前へ  次へ
Not to fairy tale 6


 穏やかな光と熱を瞼に感じ取り、ロメリアはゆっくりと目を開けた。朝露に濡れたマンネンロウの枝がわずかな風に揺れて、甘く爽やかな香りを立ちのぼらせた。
 ロメリアは無事に一夜を過ごせたことにほっとしながら、目の前に投げ出された自分の指先を見つめた。楓の葉のようだった手のひらは子供らしいまろやかな輪郭を失い、一回り以上も大きく、指も細く長くなっていた。いかにも繊細なその手指は水や風の精霊、木霊たちのそれによく似ていた。
 ほとんど形を残していなかったサンダルはそのままだったが、ドレスはロメリアの体が大きくなるのに合わせてその大きさを変えていた。肉体を変化させることにばかり気を取られていて、身にまとう物のことは全く考えていなかったことに、ロメリアは身を起して全身を見下ろした時に気付いた。
「こんな魔法がかかっていたなんて知らなかったわ。織人たちにお礼を言わなくちゃ」
 ロメリアは感慨深く呟いた。
 疲労困憊した中で、たった一晩しか時間をかけられなかったにもかかわらず、変化は満足のいくものだった。腕も脚も若木のようにすらりと伸び、眠る前には余裕のあった空間が今は狭いと感じるくらいになっていた。傷ついた足や腕、殴られた肩は動かすと今もまだ痛みを訴えていたけれど、体が大きくなったためか傷は比例して小さくなっていて、耐えられないほどの痛みではなくなっていた。
 枝の間から、ロメリアは外の様子を透かし見た。夜の騒ぎが嘘のように、村は朝方の眠りの中で静まり返っていた。だが農民の朝は早い。すでに朝餉のしたくをする煙が立ちのぼる煙突は幾つも見えていたし、人々が畑仕事のために出てくるのも時間の問題だった。立ち去るのならば今のうちで、ぐずぐずしていられなかった。
 ロメリアは生垣全体を覆っているまじないを狭め、自分だけを人の目から隠せるようにしてから、土と枝でできた寝床から這い出した。既に目覚めていたエニシダとマンネンロウは、ロメリアの姿に感嘆の声を上げた。
「まあ、一晩でずいぶん大きくなったのね」
「これは驚いた」
「もう私たちの助けは要らないのかい?」
「ええ、きっともう大丈夫。匿ってくれてありがとう」
 ロメリアは一夜の宿を貸してくれた礼に、エニシダとマンネンロウたちを意地の悪い北風から守るまじないをかけてやり、地下の水脈に働きかけてかれらが水に困る事がないようにしてやった。
 そうして立ち去ろうとしたロメリアに、ひときわ背の高いエニシダが問いかけた。
「これからどこに行くんだい?」
「決めていないわ。ここではないどこかよ。もう一度《遠耳の殿》のもとに戻れればいいのだけれど」
 少し困ったように微笑んで、ロメリアは答えた。追跡の手を逃れるのと、姿を変えるのに使いすぎてしまったため、世界の扉を開くには力が足りなかった。求める世界の限られた場所にたどり着くためには己の力の痕跡やよく知る者の魂などの目印となるものを見つけ出す必要があったが、今のロメリアに残された力では世界を隔てる壁を見つけ出すことさえ難しかった。
 仮にどこかの扉を開くことができたとしても、それが彼女の知る世界である保証はどこにもなかったのである。
 最後の仕上げに、傷ついた足にこれ以上傷を増やすことがないように、尖った石や硬い地面から身を守るためのまじないをかけ、ロメリアは村の境界を目指して歩き始めた。数多くの世界を巡ってきた彼女であったが、同じ世界の中で村を形作る境界を越えるのは実はこれが初めてのことだった。
 夜明けの風に友たちへの別れの言葉を託して、ロメリアは生まれた村を後にした。今度こそ、永遠の旅立ちであった。
 村と森とを後にすると、ほどなく人目のない細い道に出た。行きたいと望む場所も、行くべき場所もないロメリアは、曲がり角に出会うたび先に声をかけてきたもののいる方へと進むことにして歩き続けた。甘くそよぐ西風が、その中に漂う淡い羽持つ虫たちが、彼女の供であった。
 疲れを覚えれば岩棚や木々の枝を屋根にして休み、飢えを覚えれば旅人のために植えられた道沿いの果樹や、実の成る灌木や草から実を分けてもらい、道筋を流れる小川で喉を潤した。人の目には映らぬまじないを使ってはいたが、あまり多くの人がいるような場所にさしかかれば黄昏を待ち、月の光の下で歩んだ。
 そしてロメリアは、妖魔のもとにいた時とは種類を別とする様々なものを目にした。泥と木で作られた貧しい農民の小屋だけではなく、石と煉瓦で築き上げられた壁に自らを囲う商人たちの町を行き過ぎ、青銅の門を鉄の槍に守らせた武人の城を通り過ぎた。そのいずれもさしてロメリアの興味を惹くことはなかったが、町から離れた丘の上に作り上げられた人工の林には彼女は眉をひそめた。
 林を作り上げる木々のあるものは頂点に車輪を頂き、その輻(や)には骨という骨を砕かれた人間の手足が絡められていた。またあるものは横木を備えており、その両腕に果実さながら多くの人間がぶら下げられ、その合間には百舌の早贄にされた哀れな小動物のように串刺しにされた人の姿も見えるのだった。死者の林の足元には、白い花のように骨が散らばり、陰惨を極める光景の中である種の清らかな色彩となっていた。
 時には鎧を纏った男たちが馬を駆り、爪先まで金属で覆った靴で刈り入れが済んだばかりの畑を踏み荒らし、剣や斧、その他の様々な武器をもって屠りあう戦場に行き合うこともあった。それらの全てが行き過ぎた後、ようやく恐々と息を吹き返し始めた村や町を、戦いという名の生活の手段を失った傭兵の一団が強盗団に早変わりし、飢えた狼さながらに襲いかかって略奪と暴虐の限りを尽くすのも、この時代、決して珍しい光景ではなかった。
 こうした人間の明らかな残虐性の発露から、ロメリアは決して目を背けなかった。かつて《深きに住まう者》から聞かされた物語と何一つ根底を変えることない人間の所業を、余すことなくその目に焼き付け、心に留めた。彼女自身にも降りかかりうる運命の姿として。


「武器を持った人間なんて、ろくなものじゃないわ」
 ある時、さんざんに踏みにじられ、青臭いにおいを立ちのぼらせる小麦たちが嘆くのへ、ロメリアは心からの同情を込めた頷きを返した。
「ずっと、私たちを大切に育ててきてくれたのに――かわいそうな人たち」
 傷ついた小麦の足元には、矢の練習台として的代わりにされ、嬲り殺された哀れな農民のむくろが横たわっていた。なけなしの財産と今年の収穫を守るために野盗を止めようと抵抗し、息子たちともども彼らの憂さ晴らしの対象にされてしまったのだった。
 少し離れた村の中では彼の妻と娘たちが同様に、荒くれた男どもの暴力と欲望の犠牲となって虚ろな目を見開いていた。それらのことを、ロメリアは目にする前に、そこに漂う死の気配から読み取っていた。
 牛馬までも根こそぎ奪われ、生き物の姿といえば死肉に群がる虫や烏だけという無残なありさまの村で、ロメリアは夜露をしのぐことにした。彼女にとっては生者よりも物言わぬ死者の方が安全な存在だったから、嫌悪も恐怖もなく一夜を過ごした。一宿一飯の礼に、何かしてほしいことがあればできる範囲で叶えようと申し出ると、小麦や果樹たちは自分たちを育ててくれた人々を殺した連中が、二度と同じことをしないようにしてほしい、と切々たる調子で訴えた。
 そのために必要なのは、地下の水脈や光の通る道を曲げるよりも大きな魔法だったが、少しずつ力を取り戻している今なら不可能ではなかったので、ロメリアは快く引き受けた。彼女自身、行く先々で目にする暴力の嵐とその爪痕にはうんざりしていたのだ。
 数日後、そこから丘一つ隔てたささやかな町で再び略奪と殺戮をほしいままにし、町の人々が冬越しのために蓄えていた食料と酒をたらふく詰め込んだ野盗たちは、めいめい気に入った家や旅籠に押し入ってその日の――或いは数日間の逗留先と決め込んでいた。
 生き残ったが無力な男たちの嘆きや口惜しさに咽ぶ声と女たちのすすり泣きの上に彼らの高鼾が聞こえ出した頃、闇と共にひそやかな魔力が町を静かに包みこんだ。たちまち、町に死のような静寂が降り、生あるものの気配は沈黙した。
 眠りの中で肉体から解放された野盗たちの魂を、ロメリアは呪文によって魔力の網に捕らえ、常の人ならば魂しか行き来することはあたわない世界の一つへと連れ去っていった。そこには《眠り》と《忘却》の大河が流れ、河原には漂白されたように白い葦が亡霊さながらの姿で生い茂っていた。
 川べりで放り出された魂どもは、寄る辺のない迷子の子供のように落ち着きなく揺れ動きながら、一つところにたむろしていた。たとえ彼らが鎧や武器を身につけて眠っていたとしても、生まれながらに世界を渡る力を持つ者やその手になるもの以外は、肉と金属を問わず何一つとして人の世のものは世界の境を渡ることができないため、身を守るものはおろか隠すものすらもなく、彼らはあらゆる意味で無力であった。
 と、そこに幾重にも重なり合う獣の咆哮が響き渡り、血のように赤く巨大な猟犬が群れをなして現れた。目には体と同じく赤々と燃える炎を宿し、燐にも似た青白い鬼火を吐くこの犬たちを率いるのは、闇から抜け出したかと見えるほどに黒い見事な馬に跨った貴人であった。
 犬たちの毛皮にも増して鮮やかな赤い髪は炎の滝のように肩から背へとつややかに流れ落ち、その身を包むマントの青みがかった黒と絶妙な対比を作りだしていた。その顔は雪花石膏の仮面にも似て透き通り、いかなる方向から見定めようとしても必ず影が覆い、しかと造作を確かめることはできないのだった。
 蜘蛛の巣とそこに宿る朝露をそのまま固めたかのような、編み込んだ銀線の網目一つ一つに水晶を散りばめた緻密かつ華麗な鎖帷子に身を固めた妖しの貴人は、怯える魂を目にして呵々と笑った。
「《氷の瞳持つ娘》の招きに応じた我が選択は、この上もなく正しかったと見える。かくも多くの魂を見出すとは、今宵の狩りは常になく愉快なものとなろうぞ。さあ犬ども、奴らを捕らえ、存分に引き裂くがよい。なに、逃げたとてそなたらの鼻があれば見出すのはたやすい。こやつらは罪なき血にたっぷりと染まっておるがゆえ」
 そして貴人が美しい蛇頭の飾りを付けた銀の角笛を吹き鳴らすと、猟犬たちは一斉に魂どもに襲いかかり、追跡を始めた。
 魂のあるものは白い葦の合間へ逃げ込み、剃刀のように鋭い葉に傷つけられて泣き声を上げた。あるものは《忘却》の川に流れる鉄色の水に触れ、名前も、過ごしてきた日々の全ても、己が何者であるかさえも忘れ去った。またあるものは水晶のように澄んだ《眠り》の水中に落ち込み、甘い夢想の中に取り込まれた。恐怖を忘れ、逃げる足を止めた魂を、猟犬たちがたちまち引き裂いた。
 魂の抜けた肉体が遠く離れた世界で夜明けを迎えるまで、妖魔の貴人に率いられた猟犬は嬉々として川べりを走り回った。彼らは眠りの中で迷い込んできた魂を戯れに追い回すのが常であったが、その牙と爪で引き裂くことが許されているのは罪人の魂だけであったから、数多くの魂を狩ることができるまたとない好機に彼らが普段よりも多少羽目を外して浮かれ騒いだとしても無理はない。
 逃げ惑う魂どもの狂乱の中、恐ろしくも美しい妖魔の貴公子はつと馬を止め、《眠り》の川辺にほっそりとした影のように佇んでいた年若い女に、親しい友にそうするように下馬し、手を取って声をかけた。虹色に輝く夜のような黒髪と氷のように薄青い瞳、肥沃な大地を思わせる褐色の肌を持つ、妖魔さながらに美しい娘であった。身にまとうものが泥と土に汚れた服であってさえ、娘の美しさを損なうことはなかった。
 だが、その姿を目にした者はごくわずかで、夜明けを迎えて再び肉体へと戻り得た者の中にそれを語ることができた者は一人もいなかった。妖犬のあぎとを逃れても、この世のものならぬ恐怖に叩きこまれては、いかに屈強な男たちとはいえ狂気の腕から逃れることはできなかったのだ。


(2013.12.10up)

前へ  次へ
web拍手
感想を頂けると励みになります
ネット小説ランキング


inserted by FC2 system