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黄金の綱6


 エルベティーナを町へと送り出した後、魔女の屋敷は眠りに落ちたかのようにひっそりと静かだった。西の空が燃えるような茜色に染まり、緋色の光を鴇色やレモン色に目まぐるしく変化させながら雲に残す。
 やがて赤の彩りは淡い藤色から菫色へと移りゆき、薄紙を剥ぐように周囲が闇へと沈んでいく。やがて最後の残照も消え失せ、青い夜が森を柔らかく包みこんだ頃、屋敷の中で影が立ち上がった。
 魔女は一部分が動く壁の奥に閉ざされた扉を開き、闇へと続く階段を降りていった。その扉の存在と、それがどこに続くものであるのかはエルベティーナも知っている。だが、彼女がそこに立ち入ろうとしたことは一度もない。そこは魔女を形作る様々な要素の中でも核となる部分に繋がっている魔法の力に満ちた場所であり、どんなに慣れ親しんだものであっても他人の気配は集中の邪魔にしかならない空間だということを知っていたからだ。
 それにまた、魔女はエルベティーナ自身が望まない限りまじないや魔法を教える気はなく、一方でエルベティーナはそれらを魔女のみに属するものであって自分には必要のないものと考えていた。なので、エルベティーナはこの部屋を訪れる必要を感じておらず、部屋の中にあるものに関心も好奇心も持っていなかった。この部屋は屋敷の中で唯一、魔女がエルベティーナと分かち合っていない部分であった。
 魔女はこの部屋を、大きなまじないの儀式や力を高める瞑想の際に使っていたが、儀式自体に時間がかかったり、非常な集中によって月日の感覚を失ったりして、ともすると数日こもりきりになってしまうことがあったので、エルベティーナが幼かった頃には、彼女を長いこと一人きりにしないためにこの部屋に入ることを自ら禁じていた。
 それぞれに一人で過ごすことが多くなった最近でも、籠るのはせいぜいが半日から一日程度で、数日間に及ぶような儀式や瞑想はほとんど行っていなかった。魔女にとって力を高め、時に己の限界を試す修行は大切であったが、エルベティーナと過ごす穏やかで優しい時間の方がより貴く、得難いように思われていたからである。それでも今夜は、エルベティーナの不在によって生じた、十数年ぶりとなる独りの時間を紛らわすには丁度いいと、魔女は思った。
 栓をした背の高いガラス瓶が並ぶ螺鈿細工の棚、ぎっしりと本の並んだ重厚な樫の木の棚、レンズと鏡を利用して、遠い夜空の星々をとらえる事のできる装置といったものが所狭しと並んだ壁際とは打って変わって、部屋の中央はがらんとしている。継ぎ目も見当たらないくらいに磨きこまれたなめらかな黒大理石の床には五芒星、その周りには複雑な図形や神秘的な象徴、人の世界では使われることのない文字が白線で描きこまれている。
 四方には没薬と乳香を焚いている香炉と東西南北を示す剣が立てられ、どこからともなく吹き込んでくる風に巻かれて、香炉から立ちのぼる甘美な薫りの煙は剣の冷たく光る刃にリボンのように巻きついてはふわりふわりと消えていった。
 地下ゆえに窓の無いその部屋では、テーブルの上に置かれたランプだけが光源であるはずだったが、魔女の紡ぐ呪文に呼応して、パステルカラーの光が部屋の中央、魔法陣の中から溢れ、四方へと流れ出していた。
 今や光の柱がそびえる五芒星の真ん中に魔女は立ち、自分に向かって押し寄せてくる膨大な力のうねりを味わいながら異界の扉が開かれるのを待っていた。力は光と共に押し寄せており、魔法陣の中央から噴き上がるように感じられる。だがその源はずっと深い所にあった。それは輝ける闇の国、秘められた国。常の人は足を踏み入れることはもちろん、その様を垣間見ることすらできぬ地下の世界である。そここそが魔女の魂の故郷であり、力の源であった。
 やがて果てしなく揺るぎない暗黒が、下から部屋に溢れ出てきた。眩いばかりの光と同時に闇が空間を満たす、それはとても奇妙な感覚であった。何も見えず、聞こえないが、魔女には次元の境界が破れかけているのがわかっていた。
 力の流れは潮のように魔女の魂を包みこみ、揺さぶった。次元の境界と同様に精神と肉体の境界も少しずつほどけていき、力のうねりに従って、温かな水の中に浮遊するような感覚でもって魂が肉体から離れていく。だがその感覚に恐怖や不安を覚えることはなかった。純粋な力と、研ぎ澄まされた感覚が支配する異界へと赴く喜ばしい緊張、高揚感だけがそこにあった。
 半地下の部屋で立ちつくす魔女は目を伏せたままであったが、彼女の心の目にはもう一つの世界が映っていた。そこは幾層にも重なりあう秘められた国の一部、地上ではすでに滅びた、シダに似た巨大な植物が天蓋のように葉を茂らせ、こちらの世界では想像上のものでしかない竜に似た生き物が飛び交う、みどりの空を戴く世界であった。
 異界を屋敷の庭同様に逍遥する力を持っている魔女であったけれども、今回扉が開かれた場所はまだ訪れたことのない世界だったうえに、住まう生き物たちの姿に非常な興味をそそられたので、早速新たな領域の探索を始めることにした。とはいえ、異界への扉をすっかり開いてその向こうへ入り込んでしまうと、エルベティーナが帰ってくるまでに戻れない可能性があったので、体は地下室に残しておくことにした。
 魔法陣の中央に佇む彼女の体は相変わらず微動だにしない。だが次元を隔てて重なり合う向こう側の世界において、彼女の魂は未知の国の大地にその一歩を踏み出していた。異界の森には太古の荒々しく純粋な力が溢れており、その濃厚な空気は魔女の魂を高揚させた。久々の探索は楽しいものになりそうだった。
 その時である。
 唐突に、魔女は違和感を覚えて歩みを止めた。屋敷を守るまじないに何者かが触れ、目に見えぬ壁をくぐり抜けたのだ。魔女が屋敷全体にかけたまじないは、たとえ招かれざる客であっても相手を傷つけるものではなく、ただその存在を魔女に知らせるものでしかなかったので、それが可能だった。
(こんな時に……)
 薬草園に盗人が入り込むのは珍しいことではなかったので、侵入者の存在それ自体に魔女は驚かなかった。しかし集中したい時にそれを乱した存在は苛立たしさ以外の何物も生み出さず、魔女は眉をひそめた。薬草泥棒なら今夜はもう見逃してやることにしようと考えて、魔女は小さく呆れたようなため息を一つつくと、異界の探索に戻ろうとした。
 何かがおかしいと気づいたのは、この上もなく高まり、混じり合いながら部屋に満ちている自身と異界の力の均衡と秩序に無遠慮な別の力がぶつかり、今にも破れそうに震えたからである。招かれざる客は、あろうことか地下室を目指していた。
 なかば肉体から離れていた魔女の魂は、反射的にその場で振り返った。初めて訪れた異界の森と、見慣れた地下室と。訓練された魔女の目には二つの光景が薄い紗に描かれた二枚の絵を重ねたように見えた。
 階段が続く地下室の唯一の出入り口、そこにひょろりとした男の姿が現れた。しなびた林檎のような顔をして、唇にくっつきそうな鷲鼻をぶら下げたその男を、魔女はかつてどこかで見たような気がした。狂気を孕んだ血走った眼が微動だにしない魔女の姿をとらえ、にやりと笑った。すかさず濃い鼠色のローブからさっと突き出された枯れ木のような手がひらめき、血色の悪い唇が何かを呟いた。
 男が何をしようとしているのか気づいた時には、すでに手遅れだった。置き去りにされた肉体に戻ろうとした魔女の眼前で、男の手から放たれた青白い稲妻が飛び散り、彼女は殴られたように強い力で後方へと突き飛ばされた。
 その途端、ぷつりと何かが切れたような感覚が魔女を襲った。重なりあって見えていた地下室の光景はかき消すように見えなくなった。と同時に男の出現によって不安定となった力の場が歪み、肉体から強引に切り離された魔女の魂は、乱れた力の渦に引きずられてさらに重なる別の世界へと落ちていった。その先がどこに向かっているのか、彼女には知る由もなかった。
 しかし感覚の喪失は思ったよりも短く、魔女はすぐに自分自身を取り戻した。再び取り戻した視界に広がる空は紫に透き通り、金属と炎でできた魔界の花が足元に咲き乱れていた。見知らぬ場所ではなかったことに、魔女はいくらか安堵した。陥ってしまった境遇を考えれば、ささやかな慰めでしかなかったが。
「おや。お前がそんな顔をしてここにいるなどとは、珍しいこともある」
 ふいに上から落ちてきた声に、魔女は顔を上げた。金属の光沢を帯びた全身を覆う暗緑色の鱗をきらめかせ、はかなく透ける淡い赤紫色の蜉蝣のような脈翅を虹色に輝かせた魔物が一人、こそりとも音を立てず舞い降りた。顔見知りの魔物であった。
「久しぶりだね、キーラウ。そんな顔とは、一体わたくしはどんな顔をしていたのだい?」
 魔物のからかうような言葉に応えて、ほんの少し苦いものを含んだ淡い笑みを魔女は浮かべた。
「途方に暮れた迷い子のような、寄る辺を失った幼子のような、そのような顔さ。私がロメリアを見出した時の顔に似ているよ」
 最後に付け加えられた名は、魔女にとってすでに忘れていた名であった。確かにそれは己自身のものであったけれども、魔女となった時にこの世界に置いていったものであり、人の世界で失われてから久しいものであったから。
「懐かしい名を呼ぶのだね、キーラウ。わたくしにも、そんな名で呼ばれていた時があったのだと思い出したよ。あなたはわたくしを、迷い子と言ったね。似たようなものかもしれない。今のわたくしには帰る道が見えないのだから」
「何をおかしなことを。お前は人の子の世界に生まれたが、我らと同じほど、我らの世界での歩き方を知っている。二つの世界を意のままに行き来することができるお前なら、戻ることはたやすかろう」
 キーラウと呼ばれた緑の魔物は、翅と同じように繊細で薄いが、象のように巨大な耳をふるりと震わせた。
「それが、戻るに戻れないのさ」
「それこそ珍しい。私が招く前からお前は夢見るように我らの世界を見、魂を遊ばせることができたというのに」
 再び、魔女の――ロメリアの笑みには苦みが混じった。それは先ほどよりも濃くなっていた。
「こちらに来ていた丁度その時、魂を体から引き剥がされた上に、肉体には封印の術をかけられてしまった。戻ったとしても、魂が封印の壁を越えることはできまい」
「何ということを」
 魔物は嘆息した。
「誰がお前にそのようなことを」
「異国の魔法使いだよ。昔、つまらぬ勝負を仕掛けてきたので追い返したけれど、それを恨んでいたようだね。知識も力もその程度の小物さ。こんなことがなければ、思い出すこともなかったような男だ」
 実際、あの魔法使いの力は昔も今も大したものではなかった。半ば以上魂をこちらに移した状態でさえなければ、彼のいかなるまじないも彼女を損なうことはできなかったはずである。しかし肉体という殻を失った魂だけの存在は非常に脆くて儚い。今は辛うじて守られている魂と肉体とを繋ぐ糸が完全に断ち切られてしまったら、残してきた体の周りに作られてしまったまじないの壁はおろか、魔界を抜けることすら難しいのだった。
 魂をすり減らす覚悟があれば封印の魔法を破り、肉体に戻ることは可能だろう。だが、魔女にはそうまでして元の世界に戻りたいと願うだけの想いは無かった。知識欲以外の欲望の薄い魔女にとって、気にかかる唯一のことと言えば、血のつながりこそないものの手塩にかけて育てた愛しい娘――エルベティーナであった。
 常に手を取り導いてやる魔女の庇護のもとで暮らしていたせいか、基本的に受け身で控えめな性格の娘に育ったが、一人で生きていくための知識は与えてあるし、魔女が森の奥に残した屋敷も財産もある。独り立ちする姿を近くで見守ってやれないことは残念だったが、エルベティーナの身に差し迫った危機が訪れでもしない限り、無理に戻ることはないと魔女は考えた。
 どちらが先になるかは判らないが、いずれ置き去りにされた肉体が滅びるか、帰るに帰れない魂が消えて死を迎えることになるのだろうが、それも自身の油断が招いたことなのであるし、誰かに助けを求める気もなかった。
「我ながら愚かなことだよ。こちらに行く時が一番危険だ、一人の時は用心を怠ってはいけないと、判っていたはずなのに」
「おお、ロメリア。一人であることの危険をお前ほどよく知るものはなかったのに。忘れてしまったのは、このところ一人ではなかったからかね。お前の養い子が、お前にそれを忘れさせてしまったのかい?」
 問いかけるキーラウの声には親が子を思うのに似た深い懸念の響きがあり、黒くさえ見える紫の瞳には慈愛の輝きがあった。魔界で姿を見かけることや気配を感じ取ることはあったにしろ、連絡を取り合ったり近況を知らせたりしていなかったのに、彼がエルベティーナの存在を知っていることに魔女は驚かなかった。
「エルベティーナが? それは違う」
 魔女は意外な言葉を聞いたように目を見開き、首を横に振った。
「あの子を育て、共に居て、わたくしが得たものはたくさんあるけれど、失ったものは何もない。そう言い切れる。どうしてそのようなことを?」
「私には全てを見ることはできないが、多くを聞くことができる。だからこそこうして、お前のもとに来たのだよ。お前を襲った者が誰であるのかは知らないが、その者のすぐそばに、お前の養い子に近づく者の声が聞こえたのだ。あれはお前を傷つけようとする意思に溢れていた。好ましからぬ声であったよ」
 キーラウの言葉は迂遠だったが、魔女はそこから全てを理解した。誰があの魔法使いをけしかけたのか、目的は何なのか、そこはかとない疑念だったものがはっきりとした形を持って見えてきた。
「まったく、困ったこと」
 魔女はため息に乗せて呟いた。
「祖父はわたくしを侮らぬだけの知恵があった。父親はわたくしを恐れる分別がある。けれど、息子にはそのどちらもないようだね」
 魔法使いが自分の考えで魔女を襲撃したのではないとすれば、これはエルベティーナを魔女のもとから引き離し、手に入れるために公子が張り巡らせた罠の一環なのだろう。魔女はあらゆる意味で遠い存在となってしまったエルベティーナに思いを馳せた。けれども、彼女にできることはそれだけだった。


(2012.4.10)

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