隣に潜む


 その出来事は、入社二年目の冬に起きました。
 僕の勤め先はいわゆる進学塾というもので、子供たちを教える立場にある者として、ただ勉強を教えるだけでなく、見本となる大人であろうと日々緊張しながら働いていたものです。
 そして、新しく主任になったYさんの歓迎会が開かれた時のこと。最初の乾杯も終わり、ほどよく皆にアルコールが回ってきた頃。僕の隣に座っていた本部長のHさんがビールを勧めてきました。
「おいR、お前ちっとも飲んでないじゃないか」
「僕は車で来てるんで」
 僕はウーロン茶のグラスをちょっと掲げて、H本部長に断りを入れました。それに僕は、一口だけですっかり酔い潰れてしまうくらい酒に弱かったので、車で通勤していなくても酒は全く口にしない主義でした。
「飲酒運転になっちゃいますから、お酒はちょっと……」
「何言ってんだ、付き合いの悪い奴だなあ。一杯くらい、大したことないって。ほらほら」
 H本部長は、なおも僕のコップに注ごうとビール瓶を突きつけてきました。それを手で蓋をして防ぎながら、何言ってんだと言いたいのは僕の方でした。酔っぱらうとどうしても他人に飲ませたがるタイプの人間がいますが、H本部長もまさにその手合いでした。
「本当に、いけませんって。だいたい、Yさんもいるのにそんな事を……」
 僕は声をひそめて、H本部長に少しでも理性を取り戻してもらおうと訴えかけました。
 というのも、Yさんは酒席を共にした営業先の相手が運転する車に同乗し、その相手が飲酒運転の挙句にひき逃げ事故を起こしていたからです。もちろん飲酒運転と知りながら同乗し、結果としてひき逃げに加担したYさんも罪に問われ、逮捕されています。こうして戻ってきているということは、起訴されなかったか、軽い処分で済んだのでしょうが……。
 上層部はこの事実を隠蔽しようとしていましたが、彼が本社から異動してきたのはそれが理由だと、事情を知る生徒や保護者の間ではもっぱらの噂でした。正直なところ、ひと一人が亡くなっているのに、何事もなかったかのように会社に戻り、さらには何の功績があったのかは知りませんが主任という地位に平然とついているYさんに、嫌悪感がなかったとは言いません。
「ああ、あれはな。あれは、運が悪かったんだよ。なあ、Y。お前もとんだ事故に巻き込まれちまったよなあ」
 突然話を振られたYさんは、それまでの僕とH本部長の会話を聞いてたのでしょう。聞き返すこともせずに頷きました。そして、わざとらしいくらいの大きなため息をついて、言いました。
「全くですよ。信号もない場所で、いきなり飛び出してくる奴が悪いっていうのに」
 今度こそ僕は耳を疑いました。
「ま、とにかく、飲酒運転なんて可愛いもんさ。俺なんかなあ、もっとすげえことをしたんだぜ。ま、未遂だけどな」
「えー? なになに。本部長、何したんですかぁ?」
 同僚のTさんがそれを聞いて、身を乗り出してきました。本部長は食い付きの良いTさんの方に向き直り、僕に酒を飲ませようという当初の目的をすっかり忘れてしまったようでした。それはそれで結構でしたが、話はだんだんおかしな方向に流れていきました。
「もう二十年以上経つから俺の学生時代のことだけどさ、あの頃、幼女誘拐がやたら多かっただろ」
「ああー、ありましたねえ。○○ちゃん事件とか、色々」
 立場は僕と同じ平社員ですが、年齢的にはH本部長に近いKさんが頷きました。
「俺もさあ、若気の至りってやつだな。小学生か、幼稚園くらいの女の子に声をかけたことがあるんだよ。車に乗せようとしたところで逃げられて、それで失敗しちまったんだけどな。ま、あれで我に返ったから、一線は超えずに済んだんだけど」
「やっだぁ、本部長ってば、悪いんだあー」
 Kさんは何が面白かったのか、けらけらと笑いました。でも、僕は笑うどころではありませんでした。H本部長が言ったその二十年ほど前、小学一年生だった僕の姉は大学生風の男に誘拐されかけたのですから。
 未遂だったことと、目撃者が姉とその友達だけだったこともあってか、犯人は捕まっていません。犯人の年代も、あと一歩と言うところで逃げられたという経緯も、姉の事件とあまりにも似ています。まさかとは思いましたが、偶然にしてはできすぎた一致です。僕は背筋が冷たくなるのを感じました。
 胃の辺りに込み上げてきた不快感で黙り込んでしまった僕をよそに、目の前で繰り広げられている会話は、いつのまにか本部長言うところの「若気の至り」の自慢話へと変わっていました。
「誰にでも、そういう時期ってあるわよね。私も高校の頃ちょっと荒れてて、化粧品とか、雑誌とか万引きしてたわ。別にどうしても欲しいわけじゃないんだけど、何ていうのか、店員の目を盗んでっていうスリルが楽しかったのかな」
 酎ハイを片手に、Yさんも会話に加わってきました。周りと同様、もうすっかりできあがった様子です。酒席の後で人を死なせておきながら、どうして酔っ払えるのか――酒を口にしようという気になるのか、僕には理解できませんでした。
「わかるわかる。ほら、中高の頃って、体育とか音楽の時は荷物とか着替えとか机の上に置きっぱなしじゃん? 途中で一人だけ先に教室に帰ってきた時なんかに、こいつらの財布、今なら盗れるなー、なんて思わなかった? 財布丸ごとだとすぐ分かるけど、中身をちょっと抜くだけならバレにくいしさ。あのドキドキがいいんだよ」
 Yさんの口ぶりからすると、どうやら彼は実行に移したことがあるようでした。
「KさんもYさんもおとなしいなぁ。俺なんか、カツアゲだぜ」
 ひひひ、と肩を揺らして笑いながら、Tさんが言いました。
「ええー」
「Tさん、やるなあ」
 KさんとYさん、H本部長も、まるでヒーローでも見るような目でTさんを見ました。
「俺の行ってた高校の近くに、ちょっと出来のいい奴が集まる私立中学があって。鼻にかけてて生意気だってんで、そいつらの校章を取ったり小突いたり、ちょっと荒れてる連中だと、カツアゲするのが流行ってたんだよ。で、俺もやってみたわけ。でもしけた奴で、小銭しか取れなかったけどさ」
 すっかり会話の輪から外れて取り残されていた僕でしたが、Tさんの発言で嫌な記憶が蘇りました。僕は進学校である私立中学に通っていたのですが、近くには荒れ気味の高校があり、そこの生徒たちは僕たちを目の敵にして嫌がらせをしていました。同級生の中には数人に追いかけられ、暴行を受けた人もいました。僕も一度だけ、恐喝の被害に遭ったことがあります。
 あの時僕を脅した高校生と、Tさんは似ても似つきません。でも、あの時の高校生は今、Tさんくらいの年齢です。具体的な学校名は出ませんでしたが、もしかしたら彼の言った中学校とは、僕の出身校ではないのか。
 そう思うと、人のよさそうな顔をしたTさんが俄かに鬼のように見えてきました。
「さっきから黙ってるけど、R君は何かないのか? 君だって羽目を外したことくらいあるだろ?」
 手羽先を齧りながらYさんが尋ねてきましたが、僕は首を横に振るしかできませんでした。僕も、僕の家族も、被害者になることはあっても加害者になったことなど、本当にただの一度もなかったので。
 するとYさんは小馬鹿にしたような顔で言いました。
「思い出せば何かあるだろ? ほんとに無いの? つまらないなぁ」
「Rはそういう奴なんだよ。酒も飲まん、遊びもやらん、クソ真面目だけが取り柄ってやつなんだ。まあさぁ、バカ正直に生きてたってつまらないだけ。結局のところ、捕まんなきゃいいんだよ」
 H本部長が言うと、彼らはどっと笑いました。笑えなかったのは僕ばかりです。彼らの喋っているのは確かに日本語なのでしょうが、僕には全く理解できない世界の言葉のようにしか聞こえませんでした。
 やがて同席していたアルバイトの学生たちも同じような経験談を打ち明けはじめ、皆は愉快な話でもしているかのように笑っていました。その中で、話に加われず、笑うこともできないのは僕だけでした。
 誰しも犯罪の一つ二つ犯しているのが普通で、何も思い当たることのない僕は異常なんだろうか。異世界に迷い込んでしまったような思いのまま、僕は帰宅しました。
 決定的に、この人たちにはついていけないと感じたのは、その翌日でした。
 塾生の一人が、塾の入っているビルの階下にあるコンビニで万引きをしたのです。まだ小学校の低学年であることと初犯であること、盗ったものが百円もしない駄菓子だったこともあり、警察は呼ばれず、店長から注意を受けるだけにとどまりました。
 とはいえもう授業どころではないと、連絡を受けて親が引き取りに来るまでの間、Yさんは講師室で説教をしていました。
 何を言っていたのか、仕事中だった僕には聞き取れませんでしたが、授業を終えて廊下に出てきた時、ちょうど母親にその子を引き渡すところに鉢合わせたので最後の言葉だけが耳に飛び込んできました。
「いいか、こんな馬鹿なことは二度とやるんじゃないぞ。万引きなんかしてちゃ、ろくな大人になれないからな!」


 その時僕が感じたのは、呆れとも怒りともつかない、どうしようもない無力感でした。
 僕が会社を辞め、転職したのはそれから間もなくのことです。
 今の職場では、あの時のような話は聞きません。でもあれ以来、僕は恐くてたまりません。街の中で、電車の中で、僕の隣にいる人。まるで罪のない小市民のような顔をしているその人たちの中には、捕まっていないだけの犯罪者がどれだけ潜んでいるのだろうか、と。


終(2011.1.20up)

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