戻る



「他人を妬んだことがありますか?」
 そう訊ねられて否定できる人は幸せな人だろう。だが、そんな人は恐らく、滅多にいないことだろう。
 自分に無いもの、足りないもの、必要なもの――それを持っている他人を羨ましいと感じないことなど、ほとんどありえないのではないだろうか? 羨む気持ちは、それを目指す原動力になることがある。
 しかし、どうしても届かぬものを相手が持っていたら――負の力がそこに働けば、それはいつしか怒りへと変わる。たとえ理不尽なものと自分でも判っていても。
 あなたは誰かを妬み、誰かに妬まれているのだ。
 それがたとえ、意識されないものであっても。
 そして意識されない思いほど、強く残るものもない。




双子の首飾り




 姉の優貴が沼本美音子に何か悪いことをしたのかと尋ねられたら、美音子には何も無い、としか答えようがない。反感を抱く理由としては、虫が好かないとか反りが合わないとしか言えないだろう。とにかく美音子にしてみれば彼女の存在自体が許せないのだ。
 最初はこうじゃなかった、と美音子は思う。
 幼かったころは優貴の明るく物怖じしない性格や、頭の良さに素直に憧れ、羨ましいと思っていたのだ。とにかく優貴には欠点というものが見当たらない。彼女がかくありたかった理想が優貴だった。けれどもどう頑張っても美音子は優貴にはなれない。多分、羨みが嫉妬になり、憎しみになったのはそれが原因だ。
 父親も母親も優貴ばかりを可愛がり、誰もが優貴を褒める。美音子はいつもその影でしかない。それで嫉妬するなと言われても無理だ。むろんそんなことは誰にも言いはしなかったけれど、いつでも美音子は姉を妬み、憎んでいた。
 でも――優貴が悪いわけではない。優貴は何も悪くない。本当に美音子が傷ついているのは、優貴と比べられること、両親からの差別だ。それは美音子だってよく解っているのだけれど。
「優貴みたいのが姉さんじゃ、ミネもやりづらいわね」
 友人の何気ないからかいの言葉に、美音子はわずかばかり顔をゆがめた。
「そうね」
 これが双子でさえなかったら、いくらかは諦めがつくのに。顔が同じなだけ、こっちが虚しくなるわ。
 美音子は心の中で悪態をついた。何をしても目立つのは優貴だけ。美音子が優貴よりも得意なものといったら、音楽や美術、家庭科といった受験科目とは全く関係のない科目ばかりで、何の矜持にもなりはしない。せいぜい役に立てるのはそれぐらいとばかりに、家でこき使われるのが落ちだ。
「ねえ、誕生日プレゼントは何が欲しい?」
 昼休み、一緒にご飯を食べていた友達の葉子が尋ねた。
「別に無いなあ。どうせもう一ヶ月も前に終わってるし、要らないよ」
「夏休み中に誕生日が来るからって、拗ねるんじゃないよ」
「拗ねてない。葉子がてきとーに選んでよ。何でも文句言わないから」
「ほんっとに欲のない子だね、ミネは」
 葉子は呆れたように肩をすくめた。欲がないというよりも、抑えすぎて本来自分が何をしたかったのか、何が欲しかったのか判らなくなってしまっただけだ。いつだってお姉ちゃんと一緒、お姉ちゃんとお揃い。本当の自分はどこにいるのかも、もう判らない。
「ミネは、も少し自分を出した方がいいよ。自己主張っていうの? イメチェンして、髪でも染めてみたら?」
「駄目だよ」
 思わず強い口調で美音子は拒絶した。普段おとなしい美音子が思いがけず反発したので、葉子は驚いたようだった。
「真面目だねぇ」
「そういうわけじゃないよ。そりゃ、ちょっと変えてみたいな、とは思うよ。だけど親に叱られるもん。優貴ちゃんだって染めてないのに、私が染めたらきっと勘当だよ」
「いまどき髪染めたくらいで勘当なんて、大げさねえ。ま、プレゼントは適当にミネの好きそうなもの探すよ」
「ありがとう」
 美音子は微笑んだ。
 欲しかったのは、今優貴が制服の下にこっそりつけているダイヤのペンダント。誕生日のプレゼントを選べと言われて親子で出かけた宝石店で、美音子が見つけて一目惚れした。先に見つけて、欲しいといったのは美音子だったのに、買い与えられたのは優貴の方だった。一点かぎりの品物で、二人が欲しがったらどちらかが我慢するしかなかったのだが、親のこの処置は美音子をかなり落ち込ませた。
 代わりに与えられた誕生石のペンダントはあまりに気に入らなくて、どのみち絶対に身に着けるつもりはなかったが、腹立ち紛れに壁に投げつけたら机との隙間に落ちてしまった。二度と拾うことはないだろう。


 美音子は優貴と同じ塾に通っているので、一旦帰宅して私服に着替え、軽食をとってから一緒に出かける。以前は部活が違っていたので放課後の過ごし方は多少違っていたのだが、高校三年になって引退したので、ほとんど一日中を共に過ごしている。塾の退屈な授業を聞き流しながら、美音子はちらりと少し離れた席にいる姉を見た。
(欲しいものなんかないけど、要らないものならあるな)
 ふっと心に浮かんだそんな考えに、美音子は自分で愕然とした。
(私って、嫌な子だな)
(優貴ちゃんがいなくなればいいのに、なんて)
 退屈なばかりの講義がやっと終わって、美音子と優貴は帰路に着いた。地下鉄に乗るために、地下街の入口に入りかけたときだった。ふと、目の前から歩いてきた女が二人に目を留めた。二人もそれに気づいて、二人と一人の視線が一瞬すれ違った。
(あ――)
「美音ちゃん、さっきの人、きれいだったね。モデルかな?」
 優貴がひそひそと囁いた。そんなことには全く注意を払っていなかったので、美音子は振り返って人ごみの中にその姿を探してしまった。しかし、それらしい人はすでに雑踏に紛れてしまって判らなかった。
 美音子のその仕草を見て、優貴は首を傾げた。
「見てなかった? かっこいい感じの人だったよ」
「うん」
 美音子は曖昧に答えた。本当は美音子もその女の存在には気づいていたけれど、容姿よりも通り過ぎる一瞬に合った目のほうが気になっていた。美音子か優貴にかは判らなかったが、二人を見て何かとても驚いたような顔をしたように見えたのだ。
(双子なんて、そんなに珍しいとは思わないけど)
 もしかしたら、彼女の知っている人にでも似ていたのかもしれない。わずかに首を振って、美音子はそれ以上考えるのをやめた。


「お邪魔する」
 《木挽屋》と白抜きされた紺の暖簾がかかった、うどん屋。もう営業時間は過ぎているのだが、帯刀(たてわき)香月(かづき)は気にしたようでもなくがらりと引き戸を開けた。
 細い脚にぴったりした黒いレザーパンツに、カーキ色のシャツをまとった細身の体には、猫科動物のようなしなやかさがある。顔立ちは整っているが、冷たい印象を与えかねないほど鋭い目をしている。髪はざっくりと耳の上あたりで不揃いに切られ、下手をするとぼさぼさ頭に見えてしまう髪型なのだが、手入れがきちんとされているせいか、野性味の範疇にとどまっていた。
 彼女は勝手知ったる様子で店内を突っ切り、誰かいないかと調理場の方を覗き込んだ。すると、店の裏手に続く反対側の扉からぱたぱたと突っかけの足音を立てて、一人の女性が出てきた。こちらは香月とは対照的に小柄でふっくらした面差で、彼女よりも少し年上のようだ。長い髪を後ろで一つにまとめてバレッタで留め、身につけているものもふわりと広がる膝までのスカートで、女らしさを強調してみせる。その服装も柔和な雰囲気も、香月とは好対照だった。
「久しぶりねえ、香月ちゃん」
「この前来てから一週間しか経っていないぞ。物覚えが悪くなったな、沙々良(ささら)
 香月は眉をしかめた。それに対して、沙々良は唇をとがらせた。
「だって、本当に『来ただけ』だったじゃない。すぐに(こだま)を連れて出て行っちゃって」
「仕方ないだろう。刃風会に遅れそうだったんだから」
 香月は刃風会に所属しつつ、このうどん屋を仮の姿に持つ中部の妖怪組織《木挽屋》にも所属している鎌鼬である。彼女の兄、谺は調理師として「木挽屋」に勤めている。同じくこの店の店員である高根沙々良はろくろ首で、実戦には参加しないものの木挽屋の裏方として働いている。
「今日はそれで、どうしたの」
「ここに来る前、面白いものを見た。高校生くらいの双子の姉妹だったんだが、一人がしている首飾りが変わりかけていた」
 出された日本茶をすすりながら、香月は答えた。簡潔といえば聞こえがいいが、素っ気ない喋り方は元からだ。
「妖怪に?」
「今のところは妖怪というほどではない。単なる思いや感情の塊といったところか。だが、時間の問題だろうな」
「それで香月ちゃん、そいつをどうしたの」
「とりあえず見かけただけだ。人を襲うようになったらどうにかすればいいだろう」
 香月は相変わらず仏頂面のまま答えた。とたんに沙々良が呆れたと言わんばかりの声を上げた。
「それまでただ見てるの?」
「それ以外にどうしろというのだ、沙々良。おまえの首飾りが妖怪に化けかけているぞとその女子高生に注意しろ、とでも言うのか? そんなことを言ってまともに取り合う人間などいるものか」
 非難は不当だという口調で香月は言い返した。
「どうした、香月。喧嘩か」
 そこにもう一人の店員が現れた。香月によく似た、細身で柳のように引き締まった長身の持ち主である。冷たいといってもいいような顔立ちもどことなく香月に似通っている。香月は兄を振り返り、眉を寄せた。
「喧嘩などしていない。なりかけの妖怪を見かけたのだが、手出しをしなかったというので沙々良が責めるのだ」
「ふうん? 責めるいわれはないように思うが」
 形勢が逆転して、今度は沙々良が不貞腐れる番だった。
「はいはい、どうせ私が悪いんですよーだ」
「悪いとは言っていないだろう」
 香月は呆れて言い、それから気のない様子で立ち上がった。
「まあいい、どうせ暇だ。あの二人を追いかけてみよう」
「手は足りるか」
 谺が尋ねたが、香月は肯定の意味で首を振り、わずかに笑ってみせた。
「私一人でも充分だ」
 それから彼女は裏口から店の外に出た。夜風が吹いたかと思うと、風に乗ったかのように、香月の姿は消えていた。鎌鼬である彼女にとって、風の合間を抜けてゆくのは地上を駆け抜けていくよりも造作のないことだ。


「これはどういうことなの!」
 鞄を置く暇もなく、帰宅した美音子と優貴を待っていたのは、両親の怒声だった。といっても、それを向けられたのは美音子一人であった。玄関で待ち受けていた両親に、美音子と優貴は靴を脱ぐこともできずに三和土に立ち尽くした。
「なんでこれが、あんな所に落ちたままになっていたの!」
 自分に向けて突き出した母の手に握られているものが、投げつけてそれきりにしていたペンダントであると、よく見るまでもなく美音子には分かった。それが見つかったことに美音子は驚いたが、それが過ぎると、探しても見つからないようなところに落ちたペンダントを探し出してきた母の行動に何ともいえない不快感と気味の悪さを覚えた。
 ペンダントが落ちたのは家捜しか模様替えでもしないかぎり、見つからないような場所だったはずだ。自分のいない間に、母は一体自分の部屋で何をしているのだろう。
「お前という奴は」
 父親も便乗して、わざとらしく嘆息してみせた。両親と妹の間で、優貴はどうしていいのか判らないように視線をさまよわせていた。そんな彼女に、母親が一転して優しい声音で部屋に戻っているようにと告げた。だが、優貴は家に上がったものの二階の自室に行くこともなく、両親の後ろで心配そうに美音子を見ている。
「落としたなら取ってくれと頼めばいいだろう。それを、捨てるような真似をして」
「……」
「せっかく買ってやったものを、どうして粗末に扱うんだ。少しは優貴を見習ったらどうなんだ。まったく、可愛げのない……」
 美音子の中で、何かがぷつんと切れた。
「そんなもの、要らないからよ!」
 自分の声の大きさに、美音子は我ながらびっくりした。こんなにはっきりと、両親に反抗するようなことを言うのはほとんど生まれて初めてだった。両親の方も、美音子の反駁に驚いたようだった。
 一度言葉が出てしまうと、後は勢いだった。
「私がいつ、そんなもの欲しいって言った? 私が欲しかったのは、優貴ちゃんの持ってるやつだったじゃない。最初にあれが欲しいって言ったの、私だったんだよ? 欲しくもないものもらったって、嬉しくなんかない!」
 言ううちにどんどん感情が高ぶってきて、美音子の目に涙が溢れてきた。母が何か言おうとしたが、美音子はその前に続けた。
「いつだってそうよ、優貴、優貴って、優貴ちゃんばっかり可愛がって! あんたたちには優貴ちゃんだけが大事なのね! 私の気持ちなんてどうでもいいのね!」
 叫ぶなり、美音子は迸る感情のまま踵を返し、鞄を力任せに両親に投げつけて家の外に飛び出した。
「美音ちゃん!」
 予想もしていなかった美音子の反抗に呆然としている両親の間を抜けて、優貴がその後を追って駆け出していった。時間差はほとんど無かったので、先を走る美音子に追いつくのはさほど困難なことではなかった。
「待って、美音ちゃん」
 優貴の言葉に従うつもりはなかったのだが、息が切れはじめていたので美音子は立ち止まった。自宅から少し行ったところの公園まで来ていた。昼間には子供が集まっているが、今は二人以外の人影はない。
「一人でいたら、危ないよ」
「優貴ちゃんには関係ない。さっさと帰りなさいよ」
 労るような優貴の口調にまた苛立ちを感じながら、美音子は振り返りもしなかった。遊具が置かれた広場から球技用のグラウンドに続く階段を足早に降りていくと、優貴も続いた。
「美音ちゃんを一人で置いていくなんて、そんなことできないよ。お母さんたちが心配するよ、美音ちゃん」
「私のことならお構いなく。どうせ私のことなんか、あの人たちは心配しないんだから。優貴ちゃんこそ早く戻りなよ。でないと私がまた叱られるじゃないの」
 くるりと向き直って、美音子は言い放った。自分ではそこまで言うつもりはなかったのに、出てきたのは激しい言葉だった。優貴は辛そうな表情で、こみ上げてくるものを抑えるように喉元に手を当てていた。
「……帰ろうよ。これが欲しいんだったら、美音ちゃんにあげる。ね、だから」
 優貴はペンダントを外すと、美音子に差し出した。それが、彼女の中で燻り続けていた怒りを再び燃え上がらせた。つかつかと近づくと、美音子は差し出されたその手を叩くように払いのけた。勢いでペンダントは優貴の手から離れ、どこかに落ちた。
「そんなもの今さら欲しくなんかない! 馬鹿にしないでよ。見え透いた同情なんてまっぴらだわ! いつだってそうよね、優貴ちゃんって。私のこと見下して、馬鹿にしてるくせに、いいお姉さんぶって。優越感に浸るのは楽しい? 優貴ちゃんがそうやって私を庇うたびに、私がどれだけ惨めな気分を味わってきたか、わかる!?」
「美音ちゃん、わたし、そんなつもりじゃ……」
 狼狽した声で、優貴が小さく呟く。美音子はもう、そんな言葉など聞いていなかった。
「優貴ちゃんなんか大嫌いよ! さっさと行っちゃってよ!」
 その時だった。美音子の横を、何かが通り抜けた。それが何かを見定める間もなく、通り過ぎたものは優貴に襲い掛かっていた。
「きゃあっ!」
 優貴が悲鳴を上げる。その「何か」が彼女の首に巻きついたのだ。美音子は声も出ないほど驚いた。優貴の首に巻きつき、締め付けているもの。それは大きな蛇だった。太さは大人の腕程度しかないが、長さは十メートル以上あるだろうか。美音子が目を疑ったことに、その蛇は半透明に透けていた。
「なっ、何、これ……」
「う、ぐっ……」
 美音子ははっとした。
「優貴ちゃんっ!」
 苦しげなうめきを耳にして、美音子は先ほどまでの怒りも忘れて優貴に駆け寄った。蛇に対する恐怖感も、それがどうやらこの世のものではないらしいという事実も、双子の姉の危機の前には雲散霧消していた。半透明のくせに、蛇は確かな実体を持って優貴の首を締め付けている。美音子が引き剥がそうと指を立てても、びくともしない。
「このっ……離れろっ……」
 美音子をあざ笑うように、蛇は鎌首をもたげて彼女の顔を見つめ、シュッシュッと舌をちらつかせた。
「み、美音ちゃん……」
 苦しそうに、優貴がうっすらと目を開けた。まだ意識があることにほっとして、彼女は優貴に頷きかけた。
「優貴ちゃん、頑張って! ぜったい助けるから!」
 蛇と優貴とに意識が集中していた美音子は、背後に現れたもう一つの人影には声が発せられるまで全く気づかなかった。
「どいていろ、そこの女子高生」
「え?」
 はっと階段を振り仰ぐと、街灯の光を受けてほっそりとした姿が闇の中に立っていた。それは今日の夕方、美音子たちを見て驚いた顔をしていたあの女だった。呆然としている美音子に、香月はもう一度繰り返した。
「そいつはお前の手に負えるものではない。どいていろ」
 その有無を言わせぬ調子に圧されて、疑問を挟むこともできず、美音子は二、三歩あとずさった。美音子の腕の支えを失った優貴が、がくりと膝をつく。どうするのかと美音子が見ている前で、香月は右腕を踊るような所作で横に伸ばした。
「!」
 美音子が言葉を失ったのも無理はなかった。その瞬間、香月の掌の横から、鎌のような刃物が伸び出したのだ。彼女の視線など気にもかけず、香月は胸の前に鎌を構えて地を蹴った。続く跳躍は、明らかに重力と自由落下の法則を無視していた。階段から落ちると見えたのに、彼女の体はふわりと一度上昇し、それから優貴に目掛けて下りてきた。
 香月は体をしなやかに宙でひねり、跳躍と着地の間に蛇の胴体を優貴の肩の辺りで真っ二つに切断した。
 思わず美音子は両手で目を覆ったが、優貴の体には傷一つついていなかった。切られた蛇はのたうちながら優貴から離れた。彼女の首に巻きついていた頭部はいつのまにか消え失せていたが、斬られた瞬間に再生でもしたのか、目を向けると再びシューシューと威嚇音を立てながら鎌首をもたげている。
「何だ、きりがないな」
 香月は困ったふうでもなく呟いた。蛇は当座の攻撃目標を香月に変更したらしく、その場に倒れた優貴にはもう目もくれない。美音子はその隙に優貴に駆け寄った。意識を失ってしまったようだが、口許と喉に手をやると、脈もあったし呼吸も確かだった。
 そのすぐ傍で、蛇と香月の第二戦が始まっていた。何又にも分かれた首が香月を捕らえようと繰り出される。香月は両手に生やした刃で何度となく蛇を切り裂くが、蛇の方は一向にダメージを受けるようでもなく、切られたところから平然と次々に新しい頭が生えてくる。蛇の再生が追いつかなくなるか、香月の疲れが出るか、どちらが先かで勝負が決まるだろう。
 美音子は逃げ出すこともできず、一人と一匹の動きを目で追った。どこから伸びているのか判らない蛇の胴体をずっとたどって行くと、花壇の植え込みに消えているのがわかった。そこに、電灯の光を受けてちかりと光るものがあった。
(あれは……!)
 さっき美音子が優貴の手から払いのけて、飛んでいったペンダントに違いなかった。間違いない。蛇はあのペンダントから生えてきているのだ。理屈など判らない。だがそれを見定めた美音子の行動に迷いはなかった。


 倒れた双子の隣にいたはずの少女がこちらに駆け出してきたのを視界の端に捉えて、香月は声を荒げた。
「近寄るな! 怪我をするぞ!」
 彼女の制止に耳を貸さず、美音子は植え込みに駆け寄り、枝に引っかかっていたペンダントを取り上げた。その途端、ペンダントから小さな蛇たちが現れ、一斉に美音子の腕に巻きついてきた。
「きゃ……」
 気持ち悪さと痛みとで手を放しそうになったが、美音子は何とかそれに耐えた。そして、美音子が何をしようとしているのか気づいたらしい大蛇がこちらに頭を向けるのと同時に、ペンダントを香月に向かって投げた。
「これが本体よ!」
「そうか」
 香月はかすかに、笑うように口許を歪めた。ペンダントを追って、蛇もこちらに向かってきたが、香月の方が早かった。蛍光灯の白い光に、鎌鼬の刃がきらめいた。そして銀色の光がペンダント目掛けて閃く。
 ペンダントの鎖が幾つもの断片となって千切れ飛ぶ。それが地面に全て落ちる前に、蛇の体はのたうちながら消えていった。それを見届けて、美音子はその場にへたへたと座り込んでしまった。
「お前の機転で助かった。礼を言うぞ」
 香月が近づいてきながら言った。その手の刃はすでに消えていた。
「あれ……何?」
「蛇帯だ。帯ではなく首飾りが化けたが」
「じゃたい……?」
「嫉妬の妖怪だ」
 美音子の質問に答えながら、香月はばらばらになったペンダントのトップだけを拾い上げた。
「お前は姉を妬んでいたのだろう」
 その一言に、美音子はぴくりと肩を震わせた。だが、否定する言葉を出すこともできなかった。
「その嫉妬が、この首飾りを通して蛇帯を生み出したんだ」
「私が、あの蛇に優貴ちゃんを襲わせたの?」
「そうとも言えるが、それだけではない」
 愕然としたように言う美音子に、香月は首を横に振った。
「まさかお前は、姉を殺そうなどとは思っていなかったはずだ。だが、長い間積み重ねられてきたお前の『思い』が、周りの似たような『思い』を呼び込んでしまったんだ。そしてそれがこの首飾りを媒体にして増幅された」
「……私、優貴ちゃんがいなくなればいいって、何度も思ったわ」
 ぽつりと美音子は呟いた。香月の言ったように、殺意がなかったと自分では言えない。確かに一つ一つの瞬間には、殺意にも似た敵意を抱きもしたのだ。
「小さい頃から、お父さんもお母さんも、優貴ちゃんばかり可愛がってた。だから私、優貴ちゃんみたいになりたかった。優貴ちゃんみたいに誰からも褒められる子になりたかった。だけど、どんなに頑張ったって優貴ちゃんみたいにはなれなかった」
「どうしてそんなに、自分を否定するのだ?」
「え……?」
 美音子は突然投げかけられた質問に戸惑った。香月の表情は、ふいに悲しげなものに変わっていた。
「仮にお前が望むとおり、姉のようになったところで、それでどうする。どんな人間だろうと、お前という人間はこの世にたった一人しかいないのだぞ。それをお前は否定し、殺してしまうのか」
 見下ろす香月の瞳は夜の闇のようにくっきりと黒くて、強い意思を秘めていることを隠さずに鋭い。美音子は耐え切れずに俯いた。自分が優貴のようになりたかったのは、優貴が好きだからではなく、優貴のようになれと両親に求められ、なりさえすれば愛されると思ったからだ。
 香月の言ったとおり、もし美音子が優貴と同じになったら、二人を分けているものはなくなってしまう。だとしたら、今度こそ本当に、二人もいる必要はない。
「……でも、私は変わるわ。変わらなくちゃいけない」
 美音子はしばらくの沈黙の後、呟いた。香月はただ静かに彼女を見ている。
「今までの私は優貴ちゃんを追うばかりの影みたいなものだった。だけど今度は違う。私は、私になる」
 強く言い切ると、香月は微笑んだ。
「私は沼本美音子。『優貴の妹』じゃない。『美音子』になる」
 意思とは全く別のところでまだ震える膝を叱りつけて、美音子はゆっくりと立ち上がった。彼女の手を取って、香月が支えてくれた。
「ではどう美音子が変わるか、私が見ていてやる。私は帯刀香月だ」
「ええ、見ていて、帯刀さん」
 美音子も、香月に応えて笑った。


 そして、三年後。
「お邪魔する」
「いらっしゃい、香月ちゃん」
 香月がいつものように木挽屋に入っていくと、これもまたいつものように底抜けに明るい沙々良の声が出迎えた。営業時間はとうに過ぎ、閉店後の後片付けもおおかた済んでしまっているようだ。机も椅子もきちんと並べられて、沙々良が布巾で机を拭いている真っ最中だった。
 片付けの済んだ椅子の一つを勝手に引っ張り出して、香月は座った。
「それで、急に呼び出したりした理由は何だ」
「実はね、今日付けでうちに新しい料理人が入ったのよ」
 うふふ、と楽しげに笑いながら沙々良が言った。
「そんな話は天宮さんからも、谺からも聞いていなかったぞ」
「言ってるわけないわよー。だって、今日まで香月ちゃんには内緒ってことにしてたんだもの」
 香月が眉をしかめたが、沙々良は気にしていなかった。
「新人さんはね、調理師と栄養士の免許を持ってるのよ。すごいでしょ」
「木挽屋で料理人を雇ったからといって、どうして私に内緒にしたり、呼び出したりする必要があるんだ。ネットワークの方ならいずれ会うだろうし、関係ないにしても呼び出してまで会わせるものか?」
「それがね……」
 沙々良がまだしたり顔で続けようとしていた所に、谺が救いの神のように調理場から顔を出した。
「沙々良、引き伸ばすのはそれくらいにしてくれないか。こっちも待ってるんだ」
「はーい」
 不承不承、沙々良はくるりと調理場を振り返った。
「じゃ、挨拶してもらおうかしら。きっと香月ちゃん、驚くわよ。ささ、出てきて!」
 沙々良に促されて、しばらく背の高い谺に隠れていたものの、彼の隣から少し恥ずかしげにしながら出てきた人物に見覚えがあるような気がして、香月は目を瞬かせた。二十歳ほどの若い女性だった。斜め分けにした前髪を飾りピンで留め、明るい栗色に染められた短い髪の先を指先で弄っている。
「お久しぶりです、帯刀さん。私の事、覚えていらっしゃいます?」
 その女性は親しげな笑顔を見せた。香月は記憶にとどめている人間たちの顔と、彼女とを照会していった。そして、思い当たる相手が見つかった。髪形や雰囲気はずいぶん変わったが、顔立ちはほとんど変わっていない。
「美音子か?」
 香月は驚いたような顔をしたが、次には笑顔になった。思い出してもらえたと知って、美音子はさらに嬉しそうに頷いた。
「よかった、憶えていてくれたんですね」
「私の事は、香月でいい。兄弟がいるし、苗字では判りづらいだろう。――でもまさか、木挽屋に来るなんて」
「あの時、実は天宮さんにこっちのお店のことを教えてもらったんですよ」
 あの時というのは、三年前の蛇帯の一件のことである。その際、美音子は自分の決意のためにも記憶はそのままにしておいてほしいと頼んだが、襲われた優貴の方は憶えていないほうがいいだろうということで、彼女の記憶を封じるために香月が天狗の天宮を呼んだのだ。記憶を操作する合間に美音子とそんな会話を天宮がしていたと、香月は気づいていなかったが。
 家を飛び出したことや、反抗的な態度を取ったことについて、あの後美音子は両親に厳しく責められたそうだった。美音子がどんな気持ちでいたかなど、やはり両親にはどうでもいいことだったらしい。その事に改めて気づいて、両親の評価や、気に入られようとする努力が馬鹿らしくなってしまったのだという。
 それで、進学先についても親の言うとおりにする気は全く起きず、自分の進みたい道に進んだのである。
「あれから私、調理師の専門学校に入ったんです。親はすごく反対しましたけどね。もともと料理は得意だったし、自分の作ったものを人に食べてもらうのがいちばん好きだって判ったから。それで今年から、ここに就職を」
 蛇帯の一件以来、香月は美音子にも優貴にも会うことはなかったので、美音子があれからどうなったのか全く知らずにいた。
「では、今両親とはどうしているんだ?」
「別居してます」
 けろりとした顔で、美音子は言った。
「自立したって言えば聞こえはいいんですけど、要は勘当です。専門学校に入った時に、学費だけは出してやるけど、家には二度と帰ってくるなって言われたんです。でも私は家に未練なんかなかったし、ちょうどいいやって思って」
「そうか。姉とはどうしている」
「前より仲良くなったと思いますよ。優貴みたいにならなきゃ、って気負いがなくなった分、素直になれたから」
「美音子は本当に変わったな」
 香月は微笑んだ。
「だって、香月さんと約束したでしょ?」
 美音子も微笑み返した。
「私が今の私になれたのは、香月さんとの約束のおかげだから。ずっとお礼が言いたかったんです。……ありがとう」
 美音子が差し出した手を取り、香月はかたく握手した。
「――というわけで、今夜は美音子ちゃんの歓迎会といきましょう!」
 沙々良がぱちんと手を叩いた。
「また、急な話だな」
 感動的な気分になっていたのを邪魔されて、香月が眉を寄せる。
「ああ、これもお前には内緒だったがな、香月。天宮さんが栄の方で店を予約してくれている」
「五徳さんと切羽さんも、もう着いてますって」
 携帯電話のメール欄を確認した美音子が付け足すと、香月はほとんどくっつきそうなくらい眉を寄せた。五徳煉は市内で犬を置かないペットショップを経営している五徳猫、切羽は谺と香月の弟である。
「何だ。もう二人とも面識があるのか」
「二日前に、挨拶だけ。いちおう私も、木挽屋の一員になったわけですし、知り合っておかないといけませんから」
 澄ました顔で美音子は言った。取り残された形になっていた香月はちょっとむっとしたような顔をしていたが、やがて表情を緩めた。
「美音子のおかげで、谺がいなくても店を開けられるようになるな」
「天宮さんはいつもいないし、沙々良一人じゃ手一杯――というより、人様に出せるような料理にならないからな」
 谺が頷いてみせた。
「もう、私の料理の腕なんかどうだっていいわよ。さ、早く行きましょ」
 すでにエプロンを外して出かける支度は万全の沙々良が、同じように支度を整えた美音子の腕を取って入口の前で呼んでいた。香月は谺と目を見交わして、にっと笑って歩き出した。


終(2013.7.30up)

戻る
web拍手
inserted by FC2 system