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黄金の綱 5


 当事者の一人ではあったが魔法の庭の奥深くに守られて、男たちのはかりごととは無縁に生きるエルベティーナは、町で公子が自分の素性を訪ね回っていることも、それに関わった父親が不幸な死に方をしたこと――それよりもずっと以前に母親も死んでいたことも、何一つ知らなかった。もちろん、自分の与り知らぬところで何かが変わりつつあるのも、知ることはなかった。
 頻々と現れる公子に、魔女は何かしら思う所があったようだが、明確な害を及ぼすことはなかったことと、エルベティーナが彼の訪問をはっきりと拒まずに許していたこともあってか、エルベティーナを守るべく屋敷と庭を守るまじないをさりげなく強めはしたが、たいていは見て見ぬふりをしていた。
 一方、公子の身辺でも新たな変化が起きていた。それまでにも公子の行動にそれとない制止や忠告をたびたび行っていた公爵であったが、若さゆえの気の迷いと考えていたそれらの行動が一向に治まる気配のないこと、むしろ度を増していることに焦りを覚えて、はっきりと諌めることにしたのである。
 執務の合間に公子を呼びだした公爵は、重々しく切り出した。
「息子よ、もうすぐ誕生日だが、そなたは今年で幾つになるのであったかな」
「二十歳です、父上」
 彼の答えを聞いて、公爵は頷いた。
「そうだな。そなたはこの二年、わしのもとでこの街を治める者となるべく手腕を学び、経験を積んできた。わしがそなたに家督を譲り、隠居する日も近かろう。では、そろそろしかるべき相手との婚約を考えねばならない時期だというのも判るな?」
「それは……ええ」
 公子は曖昧に頷いた。この話の行きつく先を、すでに予見していたので。
「お前の二十回目の誕生日を祝う宴は、そなたの婚約者を皆に披露する場とするから、そのつもりでいるように」
 それから婚約者候補として公爵は何人かの貴族の姫の名を挙げ、有無を言わせぬ口調で命じた。
「よいか。宴の日に相手を決めるのだぞ」
「……わかりました。父上」
 婚姻という契約によって自由を奪われるのはまだずっと先のことでいいと思っていたものの、ここで争っても益が無いことも理解していたので、従順な息子の表情を浮かべて公子は答えた。公爵が挙げたのは、隣町を治める領主や有力な臣下、豪商など、いずれも勝り劣りない家の娘たちであり、誰が選ばれてもおかしくないだけの理由を備えていた。結婚を前提として彼女らのうち一人を選ばなければならないのはもはや決定事項であったが、選択の余地があるだけ公子は恵まれていたと言ってもよかった。
 独身を謳歌できるのもあとわずかと知って意気消沈したのは束の間のことで、それならそれで結婚相手の発表と同時にエルベティーナも自分のものとして人々に披露する機会にしてしまおうと、公子はその方策を考えはじめた。彼はどんなことであってもそれを好機に変えようとする熱意の持ち主であり、努力を惜しまない人物であった。
 そして公爵の宣告から十日が過ぎた日、常と同じく蔦を頼りに庭へと入ってきた公子は、エルベティーナの姿を見つけるなり言った。
「三日後に、僕の誕生日を祝う宴がある。来てはくれないか? ぜひ、君にも祝ってもらいたいんだ」
 それは唐突な誘いであったがエルベティーナが彼の不躾さを咎めることはなく、ただいつものように、手を取ろうとしてきた彼の腕を逃れてそっと距離を取っただけであった。
「私はあなたのことをほとんど知りません。そんな者から祝福されて、あなたはそれでよろしいのですか? あなたには、あなたの生まれたことを心から喜び、祝福して下さる方が他にもたくさんいらっしゃるでしょうに」
 そう言って、不思議そうにエルベティーナは首を傾げた。濃い蜂蜜を溶かしたような色のその瞳には、純然たる疑問の色しかなかった。
「これから知ればいいさ。時間は幾らでもある」
 公子は相変らず、自信たっぷりに笑った。そして金細工のベルトにくくり付けていたポーチから一通の書状を取り出し、エルベティーナに差し出した。
「これが招待状だ。待っているからね。必ず来ておくれよ」
 差し出されたものを撥ねつけるなどという対応がエルベティーナの優しく無垢な心に全く思い浮かぶはずもなく、彼女は差し出されるままその招待状を受け取った。しかし戸惑うような、困惑するような表情は変わらなかった。
「では、僕はこれで」
 目的は果たしたとばかり、公子はそれ以上余計なことは言わず、慌ただしく塀を登ってその場を去っていった。押し付けられた招待状をどうしたものかとしばらく見つめていたエルベティーナであったが、最良の解決策は奥様に相談することだとやがて気付き、部屋へと戻ることにした。
 魔女の方は公子が庭に入り込んできた時から大体の出来事を察知していたので、エルベティーナが自室に戻った時には既にそこで待っていてくれていた。
「さて、今度はどうしたんだい。その書状は?」
「あの方の誕生日を祝う宴に招かれたのです。これはその招待状だということですが、どうしましょう、奥様」
 心の底から困り果てている、といった様子で眉をひそめるエルベティーナの表情を見て、魔女は苦笑した。
「おやおや、そんなに困ることなのかい? 簡単なことだ。行きたくないのなら断ればよいし、行きたければ行けばいいんだよ。どちらでも、わたくしは咎めないからね」
 するとエルベティーナはそっと睫毛を軽く伏せて、視線を床に落とした。
「せっかくのお招きをお断りするのは気が引けるのですけれど、かといって行きたいのかというと、それも少し違いますから……。あの方をよく知りもせず、祝って差し上げたいと望んでいるわけでもない私などがお招きを受けてもいいものなのでしょうか」
 魔女は笑みを深め、いたわるようなものへとその表情を変えた。そっと腕を伸ばしてエルベティーナの頭を子供の頃によくしたように撫でてやる。
「エルベティーナ、お前が気に病むことはないよ。憶えておおき。あの公子がそうであるように、世の中の大半の人間は相手の心を理解することも、魂に触れることもできない。本当の意味で通じあうことはできないものなんだよ。だからうわべだけの付き合いで満足してしまうし、それしか求めない。お前の心を公子は理解しないし、できない。今までもそうだったように、これからもね」
「そういうものですか。では、お招きを受けても失礼にはならないのですね」
「お前の心がそこに在るかどうかに関わりなく、ただ自分の欲しい言葉だけを求めているのだよ。宴に行ってやるだけで、彼は満足するだろう。そうして祝う言葉の一つでもかけてやれば、喜ぶだろうよ」
「行って、言葉を差し上げれば満足していただけるのですね」
「とりあえずのところはね」
 魔女は頷いた。
「それなら、行ってさしあげようと思います。お断りする方が失礼なのでしょうから」
「そうするといい。深入りすることはお勧めできないが、外の世界というものをお前も少しずつ知っていった方がいいだろうからね」
 そう言って魔女は招待状を摘まみ上げ、表に書かれている日時を確かめた。思案するように小さく首を傾げる。
「ふうん……。時間はあまりないけれど、足りないということはないだろう」
 かくして三日後、公子の二十回目の誕生日を祝う晴れの日がやってきた。
 エルベティーナが招待された舞踏会が始まるのは夜からだったので、その日の昼過ぎまで彼女はいつもどおりに庭を逍遥したり、読書や楽器を奏でたりして過ごした。午後になると魔女はエルベティーナのために良い香りの湯を用意し、彼女が身を清めている間にめずらかな香水やきらびやかな宝石、あでやかなドレスなどの支度を整えてやった。
 エルベティーナは――ということは当然、彼女をそのように育てた魔女もだが――身を飾ることにあまり頓着しない性格だったが、彼女のために魔女が選び、与える品々は常にどれも自分に最もふさわしいものであることを理解していたので、この日のために魔女が誂えた一式について異議は一言も差し挟まなかった。
「この色のドレスには、これが似合うね」
 魔女は言いながら、エルベティーナの髪を丁寧に編み、そこに花を挿してやった。庭に咲き誇る花々のうち、魔女が最も好み、エルベティーナが最も大切に世話してきた青い薔薇――魔女の瞳に似た色合いの花を。
「奥様、よいのですか?」
 その薔薇は鍵のかかる扉で厳重に守られた特別な薬草園の奥深くで大切に育てられ、愛でられてはいたが、それゆえに一度も摘まれたことのないものであったので、エルベティーナは驚いて鏡越しに魔女の顔を窺った。魔女は微笑み、頷いた。
「かまわないさ。危険なことはないだろうと思うが、念のためのお守り代わりだよ。何と言ってもお前が一人で街に行くのも、大勢の前に行くのも初めてだし、わたくしが一緒に行って、守ってやることもできないからね。この薔薇にはわたくしの力が吹き込んである。わたくしの瞳の色と同じ、この薔薇の色がそのしるし。この色を保ち、咲き続けている限り、薔薇はお前の助けになるだろう。そしてわたくしのもとにお前の声を届けてくれる。もし、自分一人ではどうにもならないことが起きたなら、わたくしを呼びなさい。どこにいようとも、何をしていようとも、きっとお前を助けるからね」
「ありがとうございます、奥様。なんて素晴らしい贈り物でしょう」
 エルベティーナは感動を抑えきれないといった様子で胸の前でぎゅっと指を組み、魔女を見つめた。その瞳には混じりけのない喜びと感謝があり、彼女の興奮をそのまま表わすように、頬には鮮やかな薔薇色が差していた。
 そんな彼女を慈しみに溢れた眼差しで見下ろし、魔女は囁いた。
「できるかぎり楽しんでおいで。エルベティーナ」
 静けさが支配する森の屋敷とは対照的に、町は朝から浮かれた気分に包まれていた。公爵は町全体に大盤振る舞いをしたのだ。広場では牛や豚が焼かれ、宮廷の蔵からワインが市民たちに振る舞われた。
 宮殿の人々は街中よりもほんの少しだけ、落ち着きを持っていた。日の入りとともにまず始まったのは晩餐会。これには公爵の親戚や主だった家臣などが陪席者として招かれている。といっても、共にテーブルを囲むのはごく身分の高い者たちだけで、他の者は公爵たちの食事を観覧するにすぎない。といっても、公爵家の食卓を目にするというそれだけでもたいへん名誉なことであった。
 舞踏会が始まるのは晩餐会が終わった後、日がすっかり暮れてからだ。大きな馬車、小さな馬車が何台も、肉を焼く焚火やワイン樽、酔っ払った市民たちを避けながら宮殿前の広場と幾つもの門を抜けて宮殿の中庭に入っていった。
 月が中天にかかり始めた頃、一台の馬車がぽつんと広場に入ってきた。広場にいた人々は呆気に取られてそれを見送ったが、こんな時間に一体誰が来たのだろう、とすぐに色めき立って前へと詰めかけた。
 それは金色に輝くクリスタルガラスでできた丸屋根を戴き、その他は純金でできているとしか思えない素晴らしい馬車だった。曳いているのは雪と紛う眩いばかりの白馬が四頭。御者たちは真紅の衣装に身を包み、鳥に似せた奇妙な形の仮面で顔を隠している。馬車は公爵の宮殿へと入り、車寄せの前で止まった。宮殿の召使が動くよりも早く、御者の一人が飛び降り、馬車の扉を開けた。すると白い天鵞絨のマントをまとった若い娘の姿が現れ、右手を御者に預け、左手で召使に招待状を差し出すと優雅な足取りで馬車を降り、すべるように宮殿の階段を上がって扉をくぐっていった。
 広間では丁度ダンスの真っ最中で、音の戦いとでも言うような大音響が満ちていた。とどまる事を知らない男女の笑い声、話し声、グラスが触れ合う硬質な音、それらがない交ぜになった不協和音の上に、楽士たちの奏でる音楽が流れていく。
 軽やかなマンドリンとフルート、深い響きのヴィオール。甘く歌うリュートの調べ、柔らかく奏でられるテオルボの通奏低音。そして広間のあちらこちらで、踊り手たちがモザイクで公爵家の紋章やその他の意匠を描いた大理石の床を、右に左にと動いていた。
 だがその少女が開かれた扉の向こうに闇を背にして姿を現した瞬間、人々は命じられたようにそちらを向き、思わず動きを止めて驚きに息を呑んだ。
 初め、少女は冬の白い幻のように佇んでいた。それからマントを外し、マントが華奢な肩からするりと脱げた途端、彼女は光と化していた。
 彼女は、黄金の刺繍をぎっしりと施した、目も覚めるような青の錦織のドレスに身を包んでいた。何段もの切り替えで豪華な襞を取り、段のそれぞれが銀糸で刺繍されたレースで飾られたふわりと広がるスカートは、裾に向かうにつれて色が淡くなり、濃青から空色へのグラデーションとなっていた。
 白鳥のように優美な首には色も大きさも見事なサファイアの首飾りがかかり、ダイアモンドがそこに清冽な光輝を添えていた。象牙色のサテンでできた胴衣には金色の光沢を放つ大粒の真珠が散りばめられ、真珠はまた、身を飾る刺繍や装飾の黄金に勝る輝きを放つ髪にも巻きつけてあった。ひときわ目を引くのは、真珠と束ねた髪の間に挿し込まれた花の挿頭華(かざし)、透き通る秋の空の色に似た、世にも珍しい青薔薇の花であった。
 少女自身は金の光、身にまとうのは鮮やかな青。人々の目には太陽が青空をまとって現れたかのように映った。彼女の美はまさしく驚異そのものであった。美しすぎて、目を離せないか、或いはじっと見続けていられないほどだった。
 この一時間ほど前に大臣の娘と結婚することを決め、踊りにもとっくに飽きて少々暇を持て余し気味に座っていた公子は立ち上がった。それも、我知らず立ち上がっていた。彼はそのまま広間を、踊る人々を突っ切っていった。人々は無言で道を空けた。
 公子は鎖に引かれる人のように真っ直ぐに進んでいき、エルベティーナの前まで来ると一礼した。
「よく来てくれたね」
「お招きいただきまして、ありがとう」
 エルベティーナの挨拶は形通りのややそっけないものだったが、公子は殆ど気にしなかった。彼女の眩しさに目がくらみながら、彼は言った。
「君が来てくれただけで、今日は僕の人生の中で最も素晴らしい誕生日になってくれた。この上、僕と踊って更なる喜びを与えてはくれないか、美しい人」
 エルベティーナはぎこちなく微笑んだ。振る舞い方や答え方は知っていたけれども、このような場や大勢の人々の好奇の目にさらされることには慣れていなかったし、全く一人で知らないところを訪れるのも初めてで、心の中には大いに不安を抱えていたので。
「他にも姫君たちはたくさんおられますのに、本当に私などをダンスに誘ってくださっても宜しいのですか」
「君が踊る間、ずっと相手を務めさせておくれ」
 そして、その通りになった。
 緩やかなもの、早いもの、目まぐるしいもの、ゆったりしたもの。様々なダンスがあった。公子とエルベティーナは時たま離れ離れになることもあったが、そのたびに公子は食い入るように彼女を見つめ、今手を取っている娘には目もくれなかった。けれども同じフロアで踊り、ダンスの際に彼女と指が触れあったり、細い腰を抱いたりした他の青年たちもやはり、離れても彼女を目で追うのだった。
 フロアの隅では、ダンスに加わらない人々がざわめいていた。それは、公子が夢中になりすぎている、誰よりも美しいけれども、どこの馬の骨とも知れない娘についての悪意あるざわめきだった。公子が彼女にすっかり心を奪われていることは誰の目にも明らかだった。今夜この場で、いずれ結婚することを決めた娘よりもずっと、突然現れた黄金の少女が彼の心を占めているのだということは。


(2012.3.1)

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