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ロマンティック 後

 扉が閉まるなり、急いでいるのだろうが焦りは見えない滑らかな動作で車が動き出した。
「どこへ行くの?」
「俺が借りてる貸別荘。部屋はまだ幾らでも空いてるから、あんたが来たって問題ない。ちょっと郊外だし、今はオフシーズンだから人もいない。ほとぼりが冷めるまで身を隠すには好都合だろう」
「まだ、世話になるとは……」
「とりあえず、落ち着ける場所は必要だろう。留まるか去るかはそれから考えればいい。これは俺が勝手にやってることだし、ただのお節介だよ。あんたが貸し借りを気にする必要はない。俺も貸しだとは思わない」
 言いかけたキリエの言葉にかぶせるように、クロードは言った。顔は前を向いたまま、視線だけをこちらに投げてくる。
「……俺はなあ、あんたが俺の知らないところで死ぬのは商売が商売だから諦められるし、俺があんたを傷つけるのも、結果として殺すとしてもそれは俺の仕事だから割り切れる。だが、俺の目の前で別の奴にやられるというのは、どうにも気に食わんのさ。つまらん我侭だが、ほんの少しでいい。付き合っちゃくれないか、キリエ?」
 こんな時にそんな声で、不意打ちのように名前を呼ぶなんて卑怯だ。それに、そんなことを言うのも。そうキリエは思ったけれど、何も言い返せなかった。
 それきり会話は途絶えた。車を走らせている間中、クロードは無言だった。彼が何も尋ねなかったので、キリエも何も言わなかった。真っ直ぐに前を向いているその横顔を何となしに見つめている時に気づいたが、彼は髪だけでなく、本来なら銀色がかった淡黄色であるはずの眉にまで髪と同じ色を乗せていた。だから見慣れない髪色にも違和感をあまり覚えなかったのだろう。実に徹底した変装ぶりであった。
 車は市街地を抜けて、「ちょっと郊外」だとクロード自身が告げたとおり街を見下ろす山に入った。うねうねとした道を抜け、木立が途切れたところにひっそりとしたたたずまいの湖が広がっていた。一本しかない道の先には、避暑シーズンの間はここを訪れ、滞在する観光客で賑わうのであろうささやかな集落があった。そこを抜けると、後はもう湖の周辺に点在する別荘らしき邸宅群以外、目に入る建物は無くなった。
 その中の一軒が目的地だった。所々に彩色タイルを飾った煉瓦造りのアーチを連ねたエントランスを備えた、いかにも避暑地の別荘らしい瀟洒な邸宅である。
 先に降りたクロードに続いて痛めた右足を庇いながらそろそろと車を降りようとすると、素早く回り込んできた彼が肩を貸してくれた。思わずいつもの癖で文句を言いそうになったが、純粋にこちらを気遣う好意に対してそれはあまりにも失礼だと寸前で気づき、慌てて別の単語を口にした。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 白と黒の大理石で碁盤模様を描いた玄関を抜けて、湖を臨めるテラスへと続く居間らしい部屋に先にキリエを通してしまうと、クロードは一度車に戻り、二人分の荷物を取ってきた。キリエに鞄を渡し、食材でいっぱいの袋を抱えて台所へと一旦消え、さらに二階へも行ったクロードだったが、やがて小ぶりのアタッシュケースを持って戻ってきた。
「足、出して」
 ソファに座ったキリエの前に跪いて、クロードは言った。予想通り、アタッシュケースの中には消毒薬やガーゼなど、一通りの治療用具が収められていた。驚いたことにメスや鉗子など、簡単な外科手術をこなせそうな器具まで揃っていた。
「なんでそんな、医者みたいな道具を持ってるの」
「俺の親父は医者で、俺も医学生だったって前に言わなかったっけ? ライセンスは持ってないけど、多少の怪我なら診れるぜ」
 その話は聞いたような聞いてないような、曖昧な記憶でしかなかったが、学業の途中で内戦が起こり、徴兵されてそのまま今日まで来たのだという経歴はキリエも憶えていた。ともあれ、ある程度の知識と技術はあってもライセンスが無いというのだけは確実なようだ。
 手当を任せることに少し躊躇いを覚えたが、ここまで来ておいて、治療だけ拒絶するのもばからしい。キリエは細身のスラックスに包まれた右足をちょっと上げてみせた。その足をクロードは跪いた自分の膝に乗せて、靴と膝下までのストッキングを脱がせ、裾をめくりあげた。足首はほんの少し腫れて紫色を帯び、熱を持っているようだった。
「ただの捻挫のようだな」
 言いながら、クロードは湿布薬をそこに貼り、固定するようにきっちりと包帯を巻きつけた。それから彼女の足首を捉えたまま、視線を上げた。
「他に怪我したところは?」
「……肩に弾が掠って、脇腹には当たったわ」
 クロードが見せろという前に、キリエはジャケットのボタンに手をかけ、シャツの前を開いて左の肩をむき出しにした。脇腹を見せるということは防弾ベストを脱いで下着とその下の肌まで男の目にさらすということであり、それにはいささかの羞恥を覚えないでもなかったが、今さらかと覚悟を決めた。
 脱いでソファの横に置いたジャケットの、弾が当たった場所には穴が開いていた。黒いので色の変化は判らないが、血も付着してしまっているだろう。しみ抜きをしてつくろえばまた着られるだろうか、とぼんやり思った。
 肩の治療がしやすいように、クロードは場所を変えてキリエの隣に腰掛けた。そしてしみじみと呟いた。
「ただの移動の日でも防弾ベストを着るっていう、あんたの職業意識には感心する」
「たまたまよ。いつもはこんな暑いもの着ないけど、今朝は何となく、着た方がいいような気がしたから」
「その勘と運の強さは才能だな」
 その口調は揶揄するでもなく、心からそう思っているようだった。
「そりゃあね。そこそこ、鍛えられてると思うわ。お前さんと――『銀の死神』と何度もやり合って、まだ生きてるんだから」
「違いない。あんたを殺すには、周りの誰かれじゃなくて、あんた自身を本気で狙わなきゃならんだろうな」
 くすくすと笑う男の声は物騒なことを言っているにも拘らずどことない甘さを帯びて、耳に心地よかった。
 脇腹の痣には足首と同じように湿布が当てられた。折れていないかを確かめるためにうっすらと浮いた肋骨に沿って滑る指の動きに、思わず吐息が漏れた。ただの触診で、キリエが思わず意識してしまったような意図などないとわかっているのに。彼女の反応を痛みによるものだと誤解したらしく、クロードは少し気遣わしげな声で訊ねた。
「痛むのか?」
 キリエは無言で首を横に振った。クロードもそれ以上の追求はせず、淡々と手当てを続けた。肩の傷は乾きかけた血をガーゼで拭いとり、丁寧に消毒して薄く薬を塗ると、医療用の防水フィルムを仕上げに貼った。
「湿布はまた替えてやる。こっちのフィルムは、治るまで貼りっぱなしにしておけ。でもシャワーを浴びるくらいは問題ないが、こすったり、長風呂したりすると剥がれやすくなるから気をつけろよ」
「ありがとう。助かったわ、正直」
 その言葉は二度目だったこともあり、すんなりと出てきてくれた。するとクロードは全く厭味のない笑顔を見せた。
「じゃ、飯にしようか?」
 そう言われて、自分が空腹だったことにキリエは気づいた。マントルピースの上に置かれている時計を見てみると、既に正午をだいぶ過ぎていた。彼女の表情を見て、クロードはどこか楽しげに立ち上がった。
「待ってな。これ戻したら、すぐ用意するから」
「手伝わなくていい?」
 するとクロードはにやりと笑った。
「あんたの手料理ってのもなかなか魅力的だが、それはまた、いつかの機会に。今日は俺に任せておけよ。足を痛めてるんだから、治るまでなるべく動かない方がいい」
 そう言ってクロードは小さく手を振り、アタッシュケースを持って二階に上がった。そして再び降りてきてキッチンへと向かった彼の背には、見慣れた銀髪が揺れていた。やはりあの茶色の髪は鬘だったのだろう。
 足を負傷していたって、座って作業すればいいのではないかとキリエは思ったが、意地を張って悪化させては元も子もない。言われたとおり待つことにした。しばらくすると包丁を使う音と食欲をそそる香ばしい匂いが微かに流れてきはじめ、さらに十五分ほどしてからクロードが戻ってきてダイニングへと案内された。軽く焼いたバゲット、炒めたソーセージとハム、ミモザサラダにコーヒー。それがクロードの用意した昼食だった。
「で、何があった? 大体は予想がつくがね、話してもらわなきゃ判らないこともある」
 サラダを取り分けながら、クロードが尋ねた。キリエは肩をすくめた。
「正直に言って、どうしてあんなことになったのか私にもわからないわ。護衛の依頼を受けて来たんだけど、着いた途端に迎えの車が爆破されて、迎えに来てた案内役が逃げ出した。追いかけたら、そいつに近づいてきた車の中から撃たれて、後はお前さんも見たとおりの追いかけっこ。案内役は何も知らなかったみたい。護衛対象を狙っている相手以外、襲撃してきた連中に心当たりはないわ」
「なるほど」
 クロードは短い相槌を打った。それから二人は少し黙り、食事に集中することにした。殺し屋とシークレットサービスが仕事がらみの話をしたら、主義主張の違いからせっかくの料理がまずくなるような言い争いになるのは目に見えていたし、かといって当たり障りのない話となると、何を話していいのかわからなかったからだ。
 食後にもう一度淹れてくれた、ほのかに甘いカフェオレに口をつけながら、キリエはずっと尋ねたかったことを聞いた。
「ところでクロード、お前さんは何でこの町に?」
「誓って言うが、純粋に休暇を過ごしに来ただけだよ。夏を過ぎた避暑地ってのが狙い目なんだ」
「本当に?」
 疑念もあらわな問いかけに、クロードはくすりと笑った。
「何なら俺が仕事をしないように、見張っていれば? せいぜい俺をここに足止めしてみせてくれよ。どうせその足じゃ、依頼をこなしに行くってわけにもいくまい?」
 キリエはむっつりと黙りこんだ。その沈黙が何よりも雄弁に、彼の言葉を肯定してしまうことに気づいてはいたけれど。
「まあ、とにかく。仕事じゃないんだから俺がここにいる理由なんて、あんたにとっちゃどうだっていいじゃないか。問題はあんたの方だよ。判っちゃいるだろうが、あんたを狙ったのはまず間違いなく、マフィアの連中だ。そう簡単に連中が諦めるとも思えない。町中のホテルに手が回ってると考えた方がいい。だから今日は泊まっていけ。いや……その足が治るまで、ここにいな」
「そこまでしてもらう義理はないわ」
「狙われてるって判ってるあんたを、一人で町に戻したら何が起きるか判らないし、あんたに何かあったら俺の寝覚めが悪い」
「私に何があったって、今回はお前さんに関係ないことでしょうに。……何を企んでるの?」
 クロードは大げさに肩をすくめ、両腕を広げてみせた。
「何も企んでやしないさ、心外だな。こんな時まで疑ってかからなくてもいいじゃないか。言っただろう、俺の知らないところで知らない奴にあんたがやられるのは我慢ならないんだって。言わなかったっけ? あんたは実に腹立たしい商売敵だが、それだけ俺にとって特別なんだよ」
「わ、わかったわよ、クロード!」
 彼と仕事抜きで二人きりという状況はただでさえ心臓に悪いというのに、このままでは呼吸を止めかねない台詞が飛び出してくると気づいたキリエは思わず大声を上げた。互いに想いがあることは既に確かめているが、ただ事実を確認しただけといった感じの告白で、それ以来何の進展もなかった。愛を語り語られるなんて、自分たちの柄ではない。少なくともキリエはそう思っていた。
 クロードは本当に判っているのだろうかと問いたげだったが一旦言葉を切った。
「とにかく、面倒事に巻き込まれているのをこうして知ってしまった以上、知らんふりはできない。恐らく俺も無関係というわけじゃないし」
「え? あれに、お前さんが関わってるの?」
 キリエの声はたちまち険を帯びた。
「どういうこと? まさか、お前さん――」
 爆弾や銃で狙われ、襲われたのも、そこに丁度よくこの男が現れて助けてくれたのも、全てはクロード自身が立てた計画――商売の邪魔になる自分をここに足止めするためのものだろうか――だったのかと思うと、一瞬でも彼の存在に安堵してしまった自分が情けなかった。この男に、決して心を許してはいけなかったのに。
 キリエは唇を噛み、怒りと自己嫌悪とで黙り込んでしまった。クロードは彼女の様子を横目に見て、深々と感慨たっぷりな息をついた。
「俺の言動の裏をいちいち探るのは、あんたの悪い癖だぜ、キリエ」
「探られるようなことをしているお前さんが悪いんじゃない」
 せいぜい厭味な言い方をしてみたが、クロードはちょっと眉を上げてみせただけだった。こういう時、キリエは彼との絶対的な歳の差を思い知らされる。
「まあ、それに関しちゃ否定はしないよ」
 馬鹿にされているわけではない。けれども、相手にされていないような、手にする寸前でするりと逃げられてしまうような、もどかしい感覚。
「あんた、前にもこの街で仕事をしたことがあるだろう」
 キリエの心をよそに、今度はクロードの方から尋ねてきた。
「……ええ。二年くらい前に」
「そいつはフェデリコ・ジェミニアーニって名前じゃないか? 今回の依頼主もそいつだろう?」
「ええ、そうよ。どうしてお前さんがそれを知ってるの。もしかして……」
 彼女の言葉に答えるようにクロードはゆっくりと目を伏せ、たっぷり十秒はそのまま沈黙を守った。フェデリコはこの町を拠点として、近辺を取り仕切ってるファミリーのボスだった。
「言っとくが、そいつの暗殺だの護衛だのって話と俺は無関係だ。先代の頃に何度か依頼を受けたことがあるから、部下の名前も幾らか知ってるってだけだ。が、まあ、そこいらの話は今は関係ない。二年前に依頼を受けたって言うなら、ボスが代替わりした時に大きな抗争があったのはあんたも知ってるだろう」
 キリエは頷いた。彼女の依頼人となったフェデリコ・ジェミニアーニと、敵対するエミリオ・モリナーロとのナンバーツー争いが、そのままボスの座を巡る争いとなったのだ。それこそが彼女が一回目の依頼を受けた理由だった。
「義兄弟の契りまで交わしたファミリーだってのに、互いに殺し屋を送り合うなんて、マフィアのボスってもんはそうまでしてなりたいものかしらと呆れたわよ」
 そうした抗争のおかげで日々の糧を得ている当の殺し屋である男は、その発言に小さく片方の眉を上げただけだった。
「ともあれあんたに護衛されてたフェデリコは無傷で生き残り、みごとエミリオを追い落としてボスになった。そうだろ?」
「そうね。それでどうして、私が狙われるって話になるの」
「まあ……これは想像なんだがね、あんたに来た依頼はあんたをここにおびき寄せるための口実だったんじゃないかな」
 クロードの発言に、キリエは口に含んでいたカフェオレを危うく噴き出しかけた。
「口実?」
「ああ。恐らく、フェデリコからの依頼というのは嘘。連中の実際のターゲットはあんただ。でなければどうして、着いて早々のあんたを殺そうなんて話になる? 狙ってるはずの依頼人はそこにいないのに」
 確かに、クロードの言うとおりだった。護衛対象者と共にいる時に襲撃されるのは相手のターゲットがそこにいるのだから当たり前だし、普通である。けれども護衛だけを狙って殺そうとするのはいかにも不自然だ。
「それに、これがあんたを殺すための罠だと考える理由がもう一つある」
「まだあるの?」
「俺が変装してた理由でもあるんだが、ここに来るちょっと前、ある組織から暗殺の依頼があった。某月某日に午前十時四十分着の列車でこの街に来る女を殺してくれ、というものだ。で、渡されたのがこの写真」
 彼が言った日付は今日のもの、列車の到着時刻はまさしくキリエが乗ってきた列車のもの。そして見せられた写真は隠し撮りであるのが明らかで、ピントこそ合っていたが小さく写ったものを拡大したのか画質は粗く、正面からの顔ですらないが間違いなく被写体は自分だ。すうっと血が引いていく感覚があった。恐怖、気味の悪さ、そんなものがない交ぜになった、腹の底にわだかまるような気持ち悪さ。クロードはもの思うように目を細め、形の良い整えられた指先をキリエに向けた。
「ターゲットの通り名は『紅い神盾(アイギス)』――つまり、あんただ」
「『銀の死神』……お前さん、それを受けたの?」
 キリエは微かな声で訊ねた。声が震えないようにするのが精いっぱいだった。だがクロードは首を横に振った。
「なんでそういう結論になる? 断ったよ。報酬は悪くなかったが、理由がくだらなさすぎた。あんたがフェデリコを守ったせいで、我らがエミリオはボスになれなかったばかりか命を落としてしまった、だと。逆恨みもいいところじゃないか。馬鹿馬鹿しい。エミリオを殺った奴を殺れって言うならともかく」
 表情は相変らず飄々としている。けれど心の底からそう思っている、ということがありありと読み取れる口調だった。
「とはいえ俺が断ったからと言って、連中があんたを殺すのを諦めるはずもない。こんな物騒な話を知っちまった以上、あんたに忠告しようかと思ったが俺の話を素直に信じるあんたじゃない。かといって見過ごすわけにもいかない。だから変装して、こっちで休暇を過ごすことにしたんだ」
 赤の他人の――どころか、商売敵でさえある、キリエを守るために。
「お前さん……ばかじゃないの」
「馬鹿で結構。あんたほどいい女のためなら、馬鹿になるってのも悪くないさ」
 ふふ、とクロードは笑った。その笑みはいかにも幸せそうで甘ったるくて、キリエはいたたまれない気持ちになった。
「よしてよ、そんなのお前さんらしくない」
「俺もそう思うが、たまには俺だって、誰かを守りたいと思うこともあるんだよ」
「だから、そういうのが……」
 お前さんらしくないと言いかけたが、クロードが絡むと自分だって充分自分らしさを失っていると気づいて、キリエはもうこの件に関しては口をつぐむことにした。その代わり、冷静な仕事モードに切り替えた視線で中断された話の続きを促す。
「他に、何か気付いたことはないの」
 クロードもすぐに意識を切り替えたらしく、表情を引き締めた。
「この件にはフェデリコも一枚噛んでる――そこまでいかなくとも、旧エミリオ派の動きを黙認していると俺は見た」
「どうして」
「裏社会の連中は女を対等の存在と見てないどころか、男の付属物とか道具ていどにしか思ってない節がある。特にこの国は女性蔑視の風潮が根強く残ってる。そういう社会では、あんたに――女に守られてボスになった、というのは汚点でしかないんだろう。だったら最初からあんたに依頼しなきゃよかったんだと思うんだが。……ともかく、そうした事実を前にして、フェデリコは泰然と構えてられるような器量じゃないと俺は思う」
「お前さんの言うとおりなら……プライドを守りたいフェデリコと、新しいボスに歯向かうほどの度胸はないけれど誰かに恨みをぶつけたい旧エミリオ派のターゲットが一致した、ということかしら。けれどフェデリコの護衛中に私が殺されたら、彼はまた女に守られて命を拾ったと嘲られる。だから、私が彼と会う前に殺そうと考えた……」
「それも充分ありえる話だと思うよ、俺は」
「怪我のことがなくても、フェデリコと今すぐ連絡をつけるっていうのはやめた方がよさそうね。お前さんなんかの意見に従うのは癪な話だけど」
 今まで意見も行動も対立することしかなかったせいか、素直にクロードの意見を認めて従うのは何となく負けたような気になるので、キリエは捨て台詞めいた言葉を付け加えた。けれどやっぱり、クロードは彼女のそんな強がりなど全て見抜いて判っているのだとでも言いたげな表情を浮かべて、目を細め笑っただけだった。
 それからの数日間は、現実味が薄いという意味で、キリエにとっては夢のような日々だった。支えなしでは動けないキリエのために、クロードはその日のうちに一階の寝室を彼女の部屋として整え、翌日にはどこからか松葉杖を借りてきてくれた。彼に、守るべき者として扱われるのは初めてだった。生活の端々に見える濃やかな配慮や傷に触れる手の優しさは、心地良いような、むず痒いような不思議な感覚をもたらした。
 一つ屋根の下で同じ時間に目を覚まし、同じものを食べ、とりとめのない穏やかな会話をしたり、決定的な対立にならないよう気をつけながら皮肉の応酬をしたり。そんなふうに彼と過ごすとは思いもしていなかった、まるで普通の恋人同士のような時間。
 仕事で来たのではないという言葉どおり、クロードは毎日のように出かけはしたものの、外出は長くても二時間ていどだった。彼は食料と日用品を買うためだと説明したし、行って戻ってくるまでにかかった時間も、買い物の内容から予想される所要時間とさほど変わらなかったが、マフィアの動向を探りに行ったのだろうとキリエは思っていた。思っていたが、何も言わなかった。クロードもまた、何かしらの情報を得ただろうがキリエには何も告げなかった。
「もう、痛みはなさそうだな」
 眠る前、二階にある自分の寝室へと引き上げる前に、キリエの足の治り具合を確かめるのがクロードの日課となっていた。足首の腫れはすっかり引き、青紫だった痣も薄れてぼんやりとした黄色の斑のようになっているのを見て彼は呟いた。床に片膝をつき、捧げ持つようにキリエの素足に触れて、足首を動かしてみる表情は真剣そのものだった。
「関節も固くなっていないようだし……。歩くのに支障はないだろう?」
 微笑みを浮かべて見上げるクロードに、現実を突き付けられたような気がした。最初の日、足が治るまでここにいればいいとクロードは言ったが、つまり完治したらキリエがここにいる理由は無くなる。それは、この夢のような時間の終わりを意味するのだ。彼女の浮かない表情からそんな心中を悟ったのか、クロードは微笑を苦笑に替えた。
「治るまでいればいいと言ったのは俺だが、何も治ったらすぐに出ていけと言ってるわけじゃないぜ。あんたを放り出す気なんかないから、心配するなよ。それとこれとはまた別の話なんだから、ゆっくり考えればいい」
「誰もそんな事、心配してるわけじゃ……」
 キリエはとっさに否定しようとしたが、図星を指された気まずさもあって語尾は曖昧に消えてしまった。もしかしたら彼は、この穏やかな生活を終わらせたくないがために、治りきっていないとキリエが思いたがっていたことに気付いていたのかもしれない。
「あんたにとっちゃ業腹かもしれないが、俺はあんたと何でもない時間を過ごすの、結構気に入っているよ。ままごとみたいなもんだってことは百も承知だがね」
 ぽつりとクロードは独白めいた言葉を零した。
 銃口を向け合うことも、スコープ越しに互いの姿を窺うこともなく、敵意も殺意も抱かずに同じ空間で過ごせること。それはキリエにとっても確かに幸せと呼べるものだった。だが、ぬるま湯のような日々にただ安閑と浸って良いのだろうか、という奇妙な背徳感と恐れが彼女の口を重くさせた。
 私も同じ、と返せる性格ならば苦労はなかった。口を開いたら、全く可愛げのない、棘のある言葉しか出てこないだろう。本当はそんな事、かけらも思ってやしないのに。もしキリエが逆の立場なら、こんなひねくれた、扱いづらい相手になどとっくに愛想を尽かしているところだ。
 だが彼女の物言いや態度を、いつだってクロードは苦笑一つで赦してしまう。沈黙に隠れた逡巡や錯綜した想いすらも。彼はどこか寂しげにも見える笑みを浮かべた。そうして出てきた言葉は、いたって事務的だった。
「じゃあ――肩の具合を診ようか」
 キリエはシャツのボタンに手をかけた。肌を晒してみせることよりも、ただ一言を紡ぐだけのことがずっと難しいなんて、自分でも不思議だった。
 肩からシャツを滑り落とし、現れた肌に指を滑らせながらクロードは微笑んだ。弾丸が掠めた傷は皮膚を薄く削り取っただけだったので、三日ほどで防水フィルムは役目を終えていた。今はもう、かさぶたも取れてうっすらとピンクがかった新しい皮膚が張っている。それはキリエから聞いて彼も知っていたが、実際目にするのは治療をした日以来だった。
「よかった。これくらいなら痕は残らないな」
「……何を今さら。お前さんはさんざん傷を付けてくれてるくせに。容赦なく撃ってくれるものだから」
「俺が付けるのはいいんだよ。あんたに消せない傷を残せるっていうのは気分がいい」
 その声はなぜか甘ったるく感じられた。クロードは言いながら脇腹へと指を滑らせ、うっすらと浮き上がる肋骨を辿るように触れた。はっと息を詰めると、いつかの繰り返しのように、クロードが訊ねた。
「まだ、痛むのか?」
 だがその声に気遣わしげな色はなく、からかうような笑みが口元に浮かんでいた。キリエは涼しげな顔をしているくせに、その奥には確かな熱を宿したブルーグリーンの瞳を睨みつけた。
「分かってるくせに――」
 挑むように男の襟元を掴んだ指先は、熱病めいて熱かった。


*   *   *


 ガラス越しに強烈な太陽の日差しを浴びせられて目覚めた時、クロードの姿はそこには無かった。
 久々の疲労もあって熟睡してしまったのだろう。隣に寝ていたのだから気付きそうなものだが、いつの間に出ていったのかも判らなかった。愛している、愛されている――とは思う。けれど共に目覚めを迎えるような甘い関係でない。そんなことは百も承知だが、一言もなく去られてしまうと心の奥のどこかが傷つくような気がした。
 クロードが戻ってくるにせよ、こないにせよ、いつまでもベッドにいるわけにもいかない。体にはだるさが残っていたし、まだ何となくぼんやりしている頭をはっきりさせるため、キリエはとりあえずシャワーを浴びることにした。
 バスルームを出て食堂に目を向けると、きちんと片づけられたテーブルの上に白い封筒が置かれていた。中にはこの街を発つ電車の切符が一枚と、短い文章がしたためられた便箋。丸みの少ない、書き終わりが鋭角に跳ねた文字は確かに、クロードの筆跡だった。
『今夜の電車で街を離れろ。後のことは心配するな。車を置いていくから、移動に使ってくれ』
 一人で外に出るな、町に戻るなと口うるさく言っていたはずなのに、真逆の指示が書かれていたことを不審には思わなかった。彼が殺し屋として培ってきた危機察知能力は悔しいながら一流だ。もう安全だと確信が持てたからこその指示なのだろう。
 ただ、もう彼は戻ってこないのだと理解が及ぶにつれ、漠然とした喪失感があった。夢は覚めるもの――そんなこと、最初から分かっていたはずなのに。
 とある町を支配していたマフィアが、ほとんどの構成員を殺されて一晩のうちに壊滅したというニュースを耳にしたのは、その数日後のことだった。その町の名とファミリーの名に、キリエは瞠目した。
 百を下らぬ人数を皆殺しにするなど、銃器を使ったとしても複数犯でなければ到底無理だが、マフィア同士の抗争か内部抗争か――としきりにニュースでは騒いでいたけれど、犯人はたった一人の男、銀色の死神だと、キリエには判った。
 彼が強い信念を持って仕事をしていること――たとえその結果として自分が殺されようとも、自らもその理由に納得しなければ、決して殺しには手を染めないということ、仕事に個人的感情を挟まない男だということをキリエは知っている。
 なのに、彼は命よりも大切にしている信念を枉げた。
 その理由は何なのか、判りたくもないが判ってしまう。全ては自分の存在だ。キリエを死なせない――他人には殺させないため。クロードが助けてくれたからこそ前回は無事に逃げおおせたが、同じことが起きたら二度目はないだろうとキリエ自身も思う。
 だからだ。
 男が命をかけるほどの信念を自分のために枉げてくれたという、優越感にも似た女としての甘い喜び。それは同時に、自分のせいで男が手を汚してしまった――止められなかったという職業人としての苦さも含んでいて。胸に込み上げてくるものをせめて紛らわせたくて、嘯いてみた。
「人殺しの理由にされちゃ、たまったもんじゃないわ」
 愛しくって、憎らしい人。こんなの、ロマンティックでも何でもない。


【ロマンティック 終】
(2015.10.10up)

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