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貝の瞳


 この男の睡眠は基本的に浅いし、深く眠ることがあってもそれはごく短く、そして眠りは彼にとって魂の安らぎを意味しないのだということに気づいたのは、夜を共に過ごし、朝を迎えるような関係になってすぐのことだ。
 お互いもう若くないので最中に意識を飛ばすことは滅多にないが、私は快楽に対して受け身であるせいか事後には疲れ切って(体力の差だとは思いたくない。年は私の方がずっと若いのだし)、会話もそこそこにすぐに眠ってしまうのがほとんどだから、彼が眠りに入る瞬間は全く見たことがない。
 それ以外にも、夜中にふと目を覚ますとはっきりした声で「どうした?」などと尋ねられ、朝は彼の方が先に目覚めているといった具合に、ベッドの中であれ、他の場所であれ、私は彼が眠っているところをほとんど見たことがない。
 少し心配になって、きちんと眠れているのかと尋ねたことがあるが、彼は軽く笑って「眠れる時には眠っているし、体がこれで慣れているからいいんだ」と言っただけだった。確かに彼が、いつでもどこでも、どんな体勢でも瞬間的に眠れるのは私自身も目にしたことがあるので知っている。だが何らかの薬品でも使わないかぎり、決して前後不覚に眠りこむことはない。常に外界に対して脳のどこかがチャンネルを開いていて、わずかな気配や物音で目を覚ますのだ。そうであることを求められ、熟睡することを許されない――深い眠りが死に直結する戦場に長くいすぎた弊害なのだろう。
 常に浅い眠りと覚醒を行き来する男は、傍らに他人の気配や体温があると、それが敵ではないと頭では判っていても神経が敏感になるのか、ただでさえ短い眠りはさらに浅いものになる。今でこそ多少は眠っている姿を私にも見せるようになったけれど、最初に夜を共に過ごした時、彼は一睡もしていなかったに違いない。
 今でも時々、目を覚ますと私はベッドに一人で横たわり、彼は少し赤い目をして窓辺にぼんやりと座って朝を迎えていることがある。そんな時、私は何も問いかけはしていないのに眠ったら昔の夢を見そうで恐かったんだ、と彼はばつが悪そうに言う。どこかに魂を置き忘れてきたような、色を失ったような笑顔で。
 彼の言う「昔」が何を意味しているのかなんて、解りすぎるほど解っている。彼の今を作り上げ、彼のそれまでを壊し、彼を銀色の死神に変えたあの内戦だ。戦争の記憶が彼に見せる悪夢がどのようなものか、私は知らない。私自身の悪夢の記憶とは似ているようで、決定的に何かが違うものだから。
 眠っている時、彼は時々とても苦しそうな顔をする。やめてくれ、とか、もう嫌だ、とかいった微かな拒絶の声を漏らすこともある。ごめんなさい、許してくれと泣きそうな声で繰り返すこともあった。
 それほどに傷つき、苦しんでいながら、彼は今も殺すことを止められない。この手は汚れ過ぎた、自分はもう人殺しとして生きるより他にないのだ、などと嘯いて。恐らくはそうすることでしか、自分のしたことに折り合いを付けられないのだろう。それを全て認めることはできないけれど、理解できないわけではない。
 悪夢を見ている時と同じ表情で、声で、その名前を口にする理由も。
「ジュリア……」
 音にすることすら罪深いと恥じているかのような、小さな小さな声。うなされる彼のうわ言はいつもそうだ。時には音にすらならない。
「ジュリアって、誰?」
 そう尋ねることができたら楽だっただろう。もし彼が、微笑みや幸せな表情でその名を口にしていたのなら、私も尋ねることができた。けれどもあんな、見ているこちらの胸が痛くなるような、涙こそ流さないけれども悲痛な表情で呟かれたら。何も、訊くことなんかできやしない。
 だから私は見聞きしたことには口をつぐみ、気づかないふりをする。けれど、今夜もきっと彼は、その名を囁くだろう。悪夢の中で。
 私の方が先に目を覚ましたのは、そんな予感があったから、今度こそ悪夢の一端を突き止めようと心に決めて、深く眠らないように気を付けていたためだ。
 本格的な夜明けを間もなく迎えるほの白い光の中で、銀色の睫毛を伏せている彼の顔は青白いほどで、まるで死んでしまったかのようで、思わず呼吸を確かめるため口元に手をかざしたくなった。けれどそんな事をしたら、気配で起きてしまうと判っていたから私はただ息をひそめて見つめていた。
 何がきっかけだったのかは判らない。白い仮面のように静かだった顔が、ふいに苦しげに歪んだ。眉をきつく寄せ、歯を食いしばって。ベッドから出れば肌寒いほどなのに、額にはうっすらと汗すらにじむ。
 かさついた唇が薄く開き、何かしらの言葉を発しようとしたその瞬間を狙って、私は彼の名を呼んだ。
 途端にぱちりと目が開き、翡翠のような瞳がどこでもないどこか――虚空を見つめたのはほんの一瞬。すぐに彼は、覗きこんでいる私の顔を見上げた。悪夢から覚めたような顔で。実際、彼が見ていたのは悪夢だったのだろうけれど。
「あ……」
 掠れきった声が、彼の喉から漏れた。私は何でもない風を装って、汗に少し湿った彼の前髪に触れた。遠い昔、病気の時や怖い夢を見て目が覚めてしまった時に母がそうしてくれたように、優しく撫でてみる。人肌のぬくもりを伝えることに何らかの効果があったらしく、彼の目にあった緊張はしだいに解けて、強張っていた表情も和らいでいった。
「大丈夫? すごく辛そうな顔をしていたわ。悪い夢でも?」
「悪い……? いや、悪くはないよ。ただ、昔の夢を見ていたんだ」
 ため息のように深く息を吐いて、彼は真っ直ぐに私の顔を見つめ、微笑んだ。何かをごまかそうとしているのがありありと判る態度。普段ならば私が彼の嘘や韜晦を見破れることなどほとんど無いのに。
「昔?」
「うん。昔」
 それだけ言って、彼は口を閉ざした。だけど私には、このまま会話を終わらせるつもりはなかった。
「それって、どれくらい昔のこと?」
 もう一度眠る気はないのだとはっきり判るように、肘をついて軽く身を起こし、彼を見つめる。ずっと心にわだかまって、尋ねたくて仕方がなかったことだから、詰問するような調子にならないように気を付けるのは骨が折れた。
 黙り込んでしまうかと思ったけれども、一分ほどの沈黙の後、彼は口を開いた。
「本当に、ずっと昔のことだよ。あんたと出会うよりももっと前。世界は優しくて綺麗なもんだと、未来には明るいことしかないって、馬鹿みたいなことを信じてた頃だ。俺の人生にまだあんたはいなかったけど、幸せだった頃だ」
 最後に付け加えられた言葉に胸の奥が甘く疼くような感じがしたけれど、淡々と語る口調にも、彼の顔にも、感情というものが一切感じられなかった。或いは、全てを押し込めた結果のそれであったのかもしれない。
「……でも、あなた、苦しそうな顔をしてたわ」
 私が言うと、彼は意外な言葉を聞いたように大きく目を見開いて、それからぱちりと音が出そうなくらいにわざとらしい動きで瞬きさせた。
「そりゃあ、そうだろう。だって、あんた――幸せだったけれど、それはもう、消えちまったものだ。もう二度と、俺のものにはならないからさ」
 私の問いに被せるように、彼は答えた。その口調は眠る砂浜のように静かで軽やかだったけれども、さっきの瞬きと同様にどこか不自然で、そう聞こえるように作られた声であるのがありありと読みとれた。
 何でもないことのように言っているけれど、その実、『昔のこと』は彼の中では計り知れない意味を持っていて、そして何一つとして終わっていないし、終わる日は来ないのだということを見せつけられたような気がした。
 私には何もできないのだろうかと、半ば絶望に近い思いで見つめていると、視線に耐えきれなくなったように彼は一度目を伏せた。黙ったまま起き上がってベッドから抜け出たので、去ってしまうのかと思ったけれどもそうではなかった。ベッドサイドの椅子にかけていた上着のポケットから分厚い黒い革表紙の手帳を取り出し、幾つも挟まれた紙片の中から一枚を取り出して、私に差し出してみせた。
「あんたが知りたい、俺の昔だよ」
 差し出されるままに受け取ったのは、一葉の写真だった。随分古いもので、縁がほつれて紙の繊維がいくらかほぐれ出し、皺だらけになっている。所々には焼け焦げたような跡が残り、裏には黒っぽい染みが幾つかあった。その染みの正体が何なのか、思い当たることはあったけれども、確かめる必要はないだろうと思った。
 彼は再び私の傍らに身を滑り込ませると、私の肩を抱くように背中越しに手を伸ばしてベッドサイドの明かりを点けた。オレンジ色の光に照らされて、手にした写真に写っているものがはっきりと見えた。
 そこには、淡い緑の葉を茂らせる木々が覗く白い塀を背にして立つ、私の知らない彼がいた。青年というよりも少年と言った方がいいような歳。十代後半、いいところ二十歳といったところか。その若さから察するに、軍に入隊した記念に撮ったものなのだろう。その身につけている軍服は今はない国家のものだ。彼の腕に肩を抱かれて笑っている少女は幼い。あどけない表情はようやく十代に入ったばかりの年頃と見えた。彼の銀髪とは対照的な淡い金髪だが、瞳は同じ色。空のようなブルー、海のようなグリーン。そのどちらともつかない絶妙な色合いの瞳。
「この子は……」
 呟くと、耳元に返事があった。
「ジュリアだよ」
「ジュリア?」
 どきりとして、鸚鵡返しに繰り返す。肩越しに振り向くと、男は優しい光を瞳に浮かべて写真を見つめていた。
「俺の妹」
「妹……」
 もう中年と言ってもいい歳なのに、思い出したことを思い出したままに短く並べてゆく彼の物言いはどこか幼さを感じさせた。
「ジュリアは海の好きな子だった。それに、海みたいな子だった。よく笑う子だった。風のようにくるくると色んな表情をして笑うんだ。波みたいに、黙ったと思ったらまた笑い出して、ひっきりなしに声を立ててね」
 本当にいとおしそうに、彼は妹――ジュリアのことを語った。
「そこにいるだけで人を幸せな気分に、笑顔にさせるんだ。俺とは全然違って」
「ジュリアさんは、今はどうしているの?」
 訊くべきではない――そう本能が告げた。けれども私はその問いを止めることができなかった。答えなど判り切っていたのに、義務のように。
 彼はふわりと笑った。朝の月のように淡く。
「死んだよ。殺されたんだ。内戦が終わる二日前だった。ジュリアだけじゃない。両親も家も、何もかも焼かれて、俺だけが残ったんだ。殺すために、殺されるために戦地に行った俺だけが生き残って、俺に守られるはずだった家族が死んだ。皮肉な話だろう?」
 ああ、だから。
「――俺なんかよりもずっと、あの子の方が生きるべきだったのに」
 喪われてしまったものだから。二度と戻らぬものだから。
 だから彼は、そんなふうに感情を全て閉ざした貝のような瞳をして笑うのだ。失われたことは彼の責任でも何でもないのに、それを罪だと感じて夢の中ですら苦しむのだ。
「……私は、あなたが生きていてくれてよかったと思ってる。あなたがどう思おうと、私はあなたが生きている方が嬉しい」
 私の言葉は無意味かもしれない。けれど、彼の心に届けたくて言う。彼の名を呼んで、彼に触れて、生きていることを思い出させたい。生きることは、生き残ったことは苦しみでも悲しみでもないのだということを判ってほしい。
 それでも――。
 それでも眠りがあなたにとって安らぎではないのなら、せめて眠りの外にある間は、その心が平穏であるように。この生を、あなたが受け入れられるように。
 私はあなたに、愛の歌を唄いたい。


終(2011.10.31)

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