戻る

かなしみの朝


 心とは脳が作り出すものなのか、それとも魂に宿るものなのか。
 記憶は脳の神経細胞の一つ一つ、シナプスが互いに手を伸ばしつながり合うことで刻まれていき、そこに走る電気信号によって再生されるものだという。ならば今ここにいる僕――『懐紀』として生きている僕が持つ『夏希』の記憶はどこから蘇ってくるものなのか。
 こうして思考しているのは『夏希』だが、その器は『懐紀』であり、社会的にも僕という存在は『懐紀』という名で呼ばれ、彼として行動している。
 では果たして僕はどちらのナツキと言うべき存在なのか。
 その疑問に、僕はいまだ答えを出すことができない。



 目が覚めたのはいつものように早朝というにも早い時間だった。まだ物の形もおぼろげな暁闇の中、隣に寝ている秋弥を起こさないように気をつけながら僕はそっと足を下ろし、ベッドを抜け出した。
 秋弥より早く起きて、一人で顔を洗う。水音が消えると、遠くから日の出と共に目覚めたらしい小鳥のさえずりが聞こえてきた。顔を洗っている少しの間に日はどんどん昇って、白っぽい光がバスルームに射しこんでいる。
 しんと冷えた洗面台の鏡の中から見返すのは、僕のものではない僕の顔だ。誰もいない朝のバスルームで、鏡を見つめる。それが僕の習慣になって、もう三年になる。それとも、まだ三年だろうか。
 もはや見慣れた懐紀の鏡像。だが僕は僕自身の顔を、まだはっきりと覚えている。
 時折、僕は僕自身の夢を見る。それは懐紀から見た夏希の夢だ。この体――懐紀の脳が記憶している、共に過ごした日々を再現するその夢は細部に至るまで驚くほどに鮮明で、だから僕は夏希としての僕自身の顔や声を未だ忘れずにいられる。
「おはよう、懐紀」
 僕は気まぐれに、鏡に向かい微笑んでみる。凪いだ水面のようになめらかなガラスと金属の向こうから微笑み返す懐紀の顔は穏やかで、それは僕らがずっと幼かった頃、僕に向けられていたのと同じ表情だ。
 二人で同じものを見、同じことに笑いあう、そんな穏やかな時代もあったのだということを、僕は忘れていたような気がする。『懐紀』はもう、僕の魂を宿す器としてしか存在していない。たとえ人の目には生きているように見えても、『懐紀』はこの世のどこにもいないのだ。僕の魂と、この体に残る記憶の中より他にはどこにも。
 そんな今になって――僕が懐紀として生きることになってから、僕は彼が優しい男だったのだということを思い出した。というよりも、その優しさはもはや僕自身の感覚であり記憶であると言っても過言ではない。息をするように簡単に、僕は『懐紀』としての記憶や思考を辿ることができ、彼そのものとして振る舞うことができる。
 そしてまた、知らずにいたことまでも知ってしまった。気づいてしまった。
 僕は昔から、優しいと言われることが多かった。でもそれは真の意味での優しさなどではなかった。僕はただ他者とぶつかり合って負けることを恐れていただけ。弱く、卑怯だっただけだ。本当に優しかったのは懐紀であり、その優しさを歪ませたのは他ならぬ僕自身の弱さであると。
 僕は偽善、懐紀は偽悪。正反対のように見えて案外、互いに互いを傷つけあう存在である点において、僕らは似ていたのかもしれない。
 なあ、懐紀。あんなにも傍にいたのに、僕はお前の事を何も知らなかった。知らなさすぎたね。知らないことは罪だとは、誰が言った言葉だろう?
 僕が憎んだお前は、僕が作り上げたものだった。僕は僕の弱さ卑怯さのゆえにお前を歪め、作り変えた挙句にお前を死なせた。お前を殺した。なのにお前はそれを知っていて、あえてその歪みを受け入れ、最期には僕のために自分の全てを僕にくれた。文字通り全てだ。『懐紀』が霧の森の中で何を思い、何を考え、何を願ったのか、この体はその事を憶えている。
 これこそが懐紀の復讐だったのだろうかと、懐紀の記憶が読み取れるようになった初めは考えたが、それはないと今では否定できる。懐紀はそんな事を考えるような男じゃないということを今の僕は誰よりも知っているからだ。だが同時に、これは僕の犯した罪の証であり与えられた罰であるとも思っている。僕は永遠に懐紀に許しを請うことはできず、この体に宿る自分自身を罪の証として生きていかなければならないのだから。
 けれども僕はその事に絶望してはいない。
 ただ、かなしいだけだ。


「時々、あなたが夏希なのか懐紀さんなのか、わからなくなることがあるわ」
 秋弥がうっすらと笑みを浮かべる。そこには寂しさの欠片のようなものが漂っている。
「僕も時々、自分がどちらのナツキなのか、わからなくなるんだ」
 懐紀をよく知る人には「あの事故以来、夏希に似てきた」と言われる。姿形は懐紀のままでも、魂は僕なのだから当然だと思っていたが、近頃ではそうは思えない。懐紀の記憶を持ち、懐紀の考え方を辿り、懐紀として生き、やがて懐紀として死ぬだろう僕を夏希であるとするその相違は一体どこにあるのだろう。
 僕は懐紀の顔で、懐紀には決してできない笑い方で、笑い返す。けれどそれもやはり懐紀なのだ。彼女と僕の笑みの根底にあるものは、きっと同じだ。


「……なつき」
 音にする。
 僕と、彼の名を。
「懐紀」
 もう一度、僕の名と同じ響きを持つ別の名を呼ぶと、胸の奥から形の無い何かがせり上がってきて、ぐっと喉が詰まった。鼻の奥がつんと痛み、鏡の中から見つめ返している懐紀の輪郭が歪んだ。
 洗面台の縁に手を突き、上体を傾けると鏡に額が当たった。冷たく硬い感触はまるで、虚像と実像が一つになることを拒絶しているかのようだった。
 ――懐紀。
 お前という世界の中で僕は一人だ。だが決してそれは孤独を意味しない。
 僕の魂に刻まれた夏希としての記憶、彼の脳に積み重ねられた懐紀としての記憶。僕たちの記憶は溶けあい、混じり、やがては一つになるだろう。その時、僕たちを個として隔てる境界は消え失せ、僕は懐紀になり、懐紀は僕になる。
 個ではなくなる悲しさ。
 孤ではなくなる(かな)しさ。
 果たして僕はどちらの『ナツキ』と言うべき存在なのか――。その問いに、いまだ答えは出ない。だが、もはや答えなど、僕たちには必要ないのだ。


終(2011.3.10up)
(2015.3.20一部修正)

戻る
web拍手
inserted by FC2 system