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言わない。



 彼女がそこにいたのは、本当に偶然だったのだと思う。
 今回の待ち合わせ場所はオープンカフェ。俺は職業柄、開けた場所ではどうしても頭を仕事モードから休暇モードに完全には切り替えられない。会うのは仕事がらみの相手ではないし、俺としても楽しく過ごしたいという気持ちがあったので、少しでも落ち着けるように、不審な点がないか調べた上で店に向かい、席に着く前には周囲を見回してとっさに身を隠せそうな場所があるかどうかを確認した。
 こんなところで狙撃の可能性はほとんどないと判ってはいたが、習い性というか、いつもの癖だ。その時には、特に妙な気配など何も感じなかった。
 気づいたのは、待ち人が来るほんの少し前。
 誰かに見られているような気がした。いや、気のせいではない。ささいな空気の変化、気配や視線に気づくか否かが生死に直結する職業だ。俺は自分の感覚には絶対の自信を持っていた。確かに誰かが俺を見ている。
 いや――それが誰かなど、わかりきっていた。自分でもうまく説明はできないが、付き合いが長かったり、深かったりする相手なら、姿を見なくてもこちらに向ける視線や気配だけで誰かを特定できてしまう。その一人が彼女だった。
 というよりも、彼女は俺にとってさらに特別だ。どんなに気配を断とうとも、俺は彼女の存在を感じることができる。それは彼女も同じのようで、どこにいても、何をしていても、見つけようなどと思わなくても俺たちは互いを見つけてしまう。俺たちは商売敵なので、見つけやすいのは結構だがその逆はあまり嬉しいことではないのだが、それは向こうにも言えたことだろう。
 手鏡を使って視線を感じる斜め後ろをそっと確かめてみると、確かに通りを挟んだカフェに彼女の姿があった。俺は完全なプライベートでここを訪れていたが、彼女は仕事がらみだったらしい。仕事の時には問題ないが昼の街中では少々浮いてしまう、トレードマークと言っても過言ではない黒づくめの服と、少し張り詰めたような空気をまとっている。
 彼女はいつものように俺を見つけるなり突っかかりに来ることはせず、通りの向こう側からじっとこちらを見つめているだけだった。或いは仕事の依頼だと判断した時点で来るつもりだったのかもしれない。
 俺は彼女に突っかかられるのは嫌いじゃないが、穏やかに話をする方が好きだ。いくら相手が美人でも、罵られたり詰られたりして喜ぶ奴がいたら、そいつは正真正銘の異常者というものだろう。
 彼女が俺を――俺の周りを見張っていてくれるなら、滅多なことは起きないだろうと思うと肩の力が抜けた。彼女が居る場所で何事か起こすのは不可能に近いというのは、さんざん仕事を邪魔されてきた俺が一番よく知っている。こういう時に会えるなら悪くないと思いながら、用事が終わってもまだ彼女がそこにいるようなら、食事にでも誘ってやろうと考えた。何だかんだと言いながら、仕事さえ絡まなければ彼女が俺に噛みついてくることは無いので、そこそこうまくやっていけるのだ。
 待ち人が来ると、あからさまに彼女が放つ気配が変わった。動揺――混乱、そういった類の、錯綜したもの。殺気にも似たそれは、俺にというよりは俺が待っていた女性に向けられていた。それが意味するところを――彼女が何をどう誤解したのかまで、恐らくは正確に――俺は知っている。
 だが俺は、彼女に気づいているなどとはおくびにも出さず、久々の人間的な感情と、穏やかで平和な交流を楽しんだ。何しろ、こんな開けた場所で心からリラックスできる機会など滅多にないのだから。
 二時間後。
 店の前で二人と別れた俺はそのまま通りを渡り、向かい側のカフェへと足を踏み入れた。俺が二人と話をしている間中、一時だって目を離していなかった彼女は、わざとらしく笑みを作った上で軽く手を振ってやるとばつが悪そうに束の間目をそらし、不味いものを飲み込んだみたいな顔をした。
「よう。覗きとは趣味がよろしくないな」
 了解も取らず正面の席に着き、ついでに呼びとめたウェイターにコーヒーを注文する。彼女は俺の行動を制止しなかったが、その代りぞくりとするほど鋭い目で俺を睨みつけた。自分で気づいているのかいないのか、彼女のそうした態度はかえってその内心を容易にこちらへ見せてくれる。
 好きだとか、会いたかったとか。意識的に作ってみせる小憎らしい表情、その下にある本物の喜び。切りつけるような視線を投げつけるその目が輝いているのは、商売敵に会った敵愾心からだけではないはずだ。
 俺もまた、彼女の赤い瞳に俺だけが映っているという事実に、湧き上がるような快感を覚えるようになってしまったのはいつからだっただろう。俺も恐らく、彼女と同様に表情を隠し切れていないに違いない。
 しばらく無言で俺を睨んでいた彼女は、やがて目を伏せてため息をついた。
「自意識過剰にもほどがあるわ。誰がお前さんなんか見てるっていうの」
「誰って、そりゃあんただよ。あの二人が来る前から、ずっと俺を見てただろう」
「……ずいぶんと親しい間柄みたいね」
 暗に俺の言葉を肯定しつつ、諦めたように彼女は言った。
「なら判るだろ。仕事とは無関係の話だ。つまりあんたにも関係ない」
 少し突き放すような口調で返すと、彼女はちょっと目を見開き、傷ついたような顔をしたが、束の間現れた動揺をすぐに押し隠して取り繕ったような無表情を作った。それが奇妙にこちらの嗜虐心をそそるものだから、つい悪戯心を起こしてしまう。
「彼女たち、親子そろって美人だろう。一年に一度、必ず会って顔を見る約束をしてるんだ。年寄りくさいと言われるかもしれんが、あの子の成長を見るのが、毎年の楽しみでね」
「へえ」
 いたって興味なさそうに呟くが、目は口ほどに物を言うとはよく言ったもので、こちらを窺っている赤い瞳にははっきりと不安にも似た影が差し、微かに揺れている。
 まったく、可愛らしいお嬢さんだ。
 どうしてか、彼女は自分の想いを俺が知ったら、想いを通じ合わせたら、二人の関係が変わってしまうと思っている。そしてそのことを、俺からしてみれば滑稽なほどに恐れている。確かに、変わるものはあるだろう。だがそれは彼女を彼女たらしめているもの、俺を俺たらしめる何かの消滅など意味しない。
 そろそろ、気づいてくれよ。
 俺もあんたが好きだと。
 認めてしまえよ。
 あんたは俺が好きだと。
 そうしたところできっと、俺たちの関係に新たな重みと厚みが加わるだけのことで、根本の部分は何一つ変わることなどありはしないんだ、悲しいことに。もし変わってしまうのだとすれば、それは既に起きていなければおかしいくらい、俺たちは互いの主義主張をぶつけ合い、時には命懸けで衝突してきた。
 それが判らないあんたでもあるまい?
「それで、お前さんの何なのよ、あの二人」
「仕事関係じゃないって言ってるのに、まだ聞くの」
 からかうように小さく苦笑してやると、彼女はまた不機嫌そうに俺を睨んできたが、照れが幾分か勝ってきたのか先ほどよりは勢いが弱い。
「悪いわね。単なる好奇心よ。答えてくれなくたって……」
「女房と娘だよ」
 そして言葉を遮るようにしてさりげなく口にする。運ばれてきたコーヒーに早速口を付け、褐色の水面に視線をやることでわざと目をそらしたが、見なくともぎくりと息を呑む気配が伝わってきた。本当に、分かりやすい。
 ちらりと目を上げると、彼女は何やら自分を納得させようとしているようで、下唇を軽く噛み締め、何か縋るものを探すように視線を左右にさまよわせていた。その必死な様子にちくりと心が痛み、言わずにおこうかと思っていた一言を付け加える。
「戦友だった男のね」
「え?」
 弾かれたように顔を上げ、彼女はきょとんと俺を見つめてきた。信じられないとでも言いたげな表情。冷静沈着でならす仕事上の彼女しか知らない者が見たら、どれほど驚くだろうか。あまりにも開けっぴろげで無防備な表情に、俺はくすくす笑いを抑えきれない。
「なに、俺に妻がいると思ってショック受けた?」
「だ、誰が!」
 夜の闇に紛れて動くことが多いせいか、俺と同様あまり日に焼けていない白い頬に、みるみるうちに血の色が昇る。からかわれたという怒りが半分、残りの半分は内心を見透かされた羞恥と、俺が誰のものでもないと知った安堵だと、その紅とあからさまに緊張が解けた瞳が教えてくれる。なのにあんたは、恐らくは自分自身にもこの感情を決して認めないし、俺に言うことすら許してくれない。
 言わないのはあんたのためだが、言えないのはあんたのせいなんだから。
 これくらいの意地悪は許されるだろう?


終(2011.8.20up)

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