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白い闇


 俺と夏希はその日、霧の森に入った。山歩きや散策のためではない。話をするためだった。俺は誰に聞かれようが構わないと思っていたが夏希はそうではなかったらしく、誰にも聞かれず、邪魔も入らない所で二人きりで話をしたいと言いだしたのは夏希の方からだった。
 霧の森は昼も夜も濃い霧が立ち込めていて、ちょっと道を外れてしまえば自分がどこにいるのかも判らなくなってしまうような場所だ。年に何人も行方不明者が出て、死者として見つかる者もいれば二度と見つからない者もいる、そんな所だ。霧の森に行ったことを誰にも知られなければ、そこで何をしても、何が起きても真実は永遠に霧の中――。行方不明者を作り出すにはもってこいの場所だと言えるだろう。
 もし別の人間が相手で、今の俺と夏希が置かれているのと同じ状況で、霧の森で話をしようと言われたら俺は断っただろうと思う。それくらい、傍から見れば俺と夏希の関係は緊迫したものだった。
 待ち合わせしていた森に続く遊歩道の入り口には時間ぴったりに着いたが、夏希は俺よりも先に来ていた。夏希はいつも待ち合わせの三十分以上前に来て、無意味に待つ。昔からそういう奴なのだ。俺が時間より早く来ることなど無いと判っているはずなのに、どうして早すぎる時間に来るのか不思議でならないが、時計を見たり周囲を見回したりしながら、俺がいつ来るかを気にしている、そんな夏希を眺めるのは楽しかったので、だから俺は決まって時間丁度に現れるようにしていた。
 行くぞ、と言うように俺が森の方へと顎をしゃくると、夏希は無言で頷いた。夏希の顔はほとんど表情が無くて、俺と目を合わせることもしなかった。本当は俺を睨みつけたかったのだろうし、罵りたかったに違いない。けれどそんなことができない男だというのは、彼自身と同じくらいに俺も知っていた。
 俺と夏希の付き合いは古い。俺たちが最初に出会ったのは幼稚園だった。俺は懐紀で彼は夏希、字は違うが同じ名前だったこともあって自然と親しくなった。俺たちは互いに互いが、人生で最初の友人だったのだと思う。
 夏希はその頃から気が弱くて、自分のおもちゃを取られたり仲間外れにされたりしても先生や親に訴えず、一人で涙を浮かべてじっと我慢しているような子供だった。俺は夏希が泣くのは何よりも嫌で、取られたおもちゃを取り返してやったり、自分の遊び仲間に入れてやるのが常だった。
 どういうわけか夏希は割を食うことが多くて、皆で騒いでいるのに夏希だけが叱られるとか、係や委員で面倒な事を押し付けられることが多かった。けれども小学校、中学校と学年が上がるにつれて夏希は泣かなくなった。泣かない代わりに笑顔を浮かべてそういった何もかもをやり過ごすようになった。
 最初に俺が、夏希のそんな笑顔に苛立ちを覚えたのは小学生の時だ。その頃夏希は飼育係をやっていて、夏休みの間、クラスで飼っている動物の世話を誰がするかという話をしていた。他の奴らは夏希が強く言えないのをいいことに、一日か二日ばかり自分で担当して、残りのほとんどを彼に押し付けたのだ。
「待てよお前ら。係は四人なんだから、交代でやるのが普通だろ。これじゃ、なっちゃんばっかりやることになって、不公平じゃないか」
「僕がいいんだから、いいんだよ、懐ちゃん」
 同級生に文句を言う俺の袖を引っ張って、夏希は制止した。帰り道で、俺は夏希に思ったことをそのままぶつけた。
「どうしてなっちゃんはそうなんだよ。あんなの、なっちゃんに面倒なこと押し付けてるだけだって判ってるだろ? なっちゃんだって、ほんとは嫌だろ?」
「うん……。だけど、僕が嫌だって言って、それで悪い雰囲気になるのはもっと嫌だから。それなら僕が我慢すればいいだけの話だもの。懐ちゃんがそう言ってくれるだけで、僕は充分だよ」
「なっちゃんさ……本当、そういうのやめろよ。絶対、良くないから」
 言ったところできっと、夏希はそんな考え方を変えないだろうなと思いながら、俺はいつもそう言った。
 俺は夏希のそういう考え方が大嫌いで、だけど夏希のことは好きだった。
 決定的に俺が夏希の性格を――その事なかれ主義を許せないと思ったのは中学生の時だ。始業時間になっても騒いでいて、中心にいた俺が代表で叱られて廊下に立たされた時、お咎めなしだったのに夏希もわざわざ「自分も騒いでいました」と俺に付き合って廊下に出てきたのだ。
「バカだな夏希、わざわざ叱られに出てくる奴がいるかよ」
「懐紀だけ叱られるのっておかしいだろ? 僕だって一緒に喋ってたんだから」
 その笑顔を見た時、こいつは馬鹿なのだと心の底から俺は思った。
 そして気づいた。夏希は他人に利用され、踏みつけにされる自分、いい人である自分というものが好きで、不幸に酔うのが幸せなのだ。だから彼は一生、自分から不利益や不公平を求め、甘受し続けるだろう。
 でも俺は、そんなのは間違っていると思う。だから夏希には、自分の生き方は間違っていると知ってもらいたい。夏希にとっては、不幸であったり、誰かに利用されたりするのが嬉しいのだろうが、でも俺はそんな夏希を見るのは嫌だった。矛盾する俺と彼の幸福を両立するためにどうすればいいのだろうかと思ううち、俺は少し考え方を変えた。どうあっても通じないのなら、いっそ最後まで通じなければいい、と。
 他人に夏希を不幸にされるのは我慢ならないけれど、それが夏希の喜びなら、それは俺が与えればいいのだ。夏希の恨みも憎悪も、不幸の中にある歪んだ喜びも、全部俺だけに向かえばいい。歪んだ独占欲なのだと自分でも判っている。けれどもう、夏希が自分を変えられないのと同様に、俺にもそれ以外の生き方はできないのだ。
 俺は俺の全存在をかけて夏希を否定する。そしてどんなに否定されても夏希は決して自分を枉げないし、俺を否定する。自分で決めたことだとはいえ、決して交わらない平行線を辿る俺たちはいっそ滑稽で、哀れだ。
「ここらでいいだろう」
 先を歩く夏希に、俺は声をかけた。もう周囲は真っ白い濃霧に包まれて、夏希の姿はぼんやりとした影にしか見えない。視界不良で自分の足元だっておぼつかない状態だ。だが俺はあらかじめ散策路の経路を頭に入れていたので、自分の現在地を大体把握していた。何かあるにしろ、無いにしろ、霧の森で話をするならこの場所にしようとずっと考えていた。
「そうだな」
 夏希は応え、立ち止まった。俺は夏希の出方を待つつもりで沈黙を保っていた。
「それで――お前は秋弥と結婚するつもりなのか」
 問いかける夏希の声は少し震えていた。
「ああ」
 する話など、それ以外に考えられなかったから俺は即答した。ジャケットの内ポケットから煙草を取り出したが、この霧のせいで湿気ていたらしい。なかなか火が点かないので吸うのは諦め、箱とライターをポケットに戻した。
「彼女は、なんて」
「何も。親に逆らえる女じゃないだろ」
 もしかしたら何か言っていたかもしれないが、俺には興味のないことだったので憶えていない。夏希の恋人でなければ関心すら持つことのなかった女だ。
「一つだけ聞いてもいいか」
 夏希の声の震えはよりはっきりとしたものになっていた。怒っているのか、悲しんでいるのか、俺にその表情を見ることはできない。だが今この瞬間、夏希が心に抱いている感情の全ては恐らく俺一人に向かっている。そう考えるのはたまらない快感だった。
「お前、最初から僕と秋弥が付き合っていることを知っていたのか」
 問いかけて、夏希は言葉を切った。わずかな沈黙。
「……知ってたよ」
 ゆっくりと俺は言った。秋弥。つまらない女だ。親に言われるまま夏希と別れ、俺との結婚を承諾するような、自分の意見一つ言えない女。夏希との仲を裂いた俺を恨んでいるくせに、言葉はおろか態度に出すことすらできず、嘘くさい作り笑いを浮かべてみせる。そんな所は夏希に良く似ている。
「知っていたからそうしたんだ。あの女はお前を愛してる。お前もあの女を愛してる。だけどあの女と結婚するのは俺だ。傑作だろ」
「お前っ……!」
 夏希は声を荒げかけたが、言葉は続かずそのまま息を飲み込んだ。普段他人を罵ったり怒鳴ったりすることがないから、何を言えばいいのか判らなかったのかもしれない。
「何でか聞きたいか? 俺はお前が嫌いなんだ。いつもいつも善人ぶって、恋人をとられたくせに、結婚おめでとうなんて言いやがって。虫唾が走るんだよ、そういう偽善者面が。ちょっとは悔しがれよ。泣いて喚けよ」
 そうだ。不幸な自分に酔っているお前なんか大嫌いだ。恨みがましい目をしながら顔には笑みを浮かべて、思ってもいない祝福を送るお前が許せない。でもな、そんなお前を変えることができない自分自身が一番憎いんだ、夏希。どうすれば、何を言えば、他人のために耐えることが幸せじゃないんだってことにお前は気づいてくれる?
「……それだけのために彼女と結婚するのか」
 しばらく黙っていた夏希は、押し殺したような低い声で言った。
「お前――彼女を幸せにしてやる気はあるのか」
 ここまで来ても、他人の心配なのか。秋弥なんかどうでもいいだろう。お前がどうしたいのかが重要なんじゃないのか。俺は失望と諦めを半々に織り交ぜた溜め息をついた。恨みごとの一つでも言ってくれたなら良かったのに。そうしたら俺は、今度のことは行きすぎだったと謝ってやれるのに。そして心から、幸せになれと言ってやれるのに。
「だから、そうやっていい子ぶるのが嫌なんだよ」
 不幸な自分に酔いたいのは判る。だがそれでは駄目なんだ。嫌いなら嫌いと、憎いなら憎いと言ってみせろ。欲しいものは欲しいと言わなければ駄目なんだ。お前はお前の本当に求めるものに手を伸ばすことを覚えなくちゃいけない。
 そう、はっきりと言う事ができたらどんなに良かっただろう。けれど俺にはそんな事は言えないし、恐らく言う資格もない。言ったところで夏希に通じるとも思えない。だから俺は、憎しみを受けることだけで満足する。いつかは夏希が気づいてくれるのではないかと淡い希望を抱いて。
「何で……」
 夏希の影が揺らいだ。
「何でお前に僕の幸せを奪う権利があるんだ!」
 悲鳴のような夏希の声。霧をかき分けて夏希が姿を現したと思った次の瞬間、両肩に彼の指が食い込み、強く後ろへ押された。夏希が飛びかかってきた勢いのまま、俺は彼ともつれ合うように倒れそうになり、体を支えるために咄嗟に足を後ろへ出した。だがそこに地面は無かった。
 支えるものの無い俺たちの体は宙に投げ出され、一気に落下した。落下に伴う無重力感は数秒もなく、激しい衝撃が全身を襲った。地面に叩きつけられた肩から何とも言えない音がして、ああこれは折れたな、と俺は思った。あまりにも損傷が激しいと感覚が遮断されると聞いていたが、本当に痛みはない。目の前にどんどん拡がっていく赤い血溜まりもどこか遠いところの出来事のようだ。
 地面にぶつからなかった方の半身の下には温かく柔らかな物体があり、耳のすぐそばでごぼごぼと泡立つような呼吸音が聞こえたので、夏希まで一緒に落ちて、半分ばかり俺の下敷きになってしまったのだと判った。
 これは少し予想外だった。
 恐らく夏希は知らなかったのだろうが、散策路の一部が崖の上を通っていることを、俺は知っていた。知っていて、夏希をそこで呼び止めて、話をしている間に崖を背にするように動いた。もしも夏希が俺に対して秋弥と別れてくれと求めたのだったら俺は喜んでそうするつもりだったし、殴られたり掴みかかられたりしたら、事故のふりをしてそのまま落ちてしまおうかと思っていた。
 夏希がどういうつもりでここを選んだのかは判らないけれど、俺は夏希が本当に望むもののためだったら彼に殺されたって良かった。
 自分自身の歪んだ感情に振りまわされ続ける人生に、すっかり疲れ果ててていたのだ。だから、夏希の手で幕を引いてほしかった。なのにその夏希が俺と一緒になって死んでしまったら、何の意味もないじゃないか。
 霧の中から声が聞こえたのは、その時だった。
 言い伝えだとばかり思っていた霧の魔物の声だった。そいつは夏希に対して、魂と引き換えに願いを一つだけ叶えてやる、と告げた。
「僕の魂と引き換えに、懐紀が秋弥をちゃんと愛して、彼女が懐紀を愛せるようにしてほしい」
 肺がやられている筈なので、恐らくほとんどまともに声も出せていなかったはずだが、夏希の願いは俺にも聞こえた。その願いに俺が感じたものは絶望に近かった。
 さっき俺を殺そうとしたくせに、こいつは何を言っているのだろう。殺そうとしてしまった事を悔いて、俺だけでも助けようというのか。或いは秋弥のために、経済的には彼よりも恵まれている俺を残してやろうというのだろうか。
 そう思うと、絶望の次に湧き上がってきたのは強烈な怒りだった。
 何のためにお前はさっき、俺に掴みかかったんだ? 秋弥を取られたくなかったからじゃないのか。俺が秋弥を奪ったことが悔しかったからじゃないのか。お前にとって、秋弥はその程度の存在だったのか? 確かにお前はそれで満足かもしれない。身勝手な自己満足に酔って死ねるかもしれない。
 けれど秋弥の心は? 俺の心はどうなる?
 魔物に操られて心を変えられて、それで得られるものが幸せだと、お前は本当に思っているのか?
「――待ってくれ」
 霧の中に確かに居るはずなのに、気配すら感じない「何か」に向かい俺は口を開いた。喉の奥が壊れた笛のような音を立てる。だが俺の声――或いは意思――は届いた。そいつは、俺にも同様に、魂と引き換えに願いを叶えてやろうかと持ちかけてきた。
「夏希の代わりに、俺の魂を持って行け」
 それがお前の願いなのか、と魔物は問うた。
 そうだと答えると、それではもう一人の願いを叶えられないと魔物は言った。
「なら、俺の体に夏希の魂を入れればいい」
 秋弥が本当に心から夏希を愛しているのなら、夏希の魂がそこにあれば、たとえ体が俺のものであったとしても愛することができるだろう。宿るものが夏希の魂ならば、俺の体は秋弥を愛することになる。魔物は取引を違えたことにならない。
 きちんと言葉にして伝えたわけではないが、どうやら心を読むことができる魔物は俺の言いたいところを全て理解したらしい。


 ――お前の望みは聞き届けた。


 その答えを聞いて、俺は微笑んだ。夏希は俺がいなくても生きていける。でも俺は、夏希のいない世界に生きる意味を見出すことができない。夏希の自己満足のために、夏希がいない世界で生き続けるなんて冗談じゃない。
 だから、生きるのは夏希でなければならない。
 俺が死んでも夏希は悲しまないだろうし、悔やむこともないだろう。それでいい。それこそが夏希を夏希たらしめているものなのだから。夏希はきっとこれからも偽善的な生き方を変えないだろう。
 だったら一度くらい、お前の自己満足を誰かが裏切ってもいいだろう? お前のために誰かが――俺が犠牲になったっていいじゃないか。俺がお前のために命を投げ出すなんて、お前にはきっと想像もつかないだろうな。
 このことには一生気づかないだろうお前が憎くて、狂おしいほどに憎くて、絶望的に愛しいよ、夏希。
 俺の魂はここで死ぬのだろうけれど、俺の体はお前の魂を宿して生き続ける。たとえお前が俺を忘れようとしても、それは永遠に不可能だ。
 ――夏希。
 これから先、俺はお前であり、お前は俺だ。俺たちは二人で一人の『ナツキ』になる。
 それがこんなにも嬉しい。
 無上の幸福感に包まれながら、俺の意識は白い闇の中に溶けていった。



終(2011.3.2up)
(2015.3.20一部修正)

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