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愛を巡る挿話

【月のこころ】


 馴染みのコーディネイターから聞いて、同じ町で仕事をしていたのは知っていた。けれど私たちの仕事は――特に彼の仕事は、期限を切られていないかぎりいつ終わるのかを明確にできない。だから契約を終えて依頼人のもとを去った後、駅に向かって歩いていた途中で所在なさげに煙草をふかしている彼の姿を見たのはきっと偶然で、待ち合わせをしていたわけでもなんでもない。待ち伏せは、あるかもしれないけれど。
「よう。仕事は終わりか?」
 私を見つけると、微笑みの欠片のようなものを浮かべて軽く片手を上げ、親しげに声をかけてくる彼を無視することはできなかった。これがもし、対象が重なっていて、なおかつ彼の方が仕事を成功させていたら一言だって口を利きたくない気分だったけれど、そうでないなら彼がどこで誰を殺そうとそれは彼の仕事、その成否も含めて私には関係のないことだ。
「お前さんこそ」
 彼のターゲットになるのはたいてい、有名人――属する社会が裏か表かはその時々による――と相場が決まっている。夕方に聞いた最新ニュースでは誰かの訃報や襲撃事件などは聞かなかった。ということはまだ発覚していないか、それとも他殺とは判らない形で殺したかのどちらかだろう。
 彼はにやりと口角を上げた。
「終わった仕事はさっさと忘れる主義でね」
「そう」
 終わったということは、そういうことだ。どこかの誰かの死を知っても、それを目の前の男がもたらしたのだと理解していてさえ、私の心は全く平静なままだった。私にとっての日常は命の重みを鈍磨させる。因果な商売だ。
「今から帰りか?」
「ええ」
 頷くと、彼は楽しそうに笑った。
「そりゃあいい」
 何がいいのか判らない。そして何だって彼は、当然のように同じ方向に歩きだしていて、私は彼の半歩後ろをついて歩いているのだろう。彼の後姿を見るのは不思議な感じだった。うなじのあたりで一つに束ねた銀髪が、黒いスーツの背中で揺れている。昼間には淡い金色に近いけれど、夜には青っぽくも見える、滅多に見ない色。
 ふと空を見上げて、目に入ったものから思い浮かんだ一つの言葉。それを私はそのまま口にしてみた。
「月が綺麗ね」
「ん?……ああ」
 彼は不思議そうな顔をして空を見上げた。それはそうだろう。今夜は満月でも何でもない。九日目か十日目の、何とも半端な形をした月が空にかかっている。しかもあいにくの薄曇りで、月光すらも曖昧にぼやけてしまっているから、とうてい「綺麗」とはいえない。けれどもあえてそう言ってみたのは、その言葉が別の国ではかつて、全く別の言葉の訳として使われたことを知っていたから。
 きっと、彼には意味の判らない言葉だと思われただろう。或いは少しずれた美的感覚の持ち主と思われたか。けれどそれでいい。はっきりと伝えたわけではないが、私は彼が好きだ。その本心を確かめたことはないし、同じと断言することはできないけれど、彼も似たような思いを持ってくれていると思う。
 たとえそれが彼の気まぐれな優しさ、或いは傷の舐め合いであろうとも、私はそれで満足しなければならない。正面から愛を訴えて、同じものを返してもらうことをを乞えるほど、私は図太くはない。いや……恐ろしいのだ。拒絶されることが。何度も肌を重ねていながら、そこに愛があるのか、或いは無いのかを確かめるのが恐いのだ。
『あなたを、愛しています』
 言葉にする勇気のない私の、精一杯。
「月が……?」
 怪訝そうな顔をして首を傾げた男はしばし空を眺めやり、何かを考えているようだった。ビルとビルの隙間から覗く空は狭い。雲がかかっていることもあるけれど、ネオンに邪魔されて本来の光がどんなものなのかも判らない。
 彼はやがてこちらを振り向いてふわりと夢見るように微笑んだ。振り向いた動きで銀色の髪がさらりと揺れて、蒼っぽく輝く。月の光などよりも、そちらの方がずっと美しいと私は思った。
「月が綺麗だな」
 そう言いながら、彼は月など見てもおらず。じっと私だけを見つめていた。或いは、私の目の中に映る月を見ていたのか。
「っ……」
 ただ、見たものへの感想を告げる言葉。なのに、まるで甘ったるい言葉を耳に注ぎこまれたように、頬にじわじわと熱が集まるのが判る。確かにこれは、愛を告げる言葉なのだとようやくに理解した。或いは、想いがそこにあれば、どんな言葉に託してもそれは伝わるものなのだろうか。
 だとすれば――彼は私を愛している?
 そこに思いが至った瞬間、心臓がさらに大きく跳ねた。早鐘を打つ心臓の音が体内で響き渡る。火が出るのではないかと思うほど頬が熱くなった。
「なあ。もう一度言ってくれないか、さっきの台詞。何なら、別の言葉でもいいが」
 引き込まれてしまうほど真剣な表情で、彼が言った。ごまかされてなどやらないと、その目が告げていた。
「……月が……綺麗ね」
 喉に絡む声を何とかして絞りだせば、彼は小さな声を立ててくすぐったげに笑った。
「俺もだよ」
 そうして、それから。
 愛している――と。
 婉曲に訳された借りものの言葉ではなく、私たちの言葉を、その唇が紡いだ。


(月のこころ・終 2012.4.30up)

【Things we said tonight】


 虫の知らせとでも言うのか。
 護衛のために狙撃者を撃つのは当たり前だし、護衛対象を庇って私が撃たれるのも当たり前だ。私は彼を傷つけるし、彼も私を傷つける。時には互いに殺意をもって傷つけあう。それが私たちの仕事なのだから、普段ならそんなこと気にはしない。
 銃で撃っても、視認できなければ当たったかどうかなんて私には判らない。ましてや他人の撃った弾の行く先など。けれどもどうしても、今回は、狙撃に失敗して撃ち返された彼が無事であるかどうか確かめなければならない気がした。
 彼がこの近くでねぐらにしている家の一つを、私は知っていた。彼がそこに逃げ込むかどうかは判らないが、可能性はある。そして私はその可能性に賭けた。さほど遠からぬ山の中に、周囲の建物からぽつんと離れて建っている、ログハウス風の別荘だ。近づく前から、その一室に灯りがついているのがわかった。そこにきっと彼がいるのだと思うと自然に足が速くなる。
 彼がいたとして、それからどうするのかなどは考えていなかった。
 鍵のかかっていなかったドアを開け、その光景を目にした瞬間、灯りを目にして拡がりかけていた安堵は一瞬にして霧散し、ぞっと肚の底が冷えた。
 ソファの背もたれに散らばる銀色の髪。月光を透かすかと見えるほど青白い肌。一切の色彩を失ってしまったようなその姿。それなのに血だけは赤い。まるで背中の下に赤い布でも広げたように、ソファの背もたれから座面まで血で濡れている。
 悲鳴を上げなかっただけ、ましというものだ。
 物音と気配で侵入者に気づき、彼が伏せていた瞼を上げた。ただごとではない出血量にも拘らず、明晰な意識を感じさせる澄んだ眼差しで彼は私を見た。私が追いかけてきたことに驚いた様子も見せず、冬の湖を思わせる静かな目でじっと見つめただけだ。
「やっぱり当たってたのね。貫通したの? 医者には……」
 診せたのか、と言いかけて私は言葉を切った。医者に診せていたらこんな状態で、こんな所で倒れているわけがないのだ。そんなこと、問うまでもない。私の沈黙を受けて、彼は自分の傷のあるあたりに視線を落とし、それからまた目を上げて私を見上げてきた。痛みなど感じていないように、まるで受けたのはかすり傷だとでもいうように、いつもと変わらない表情でくすくすと笑う。
「あんた、俺が何なのか判ってるの? 堅気の医者になんて行けるわけないだろう。放っといてくれよ」
「だから、あんたみたいなのを診る医者がいるんじゃない。ここならドクター・フェルがいるでしょう」
「この程度、自分で何とかできる」
 確かに、彼の体に刻まれた傷の幾つかは、彼が自分で縫ったものだ。それは知っている。けれども大量に出血したこんな状態で、まともに手当なんてできるはずがない。そもそも、さほど深くない切り傷ならばともかく、銃創を――銃弾で傷ついた体の中を縫うなんてこと、できるのだろうか。
 彼は時々、自分の体や命にひどく無頓着になることがある。過去の何かが関係しているのかもしれないが、そうなるきっかけや理由が何なのかは私には判らない。でも、だからといって、見過ごせるものではない。
「ばか。お前さん、死んじまうわ」
「死んでもいいよ」
 男は笑った。透明な微笑み。
「あんたが見届けてくれるなら、俺は、死んでもいいよ。ああ――でも、顔も名前も知らない奴の弾で死ぬのはちょっと癪だな。どうせなら、あんたが息の根を止めてくれないか。そのほうがいい」
「やめてよ、縁起でもない。どうして……」
 自分でも、みっともないほど声が震えていると思った。自覚はなかったけれど、目も潤んでいたかもしれない。彼の笑みはますます深くなった。それは慈しみにも似た表情だった。そして、これ以上にはないほど幸せそうな顔で笑って、とびきり濃い蜂蜜みたいな、とろけるような甘い声で、残酷なことを口にする。
「だってそうしたらあんた、俺のことを忘れないだろ」
「なっ……」
 そのとおりだ。もし彼がこのまま死んでしまったら、私は彼を決して忘れないだろう。彼をこの手にかけたからじゃない、彼を愛したから。彼がいなくなっても、私はずっと彼を愛し続ける。この世の終わりまで、私は彼のものだ。悔しいけれど。
 黙ったままでいると、腕を伸ばして私の頬に指の背で触れながら、彼は囁いた。血を失い過ぎたせいだろう。その氷のような冷たさに、私は身を震わせた。
「なあ、死なせてくれよ。それが幸せなんだ」
 優しい瞳で見つめながら、愛の言葉を囁くような口調でそんな事を言う彼に、名状しがたい感情が沸き起こる。それが、私を置いて逝こうとすることに対する怒りなのか悲しみなのか、それとも他の何なのかは判らない。もしかしたら、全てなのかもしれない。彼に向かう私の愛はいつだって、愛を知る以前に覚えた暗い感情の全て、憎悪や怒り、悲しみと複雑に絡み合っていて、醜悪だ。純粋なただ一つの美しい感情で彼を愛せたらよかったのに。
 そう。私は彼を愛している。なのに、彼は死にたいと言うのだ。私を、私の感情を、愛を無視して置き去りにして、手の届かない場所に行ってしまいたいと言うのだ。
 私は奥歯をぐっと噛みしめた。
「だったら、死なせてなんかやらない。お前さんだけ幸せになんか、してやるもんか」
 彼はちょっと驚いたように目を瞠り、それから困ったように口元を微笑みの形に歪めて目を細めた。
「あんたは意地悪だなぁ。あんたが殺してくれなかったら俺は、ずっと不幸なまま生き続けなきゃならないじゃないか」
「そうよ」
 私も笑ってみせた。
「お前さんが生きて、私の邪魔をし続ける限り、私は不幸なんだから。お互いさまよ」
「そうか。不幸か。俺も、あんたも」
 銀の睫毛を伏せ、しみじみとした声で彼は言った。言葉ははっきりとしているけれど、意識のレベルは確実に低下しているようで、その声はいくぶん眠たげだった。頬に触れている彼の手を包むように取って冷たいその指に自分の指を絡ませ、私は身を屈めて彼の耳元に囁いた。
「だから、生きてよ。私と一緒に不幸になって」
「……いいよ。あんたと一緒なら、それも悪くない」
 そうして浮かべられた彼の笑顔が余りにも透明で、子供のようにあどけなくて、何故だか泣きたくなった。
「きっとよ」
「ああ」
 二人でずっと生きられたら。殺しあえたら。
 それはなんて幸福な地獄だろう。
 共に同じ夢を見る日が来た時、私たちが思い出すのはきっと、今夜の誓い。


(Things we said tonight・終 2012.4.30up)

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