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知らない。


 あの男を見かけたのは、偶然だった。
 私たちの生き方は真逆で、本来なら進む道が重なることなどないはずなのに、彼とはたびたび出会う。それこそ何度目の、いつの邂逅であったか、彼が皮肉っぽい笑顔で「腐れ縁もここまでくれば、もう運命みたいなもんだな」などとわざとらしく嘆いてみせたほどに。
 世界は広いのだ、そこに生きるたった二人の人間が約束をしたわけでもないのにこうも何度も繰り返し出会うなど、本当に運命なのかもしれないと、私は柄にもなく夢見がちなことを思う。それほどに私たちの邂逅は時に劇的だった。
 たまたま訪れた異国の地、通りを歩いていてふと入ってみたカフェ。通りを挟んだ向かい側のオープンテラスに彼はいた。
 どうやら私の目はどんな雑踏の中でも彼を見つけ出せるという、特別な能力でも持っているらしい。いつもの重苦しい黒づくめではなく、明るい色合いのスーツを身にまとっていたので彼の印象は普段とはずいぶん違っていたし、ここからはやや後ろ向きの横顔しか見えなかったにもかかわらず、目に入った途端、ああ、あの男だと判ったのだ。
 服装といい寛いだ雰囲気といい、男はどうやら仕事とは無縁の用件でこの場にいるらしかった。
 通りを渡って声をかけるか否か、私は迷った。そもそも、何と声をかければいいのか判らなかったのだ。私たちの間にまともな会話など成立したためしがなかった。それは主に、私が彼に噛みついてばかりのせいなのだけれども。
 私たちは互いの主義主張をぶつけ合い、果てしなく対立するのが常だった。重なり合う部分も確かにあるはずなのに、決定的な部分で私と彼とは決して相容れない。同じものを見、目指しながら、どこまでも交わることのない平行線。
 けれど彼ほどに私を理解している者はいないだろうし、私ほど彼を理解している者もいないだろう。私と彼とは何よりも不毛な対立によって、誰よりも互いを知り、深くつながっている。もしもそれをつながりと呼ぶことができるのなら、だけれど。
 行くか行くまいか。逡巡を繰り返して、ようやく決心がついて立ちあがろうとしたその時、男がふいに振り向いた。私は思わず読んでいた本を立てて顔を隠した。何の後ろめたいこともないのに。けれどもそれでいて、彼を見ることを止められないのだった。
 声をかけられたのか、彼は応えるように軽く片手を挙げて立ち上がり、近づいてきた人物を迎えた。どうやら待ち合わせをしていたらしい。彼と同年代の女性と、その子供らしい十六、七と見える少女の二人連れ。
 少女が男に駆け寄ると、心得たように彼は腕を開いて飛び付くような抱擁に応え、微笑んだ。少女を胸に抱いたまま、女性に何事かを話しかける。
 それは私の知らない表情。私には決して向けられることのない種類の表情だ。
 ざわりと胸の中で何かが騒いだ。
 今私が席を立ち、彼に声をかければその表情はたちまち消えてしまうだろう。いかにもうんざりした表情で「またあんたか」などと言って肩をすくめるに違いない。それは確信だった。
 私に向けられるのはいつだって、うんざりしたような、呆れた表情、馬鹿にしたような、からかうような皮肉な笑み、本気で相手をする気はないと言いたげな、そんな顔ばかり。自分の言動が原因だとは判っているけれど、こうして態度の違いをはっきり見せつけられると、ちくりと胸が痛む。
 痛む?
 思っていたよりも自分が傷ついていることに、私は驚いた。
 通りの向こうから見つめている者がいることなど気づきもせず、三人は席に着いて談笑を続けている。相変わらず男の表情は穏やかで、時々私の知らない笑顔を見せ、二人の話に頷いたり何かを答えたりし、そして私の存在には気づきもしない。
 ねえ、私は何をしていたって、どこにいたって、そこにあなたがいればあなたを見つけてしまうのに、どうしてあなたは私に気づかない? 今もこんなに見つめているのに、どうして気づいてくれない? こんなの、ずいぶん不公平じゃない?
 随分と親しげな二人が誰なのか、彼の何なのか、私は知らない。ただの知り合いなのか、過去の依頼人か、それとも――。
 それとも。
 その可能性を考えた時、どろりと蠢く感情があった。
 私と出会った時、既に彼は独り身だったし、幾度か訪れたことがある自宅に彼以外の誰かが住んでいる様子はなかった。けれども、彼に出会う前の私の全てを彼が知っているわけではないように、私は私に出会う前に彼が生きてきた過去を一部しか知らない。
 まして彼は私よりもずっと年上だ。過去に何もないなんてこと、無い方がよほど不自然。今だって憎らしいくらいにいい男なのだから、若い頃なら尚更、彼に惹かれる女性は多かったはずだ。
 だからそうだとしても、別段おかしなことじゃない。私のものでもないけれど、少なくとも今は、彼は誰のものでもない。
 だからこんなの、気にすることじゃない。
 そう自分に言い聞かせて、言い聞かせている自分がいっそ滑稽で哂いたくなった。哂いたくて、泣きたくて、それ以外にも色んな感情がぐちゃぐちゃになって、何が何だかわからなくなる。
 見なければいいのに、どうしても彼から目を話すことができない。私には永遠に向けないであろう表情で、恐らくは私の聞いたことのない声で語りかける彼の姿を。私には与えられない、彼の柔らかく穏やかで、温かなものを向けられている、私の知らない誰かを。
 胸が痛くて、苦しい。
 けれど、その理由を知ってしまったら。
 彼に「  」しているなんて、認めてしまったら。
 或いは彼が、私の心の裡にある感情を知ってしまったら。
 それはこの不毛でありながら濃密な関係の終焉を意味する。常に真逆の思想を突きつけ、疑問を投げかける彼さえ関わらなければ、たしかに仕事は楽になるだろう。だがそれではきっと私は本当の意味では生きていけない。私は私でいられなくなるし、それを知った彼もまた彼ではいられなくなるだろう。
 だから怒りや憎しみにも似たこの感情に付ける名を、そんな感情が生まれる理由を、私は知らない。
 決して、知ってはいけないのだ。


終(2011.8.10)

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