を開いた。
「変なんです」
「何が?」
「彼女の赤ちゃん……いないんです」
「赤ちゃん?」
 京子の不思議そうな声に、亜弥は青ざめた顔を上げた。捜査上の秘密に属することだから、部外者に話してはいけないと言われていたことだが、自分一人の胸に収めておくにはあまりにも衝撃的で恐ろしい事実を、どうしても話さずにはいられなかった。
「妊娠が判ったばかりだって、二十週くらいだって言ってました。付き合ってる男に、堕ろすように言われたけど、自分は産みたい、どうしようって……殺される前に、相談されてたんです」
 純鈴は殺害現場からも明らかなように、入浴中に何者かに殺された。それ自体は、言葉はよくないが、ありふれた殺人だと言える。だがその後に行われた事の猟奇性と異常さ、不可解さは、刑事たちの眉をひそめさせ、首をひねらせた。
 犯人は彼女の腹を捌き、胎内から胎児を持ち去ったのである。純鈴の最期の夜から亜弥がドアを開けるまで、彼女の部屋は完全な密室であったから、この残虐かつ異常な行為を行ったのは犯人以外にいない。
「排水口の中にも、浄化槽の中にも、純鈴が妊娠してたはずの胎児が……見つからないんです。……誰かが、彼女を殺して、胎児だけ……」
「警察は、何て?」
「判りません。変質者による猟奇殺人じゃないかと言ってましたけど……だけど、絶対にあれ、人間にできることじゃないんです。かなり大きな、動物ででもない限り」
「どういうこと?」
「いくら女性のものでも、人間の筋肉を……腹筋を、ですよ。刃物を使わずに切り裂くなんてこと、人間にできると思いますか、先輩?」
 膝に載せた亜弥の手が震えていた。その手に自分の手を重ねて、椅子に座った彼女の傍らに跪いて顔を覗きこむようにしながら、京子は語りかけた。
「まだ休んでいたほうが良かったんじゃない? 見回りは私がやっておくから」
「大丈夫です。仕事していた方が、気が紛れるんです」
 亜弥は首を振った。全く大丈夫などではなさそうだったが、京子は敢えて異を唱えることはしなかった。その代わり、独り言のように呟いた。
「刈谷さんの相手の男は、誰だったのかしら」
「……」
 亜弥はまた首を横に振った。
 前にも何人か付き合っている男性がいたのは知っているが、今の交際相手が誰なのかは知らなかった。
「その男も、ただではすまないでしょうけどね」
 数秒の沈黙の後、京子が呟いたのは亜弥の予想外の言葉だった。呆気に取られたような顔をして亜弥が見つめていると、京子はちょっと笑った。
「一番疑わしいじゃない? 犯人じゃなかったとしてもね」


 自分でできると答えたし、夜勤にも慣れている。とはいえ、懐中電灯片手に真っ暗な夜の病院を歩き回るのは、あんな事件のあった後では普段どおりに淡々と、とはとてもいかなかった。
 消灯後の病室を一つ一つ見回って、異変がないかどうかを確かめて歩く。やっと受け持ちの外科病棟を全て見回って、ナースセンターに戻るため廊下の突き当りで振り返ったときだった。
 懐中電灯の光りが、人影を照らし出した。こんな時間に患者がうろついていいいはずがない。亜弥は足早に近づいていった。
「どうされました? 消灯時間は過ぎて……」
 続く言葉は出てこなかった。亜弥の足は、廊下に貼り付けられてしまったように動かなくなった。それ以上近づくことを、本能的な恐怖が止めたのだ。
「あ……」
 そこに立っていたのは、入院患者のように白い襦袢を着た女だった。しかし、その下半身は赤い水に腰まで浸かったかのように真っ赤だった。布を赤く染めた血が、裾からじわじわと床に血だまりを広げている。この女が患者だとしたら、この出血量はただごとではない。こうして動き回っていること自体が無理だ。だが、患者でもなけれはこの世のものでもないということが、亜弥には直感で判った。
 女はゆっくりと亜弥に近づいてきた。足が言うことを聞かず、腰が抜けたようになって廊下にしりもちを付いた。同時に手から懐中電灯が滑り落ち、硬い音を立てて廊下に転がった。懐中電灯の光がくるくると回りながら逸れ、女の姿が光の輪から外れた。非常灯のぼんやりした緑色の光だけが彼女を照らす。
 ざんばらの黒髪で隠された女の表情は判らないが、こちらに伸ばされた右腕の爪は異常に長くて鋭く、純鈴の部屋で嗅いだような血の臭いがした。
(殺される……!)
 純鈴の腹を切り裂いて、胎児を抜き取ったのはこの女なのだ。理由はなかったが、確信のように強く亜弥は思った。
「岩井さん!」
 京子の声が響き、亜弥に近づこうとしていた女の動きが止まった。女の足元にまきついてその動きを封じているのは、髪だった。長い黒髪。その先を辿っていくと、京子がいた。彼女が立っている階段からここまで四、五メートルは離れているのに、京子の髪が謎の女に絡みついているのだ。
 喚くように口を動かしたが、女はものも言わず髪を振りほどいた。そしてその姿がかき消すように消える寸前、亜弥は彼女の左腕に抱かれているものが、血まみれの嬰児であると気づいた。


 女の姿が消えたと見て、京子が駆け寄ってきた。きちんとまとめてあった髪は乱れて、ナースキャップもなくなっている。京子は懐中電灯を拾い上げて亜弥の体を照らし、どこにも怪我をしていないことを確かめた。
「先輩……」
「怪我はないわね」
 あの女は何だったのか、自分が見たものは何だったのか。あれは幻ではないはずだ。京子に全てを尋ねたかったけれども、亜弥は何とかその衝動を抑えた。
「ナースセンターに戻りましょう」
 京子は手早く髪をまとめなおし、落ちていた帽子を拾い上げて付け直すと、手を貸して亜弥を立たせ、階下のナースセンターに戻るために歩き出した。京子がしっかりしていてくれるので、亜弥はそれ以上の恐慌に陥らずに済んだ。
「今の幽霊……先輩にも見えたんですか」
「あれは幽霊じゃないわ」
 京子は意外なほどきっぱりと断定した。
「あれは、刈谷さんのお腹から胎児を抜き取った犯人よ」
 階段で話された声は、密やかにしていても反響した。思わず亜弥は足を止めた。
「同じ事件が三件起こってるわ。刈谷さんは四件目」
「どうして、先輩はそんなこと……」
「知り合いに、色々と教えてくれる刑事がいるのよ」
 京子は微笑んでみせたが、その笑顔はこれ以上の質問の拒絶を意味してもいた。何かの真実を彼女は知っており、それを亜弥に話すつもりはあるが、知っている理由はそこには含まれないのだと亜弥は理解した。
「それで……」
 亜弥が問い直すと、京子は続けた。
 彼女の説明によれば、都内で殺人事件と死亡事故、自殺がそれぞれ一件あった。死んだのはいずれも妊娠した女性だった。殺人では刺殺、死亡事故は早期流産による出血性ショック、自殺はガス中毒。それぞれ死因は異なる。
 だが、彼女たちは全員、死後に何者かによって腹部を裂かれ、胎児を抜き取られた。四件目の被害者が純鈴だというのだ。
「だとしたら、あの女の人は、何の為にここに……」
「刈谷さんの妊娠していた赤ちゃんの父親が、ここにいるのよ」
 また断定的に、京子は言った。
「患者さんってことはないでしょうから、ここにいる当直医か、看護師か……」
「岡田先生」
 亜弥はぽつりと呟いた。京子が驚いたように振り向いた。岡田は外科医で、ちょっと神経質そうな細面の、三十代の男である。腕は悪くないし、理事長の娘を妻にしているので、ゆくゆくは外科部長から院長を目指しているのではと噂されている。
「今日の外科の当直は、岡田先生のはずです。それに、外科病棟にあの女の人が出てきたってことは……」
「……あの人、結婚してたわよね」
 いまいましそうに京子が低く言った。倫理観念から不倫を許しがたいと思ったのだろうが、それにしても怒りのこもりすぎた口調であった。
「だから刈谷さん、あなたにも交際相手が誰なのか打ち明けなかったのね」
「それが本当なら、きっと」
 亜弥は頷いた。それから、はたと気づいた。
「先輩、あの女の人が外科病棟に出たのは、岡田先生に会うためなんですか? だとしたら、今頃……」
「急ぎましょう」
 当直室はナースセンターの隣にある。当直医は緊急手術や診療がないときはそこで仮眠をとっている。階段を降りきり、もう少しでたどり着くというところで男の悲鳴が上がった。当直室からだった。
「岡田先生!?」
 大きな音が立つのも構わず、亜弥はドアを開け放った。淡い月明かりと、付けっぱなしの豆電球のオレンジがかった光に照らし出されているのは、さっき見た血まみれの女と、ベッドから滑り落ちて震えている岡田医師の姿だった。
 しかし岡田は、亜弥たちが駆け込んできたのにも気づかないようで、血まみれの女の顔を凝視しているばかりだった。その唇がわなないて、絞り出すような声を発した。
「す……純鈴、俺のせいじゃない。お前が死んだのは俺のせいじゃない!」
「先生?」
 亜弥の目には、女の顔は見知らぬものにしか見えなかったが、岡田の目には純鈴のそれに見えているようだった。しかし、その一言で、疑いは決定的なものとなった。純鈴の子の父親は、岡田だと。
 女は抱いていた死児をゆっくりと両手で捧げ、岡田に向かって差し出した。ひいっ、という引きつった声が岡田の喉から漏れた。
「や、やめろ!」
 岡田はベッド横の冷蔵庫の上に置かれていた果物ナイフを震える手で掴み、抜いた。牽制するように女に向かって突き出しながら、立ち上がることもできない様子で、足を泳ぐようにばたつかせて壁際に下がった。
「俺は悪くない! お前が産むと言い張るからいけないんだ! どうして俺の前に出てくるんだ!」
 彼の言葉で、亜弥の中で黒いもやのようにわだかまっていた疑惑が急速に形を得た。一つの答えを導き出そうとしたとき、まだ喚き続けていた岡田を京子が一喝した。
「黙りなさい!」
 その声は亜弥の身をすくませ、岡田を沈黙させた。血まみれの女も、のろのろとした動きで京子を振り返った。
「あんたは、一番たちが悪い男だわ」
 京子の声は厳しかった。
「どうして彼女を解ってあげられないの?」
 亜弥は京子の横顔を見、次いで女の顔を見た。さっきは判らなかったが、女が血の涙を流していることに気づいた。
「……泣いているのね」
 ぽつりと亜弥は言った。女の注意は岡田から完全にそれ、亜弥に移った。岡田は茫然と、壁に寄りかかってへたり込んでいた。亜弥は女に一歩近づき、両手を差し延べた。
「純鈴、あなたが泣くことはないわ。私がいつか、その子を産んであげる。幸せにしてあげる。だから、その子のために泣くことはないのよ」
 なぜ自分がそんなことを言って、手を差し延べているのか、はっきりと言葉で説明することはできなかった。ただ、そうしなければならないような気がした。彼女の目にも、今は女の顔が純鈴と重なって見えた。純鈴だけではなく、子を産めぬまま死んだ、母になれぬまま死んだ女性たち、その全ての哀しみがこの女の顔だった。
 女は岡田から離れ、死児をさっきと同じように亜弥に差し出すような仕種をみせた。亜弥は迷わず嬰児を受け取り、胸に抱いた。
「安心して。必ず私が産んであげるから」
 亜弥は言い、女に向かって頷きかけた。その時だった。
「お前もあの女の仲間なんだなっ!」
 突然の怒声がそこに割り込み、振りかざされた果物ナイフがちかりと光った。だが、その刃は女にも、亜弥にも届かなかった。
「最低ね、あんた」
 京子が吐き捨てるように言った。岡田はその場に縫いとめられたように一歩も動かなかった。というよりも、黒い絹糸に似たものが彼の全身に巻きつき、絡め取られて動けなくなっていた。亜弥は驚きに目を瞠った。それは廊下で見えたような気がしたのと同じ光景だった。
 岡田の全身を戒めているのは、京子の長い黒髪だった。髪自体が一つの意思を持った生き物のように動き、果物ナイフを握った手に蛇のように巻きつく。ものすごい力で締め上げているらしく、体格は人並みのはずの岡田は身動き一つできずにいる。やがてその手からぽろりとナイフが落ちた。
「う……っ」
 髪の一束が針のように閃いて、岡田のうなじの辺りに突き刺さった。苦悶の声と共に彼の体は床に崩れ落ちた。京子の髪はそれを待って、岡田の体を解放した。
「どうして彼女がここに現れたのかすら、理解しようとしないなんて」
 彼女は岡田に軽蔑の眼差しを一瞬投げて、言った。
 血まみれの女はもう岡田になど目もくれなかった。この一幕すら関知していないように、亜弥だけを見ていた。亜弥に渡された嬰児から、血はいつしか拭い去られたように消え、死んだと見えていたその顔に生色が戻った。そして亜弥を見上げ、嬰児は笑顔を見せた。それを確認して、女はようやく笑うような表情を見せた。
「もう、この子の親を捜し歩かなくてもいいのよ。あなたはもう休みなさい」
 女に向かい、京子が告げた。女は亜弥から京子に視線を移し、頷いた。やがてその姿は月明かりに溶けるように消えていき、亜弥の腕にあった嬰児も同じように、幻のように消えていった。
「先輩……」
「警察を呼びましょう」
 異常な事態に対する恐ろしさはまだあったけれども、ほのかに温かい気持ちも抱きながら亜弥が呼びかけると、京子は現実的な台詞を吐いた。
「こいつが刈谷さんを殺した犯人だってことは、明らかだわ」
「は、はい」
 有無を言わせぬ調子に、亜弥は慌てて頷いた。岡田の見張りは京子に任せてナースセンターに戻り、一一〇番に電話する。少し迷った挙げ句、うちの当直医がナイフを持って暴れました、と通報することにした。
 間もなく、場所柄と時間を考えてサイレンを鳴らさずにパトカーが到着し、亜弥と京子はナースセンターで事情の説明を求められた。
「見回りを終えてナースセンターに戻ったら、当直室で普通じゃない物音がしたので、二人で駆けつけたんです」
 何をどう説明していいのか判らない亜弥に代わって、京子が一人で全てを説明してくれた。
 当直室で何かがあったのかと駆け込んだら、岡田がナイフを手にして暴れまわっていた。錯乱している様子で、亜弥を襲おうとしたので京子がとっさに当て身を入れたら、うまく気絶してくれた。その前後に口走っていたことからすると、刈谷純鈴を殺したのは彼らしい、と。
「で、岡田の首の傷に心当たりは? 手足に妙な圧迫痕があるんですが、縛り上げたりなんかしませんでしたか?」
「それは、ええ、あ、橘さん」
 曖昧な微笑で流そうとしながら、京子は警察官の中に初老の刑事を見つけてちょっと手を挙げた。彼も京子を知っているらしく、苦笑のようなものを浮かべて近づいた。驚いたのは、それまで応対していた刑事である。
「橘さん、この方とお知り合いですか」
「まあな、昔からの知り合いだ。お前の聞きたい話は俺が聞いとくからさ、京子さんとちょっと話をさせてくれや」
「は、はい」
 まだ若いので橘には頭が上がらないらしい刑事は、首を傾げながら当直室の方に戻っていった。それを見送ってから、橘は京子の正面に腰掛けた。
「相変わらず若いね、京子さんは。俺ぁこんな老けちまったってのに、出会った頃の君のままってやつじゃないか」
「大声で歳のことを言わないで下さい」
 京子は妖しい微笑みを浮かべた。橘は参ったようにがりがりと頭を掻いた。
「これも、あんたらがらみの事件だったってわけかい?」
「死体損壊の被疑者がそれです。岡田の傷も、私が。取り押さえるときに」
「いいよ、いいよ。適当に書いといて、あとは里見んとこに回すからさ。首のはどっかでぶつけたんだろうってことで、手足は俺たちが来るまでビニール紐かなんかで縛ってたってことでいいかな?」
「お願いしますね」
「いいってことよ。京子さんにゃ、借りがうんとあるんだからさ」
 橘は手を振り、慣れた様子で言った。妖怪が起こした事件をうまくごまかしてくれるのは、彼らの存在を知る関係者たちである。橘と京子もそういった知り合いだった。


*   *   *


 結局、その後の捜査で刈谷純鈴を殺した犯人は岡田だということが決定的に明らかになった。不倫相手の純鈴が、どうしても子供を産みたいと言い張ったので、岡田は合鍵を使って部屋に入り、入浴中の彼女を絞殺したのだった。
 その後の当直室での一件は、罪悪感に駆られて純鈴の幽霊という幻覚を見て暴れていたのだということで決着した。
 しかし、死体の腹から胎児が持ち去られていた一件については、どのメディアも全く触れていなかった。その事実は伏せられたのだろうと亜弥は解釈した。その理由が、人間には信じがたい犯人のせいなのか、それとも全く別の理由からなのかは、彼女のあずかり知らぬ所であった。
 そして亜弥は今、京子と二人、とあるビルのエレベーターに乗っていた。
「このままあの事件のことは忘れてしまってもいい。けれども、あなたがどうしても知りたいのなら、あなたが見たものを説明してあげる」
 そう言われて、亜弥は知ることを望んだ。逃げ出したいくらい恐ろしい気持ちと、全てを知りたいという好奇心がない交ぜになった、不思議な気持ちだった。
 目的の五階に着いてエレベーターのドアが開くと、エレベーターホールを挟んですぐ正面に、飴色の重厚な木の扉があった。一羽の水色の小鳥があしらわれた小さな掛け看板がぶら下がり、そこには《バー・とまりぎ》と書かれていた。
 京子が扉を開けると、軽やかなピアノの音色が出迎えた。柔らかな暖色系の光が店内を満たしている。入るとすぐにカウンター席があり、奥にはソファを並べたテーブル席が数セットと、グランドピアノが一台。自動演奏なのか、ピアニストは不在だった。思った以上に穏やかな雰囲気の店内であった。
 カウンターでは初老の男性が黙々とグラスや壜を磨いていた。京子と亜弥をちらりと見て、挨拶代わりのようににこりと微笑む。京子も会釈を返して、さらに奥に進んだ。
「予約席はこちらです」
 ピアノからほど近いテーブル席を、ウェイターの青年が腕で指し示した。京子が先に座り、亜弥はその向かいに座った。ビロード張りのソファの座り心地はふんわりして、彼女の体を柔らかく受け止めてくれた。京子が青年に亜弥を紹介した。
「優后、こちら私の後輩の、岩井亜弥さん」
「はじめまして、ようこそいらっしゃいませ。僕は川崎優后です」
「初めまして……」
 間近で見上げた彼の、人並みはずれた美貌に見とれて、亜弥は上の空で返した。
「メニューはこちらです」
 優后はメニュー表を開いて、二人にそれぞれ手渡した。京子はブラッディマリーを注文し、亜弥はあれこれ迷った末に、当店オリジナルと書かれていた『とまりぎ』というカクテルを注文した。
「説明を始めましょうか」
 優后が注文を携えてカウンターに戻っている間に、京子が言った。亜弥は頷いた。
「私たちは、人間じゃないの。人間の強い『想い』が生み出した命。あなたたちには、妖怪と言うほうが馴染み深いかもしれないわね」
「先輩も……?」
「私は、針女」
 京子は自分の妖怪名を口にしたが、それがどういう妖怪なのか、亜弥は知らなかった。とりあえず『針女』だから『針原』と名乗っているのかと納得しただけだった。
「私は『女は執念深い』とか『まとわりついて離れない』っていう負のイメージと、相手を愛の名で束縛しようとする女の『想い』から生まれた妖怪よ。私たちは大抵は人間とは関わらずに暮らしているけれど、中には人間と同じように生きていくことを選んだ者もいる。ここは、そうした仲間たちのための場所。妖怪が、妖怪として息をするための、ね」
「お待たせしました」
 そこに、優后がグラスを二つ運んできた。亜弥の頼んだカクテルは、下がオレンジ色で真ん中が緑、上が水色の美しい層になったもので、チョコレートの細い棒がとまりぎに見立てて挿してあった。
「彼も、妖怪なんですか」
「優后は濡れ男」
 京子の言葉に優后はむっとしたような目を向け、亜弥に向かって訂正した。
「違います。僕は男の濡れ女です」
「はあ」
 何が違うのか判らないが、これは優后にとっては重大な違いらしい。
「まあ、本題に入りましょうか」
 京子が話題を元に戻そうと、小さな咳払いをした。優后はそれ以上、自分の正体についての説明を加えず、二人の会話を見守るように少し離れた場所に立った。
「病院に現れたのは、何だったんですか?」
「あれは産女よ」
「うぶめ……?」
 首を傾げた亜弥に、京子は説明した。
「お産に失敗して死んだ女の幽霊――その話から生まれた妖怪よ。古い伝説では、自分の赤ちゃんを抱いて現れ、通りがかりの人にその子を抱いてもらって、お産の苦しみを分かち合ってもらう。人間がそれに耐え切れれば、産女は成仏でき、相手に幸運を授けてくれる。でも失敗したら取り殺してしまう、そういう妖怪よ。お産の事故が減ってからは、あまり見られなくなっていたんだけど」
「蘇ったんだね、多少現代風になって」
 隣で聞いていた優后が口を挟んだ。
「お産に失敗するにしろ、中絶するにしろ、産みたいのに産めなかったって想いがあるならそれは同じだから」
「だから、水子は消えないのよね」
 京子は痛ましそうに目を伏せた。後ろめたく思うくらいならば、殺さなければ良いのにと思うが、そうせざるをえない葛藤の狭間に生まれる、哀れな妖怪。
 亜弥は純鈴のことを思った。どうしても子供を産みたいと願ったために、子供と共に殺されてしまった親友を。
「じゃあ……どうして産女は、死んだ妊婦から胎児を持ち去ったりなんかしたんですか?」
「持ち去ったんじゃないわ」
 亜弥の目を見つめて、京子は言った。
「赤ちゃんを助けようとしたんじゃないかしら。彼女は赤ちゃんを抱いていたでしょう?」
「ええ」
「あの産女はきっと、優后の言うように、中絶せざるを得なかった女の無念や恨みが生み出したものだったんだわ。刈谷さんのように、生むことを許されず死んだり、殺されたりした女の『産んでやりたかった』という想いが彼女を呼び寄せて、母親が死んだ後、赤ん坊をとりあげて、育ててくれる父親を捜し歩いていたのよ」
 産女自体に、相手への恨みなど全くなかった。男たちは勝手に、自分が恨まれているものと誤解したのだ。
「だから、私が産んであげると約束したら、彼女は消えたんですね」
 亜弥は自分の手を見下ろした。
「でも産女は、これからも生まれるでしょう」
 京子はため息のように言った。
「産みたくても産めない、産んだけれども死なせてしまった……そんな、不幸な女と赤ん坊の話が消えない限り、産女は消えないでしょう。だけど……」
 少し言葉を切り、京子は亜弥に微笑みかけた。
「あなたみたいな女性がいるなら、いつか彼女たちは救われるわ」
 亜弥は頷いた。産女から託された赤ん坊を、いつか再び抱く日がくるだろう。
 それが産女に彼女が誓った約束だ。
 そして、純鈴との約束。


終(2016.6.10up)

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