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黄金の綱 7


 永遠に続くかと思われた宴はしかし、広間の壁にかけられた大きな仕掛け時計の針がぴったりと重なり、どことなく厳めしい鐘の音を十二回打ち鳴らした頃には閉会の気配が見えはじめた。ダンスやお喋りに興じていた人々の雰囲気も、退出のきっかけを探してそわそわする空気が大勢を占めるようになっていた。
 中央のダンスフロアで踊りに興じている男女の数もぐっと少なくなっており、いくら踊っても倦むことはないかのように見えていた公子でさえも、柱と柱の間やバルコニーの手前に設けられた即席のサロンに引っ込んでしまっていた。
 もちろん彼はそこにエルベティーナを伴っていて、他の者は男であれ女であれ、誰も近づけようとはしなかった。
 唯一の例外は父の公爵であったが、それでも公子は父親がエルベティーナに話しかけないよう――父親自身が彼女に惚れこんでしまわないかと恐れたのだ――彼女がしっかり視界に入り、なおかつ自分たちの声は聞き取られない所まで出ていった。親子の会話はごく短かった。公爵は、この舞踏会に出席してエルベティーナを目にした全ての人々がそうであるように、彼女の素性と公子との関係を知りたがっていた。
 それに対して公子は、彼女をとある屋敷に半ば幽閉されているのを見初めたことを打ち明け、こうして陽のあたる場所に彼女を連れ出すことに成功したからにはいずれ自分の「特に親しい女友達」にしたい、という含みのある言葉を添えた。公爵は息子の肩越しに、優美そのものの姿で長椅子に腰かけている少女を見た。
 彼女が、以前から公爵の頭を悩ませていた公子の恋着の相手だというのは問うまでもなく明らかだった。そして、その恋着も無理からぬことだと、公爵は少女を一目見た時から納得していた。少女はこの世のものとは思われないほど美しく、淡い疲れと引き留められていることへの当惑で額を翳らせた横顔は、一つの芸術品として永遠にとどめておきたいと思わせるほどの完璧な美を備えていた。
 少女の素性は今もって謎のままであることなど、その圧倒的な美の前では些細なこと、取るに足らぬ、探る価値も意味もないことであるかのように思えた。
「それで」
 公爵は言った。とりあえず、これだけは確かめておこうと思ったのだ。
「あの美しいご婦人の、今夜の予定はどうなっているのだね?」
「ああ、そのことですが。父上」
 公子は大抵の女性を虜にしてしまう人好きのする顔でにこりと笑い、幾分芝居がかった動きで両腕を広げた。
「父上さえお許し下さるなら、彼女にはこの宮殿にとどまってもらいたいと思っています。何しろ彼女は僕が見出して救い出そうと決意するまで、これまでずっと、あるいまいましい邪な女によって、囚われの身となっていたのですから!」
 当人の意志や事実などすっかり無視したこの発言を、幸いにしてエルベティーナは聞いていなかった。もし聞いていたなら、公子の独りよがりにさしもの彼女も腹を立てるか呆れるかしただろうし、奥様を侮辱されたことに心を痛めたことだろう。
 公子は「特に親しい女友達」と言ったが、つまりは愛人を持つこと、それを何らかの役職につけて自らの屋敷に囲うことは、とても一般的というわけではなかったが珍しいことでもなかった。過去には愛人を妃付きの女官長に任命した王さえいたくらいである。公爵にもなじみのある話だったので、全てを理解した彼は、少女の身元が不確かだとしても、愛人という立場なら後からいくらでも取り繕うことはできると納得し、婚約を発表したばかりなのだから何事も程々に、と一応の注意を与えてその場を去っていった。
 公爵父子が会話している間、エルベティーナは少し離れたサロンの長椅子に置き物めいた静かさで背筋をすらりと伸ばして座ったまま、辞去のきっかけを見つけるにはどうしたものかと考えていた。乞われるままに何時間も公子とのダンスに応じていたため、絹地の靴に包まれた華奢な足は痛みを訴えはじめており、彼女自身もすっかり疲れてしまっていた。
 時計を見やれば既に日付が変わってしまっていて、過ごした時間の長さを思ってエルベティーナはほうと小さな溜め息をついた。屋敷の中で独りきりで何時間も過ごすことは今まで何度となくあったにしろ、それは同じ屋敷のどこかに奥様がいてくれるという安心感に支えられた孤独であった。この場所のどこにも魔女がいないという事実は、ふとした瞬間に足元が頼りなくなるような不安をエルベティーナにもたらしていた。
 広間にはまだたくさんの招待客がいたが、どれほど周りに人がいようとも、自分が独りであることに変わりはない、とエルベティーナは思った。彼女に興味を持ったり、惹かれたりしている者は多かったが、公子が片時も傍を離れようとしなかったため、声をかけることはできず、今も遠巻きに見つめているばかりだった。そのような人々の視線もまた、エルベティーナの感じている孤独を募らせる原因の一つとなっていた。
 そこへ公子が父親との会話を終えて戻ってきたので、エルベティーナはようやく別れの挨拶をして、公爵の宮殿を出ていけると安堵した。公子は自分を見るなり彼女の表情が緩んだのを、都合よく解釈した。そして機嫌よく話しかけた。
「寂しい思いをさせてしまったようだね、すまない。だがもう父との話は終わったよ」
「そうですか。……今夜はあなたをお祝いする結構な宴にお招きいただいて、ありがとうございました。そろそろお暇して、屋敷に戻ろうと思うのですけれど、馬車を呼んでいただけませんか?」
 エルベティーナは思い込みに満ちた公子の発言には特に反応しなかった。
 そのような、冷たいといってもいい言動は、常に優しく心づかいに溢れた彼女としては珍しいこと――というよりほとんど初めてのことだった。というのも、大人数の前に出たり人ごみに入っていったり、踊り続けたりといった人生初のできごとの連続で、肉体的にはもちろん精神的にもすっかり疲れていて気が回らなかったし、それ以前に、どう応対すればいいのか判らなかったのだ。
 だが公子の方も、エルベティーナの返答を聞いているようで聞いていなかった。彼は何事も自分に都合のよいように解釈するか、そうでなければ聞き流すという、甘やかされた若者にありがちな一種の傲慢さでもってエルベティーナの望みを無視した。
「帰ると言っても、今夜はもう遅い。泊まっていってはどうだい?」
「そこまでお世話になるわけには参りません。それに、お屋敷で奥様が待っていらっしゃいますから」
 エルベティーナは目を伏せ、緩く首を振った。しかし何をどう拒絶されたところで彼女を返すつもりなど公子には全くなかったので、言いくるめるべく言葉を継いだ。
「しかし、こんな時間だ。考えてもごらん。魔女……いや、君の言う『奥様』だって、もう眠っている頃じゃないかな。真夜中に起こしてしまってはかわいそうだし、どうせ会うのは朝になるだろう。だったら今夜はここに泊まって、明日の朝に帰ったとしても同じことじゃないか」
「それは、そうかもしれませんが……」
 戸惑うようにエルベティーナは首を傾げた。公子の言うことは一応もっともらしかったが、といって全面的に頷く気にはなれなかった。何より、出会ってから今までずっと、奥様を蔑み、エルベティーナの反論にも耳を貸さず軽んじていた彼が、急に気づかうような発言をしたことに強く違和感を覚えた。しかしエルベティーナは賢明にも、それをそのまま口に出すことはしなかった。
 彼女の沈黙に被せるように、公子は言った。
「では決まりだ。客室に案内させよう」
 メイドを呼びつけて半ば強引にエルベティーナを客用の居間と寝室に案内させた後、自らも私室に引き取った公子は、エルベティーナの喉もとと耳に燦然と輝いていたサファイアを脳裏に思い浮かべた。大きさといい、透明度と色の深さといい、あれほど見事で、しかも全ての石の品質が揃ったものは公爵家の秘蔵する宝物の中にも見出すことはできず、王家のそれであっても難しいに違いなかった。
 そのサファイアの周囲を飾る、蜘蛛の糸のように細い金線を編み込んで作ったレースの巧緻と繊麗さときては、神の手になるものと言われたら納得してしまうほど素晴らしいものだった。
 実際それは、人の手によって作られたものではなかった。地下に住まい、そこに産する種々の鉱物をこよなく愛する小さな妖精たちに頼んで、魔女がエルベティーナの為に作らせたのだった。同様に、青と金のドレスに使われた布地は織人と呼ばれる妖魔たちに、縫製はそういったことを得意とする妖精たちに依頼したものだった。
 それらの美を愛でながら、一方で公子はその値の付けようもない貴重さにも思いを巡らせていた。あれほどの品を、招待を受けてから用意したのかもともと所蔵していたのかは定かではないが、どちらにもせよ魔女の貯め込んでいる財産は噂どおり相当なものなのだろう。そう考え、この日のために呼び寄せた異国の魔法使いが首尾よくことを成し遂げていれば、魔女の財産はそっくりそのまま全て自分の手に入ることを思ってこっそりと笑みを漏らした。
 待ち望んでいた報告が来たのは、公子が部屋に引き取っていくらも経たない頃だった。従僕に連れられて入ってきた老魔法使いのしなびた顔が紅潮していること、ハゲタカのような目が爛々と輝いていたことから、彼が言葉を発する前から公子は事の成否を半ば以上知ることができた。
「察するに」
 内心の興奮を押し隠し、公子は泰然と見えるように心がけながら口を開いた。
「目的は達せられたようだな」
 老魔法使いの顔が歪み、赤い裂け目のような唇が半月の形に吊り上がった。
「仰せの通り。我が宿願は果たされ申した」
「それは僕の望みでもある。よくやってくれた。その働きに報いて褒美を取らせようと思うが、何か欲しいものはあるか?」
 すると老魔法使いはゆっくりと首を横に振った。
「ありませぬ。我が望みはかの魔女を打ち倒すことのみ。それは果たされましたゆえ。強いて申し上げるなら、この上は一刻も早く我が家に戻り、老いた身をいたわりたいと思っておりまする」
 今もまだ、何かを成し遂げた人特有の満足げな表情を浮かべていたが、老いたその顔には確かに疲労の色が見て取れた。
「そうか。だがせっかくだ。帰りの路銀くらいは受け取ってくれてもよかろう。それ以上の働きを、そなたはしてくれたのだからな」
 鷹揚な気分で公子は言った。魔女を負かしたことだけで本当に満足していた老魔法使いは少し思案するようだったが、固辞して相手の機嫌を損ねても自分の得には何にもならないと考えたのか、褒美については公子の一存に任せたいとだけ答えた。それを受けて、公子は彼をここまで案内してきた従僕に、幾ばくかの金を与えて帰すようにと命じた。そうして従僕と共に公子の部屋を出ていこうとした老魔法使いは、部屋の外へ一歩踏み出しかけたところでふいに足を止め、くるりと振り返った。
「――おお、いけない。これをお返しするのをすっかり忘れておりました」
 つかつかと戻りながら、老魔法使いは闇を思わせる色のローブの下から真っ白い布の塊を取り出した。長いこと魔法使いの薄汚れた懐に押し込まれていたにもかかわらず、汚れもつかず、皺になることもなく広がった純白のそれは、エルベティーナが宮殿に現れた時まとっていた天鵞絨のマントだった。
「これが何の役に立ったのだ?」
 魔女かエルベティーナの持ち物を貸してもらいたいと乞われるまま、客のコートやマントを預かる係の召使を通じて与えたものであったが、今さらながらに興味をそそられて、公子は聞いてみた。
「あの屋敷には、招かれざる者が害意を持って近付けば立ち入りを拒み、即座にそれを魔女に知らせるまじないが掛けられておりましたゆえ、それがしの気配を包み隠すものが必要だったのです」
「そうなのか? だが、僕は何度もあの屋敷に行って、庭にも入ったが、魔女に見つかったことは一度もないぞ」
 公子は何となく胡乱そうな目で老魔法使いを見て、首を傾げた。
「それは、公子様がかの魔女の敵としてではなく、娘に会うためにそこを訪れていたからでありましょう」
 知った顔で、魔法使いは答えた。暗に、自分は魔女に相手にされていなかったのだと言われたような気がした公子はその答えにややむっとした様子だったが、気を取り直して質問を続けた。
「そのまじないとやらは、今も働いているのか」
「いいえ。魔女が打ち倒された今、まじないを維持していた力も失われております。いかなる者があの屋敷を訪れようとも、阻むものは何もございませぬ。たとえば、魔女が娘に何らかのまじないをかけていたとして、それも消えておりますでしょう」
「それはまことか。良いことを聞いた」
 公子は舌舐めずりするような表情でにやりと口元を歪めた。ずっと狙っていたものを手に入れられる瞬間は、思ったよりも早く訪れそうであった。


(2012.5.10)

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