闇に靡く


 私の生活には地下鉄が欠かせない。通勤で毎日利用しているのはもちろん、中学の頃から通学でずっと利用している。登校は通勤ラッシュの時間帯だったので満員電車に揺られることになっていたが、下校の時間はそれなりに空いており、運が良ければ座ることができた。今でもそうだが、私は乗り物で座っていると眠くなる習性(高速移動していれば九割の確率で寝る。ちなみに止まると目が覚める)を持っているため、読書などしていなければほぼ確実に居眠りコースを辿っていた。
 立っている時間はたいてい読書に充てていたが、どこに続くのか分からない切り替えポイントだとか、保線工事用の空きスペースだのトンネルだのが見えるので、窓の外を眺めるのも楽しみの一つだった。先頭車両に乗った人が、運転席の後ろからの光景を見たがるのと同じ心理だと思う。
 ある日の下校途中、運よく空いた席に座ることができた。いつものように鞄から本を取り出し、読みはじめる。とはいえ集中しすぎて何度か乗り過ごしてしまったことがあったので、下車駅の二つ手前で読むのをやめ、することもなく向かい側の窓の外に広がっている暗闇を眺めていた。
 その時、窓枠の辺りに何か黒いものがひらひらしているのが見えた。
 私が座っていたのは車両の端だったし、その当時で三十年以上経っている古い車両だったので、連結部の蛇腹に使われている布の一部がほつれてでもいるのかと思ったが、さすがにそんな状態の車両を走らせるとは思えない。ちらりと見たが、連結部には何の異常もなかった。
 それに布にしては細すぎるし、何か糸束みたいにも見える。目を凝らしてみて、ようやくそのひらひらは髪の毛だと気付いた。女の髪なのか、ぱっと見で五十センチはある。髪しか見えなかったが、ということは本体は窓枠の外――車体に張り付いてでもいるのだろうか。
 それともう一つ気付いたことがあった。向かい側の窓の外にあると思っていた髪の毛だが、窓に映る私に遮られていた。つまりそいつは、私の真後ろにいたのだ。
 振り向く勇気は私にはなかった。それから、窓が開いていなくて良かったと馬鹿みたいに思った。
 駅に近づき周囲が明るくなると、窓の外の髪は光の中に溶け込んだみたいに見えなくなった。幸いにして、私が「それ」に遭遇したのはその一度きりだった。


 二十年近くも昔。地下鉄の天井では扇風機が回り、窓が開閉可能だった時代の話である。


(2014.8.20up)

web拍手
ネット小説ランキング


inserted by FC2 system