深夜の女



 これは、私が父から聞いた話だ。
 父は当時、東京の大学に通っていたので親元を離れて一人暮らしをしていた。正確な年を聞いていないが、父の大学時代というから昭和三十年代から四十年代にかけての話だろう。繁華街こそ深夜も煌々と明るいが、住宅地はそうでもない。今でも街灯の少ない所は夜になるとひどく暗い。父が住んでいたのは都心から電車で三十分以上も離れた場所だったというから、約四十年前は今よりもずっと暗かっただろうと思われる。
 父はその日アルバイトがあったので、帰宅は夜遅くになり、一人で下宿へ向かう道を歩いていた。季節は秋の終わりか冬の初めごろ――肌寒さが勝るようになる時期だった。
 ここを曲がれば下宿先のアパートに着くという曲がり角に、女性が一人ぽつんと立っていた。
(あれ、こんな時間に?)
 女性が独り歩きしているような時間ではないので、父も最初にそれを不思議に思ったそうだ。
 だが女の姿がはっきりと確認できる距離まで来た時、父は言いようのない恐怖を感じた。
 それは理屈でも何でもなく、ただ純粋で強い、根源的な恐怖だった。いわく、何が何だか理由が判らない、解らないから怖い恐怖であり、人生で最も怖いと思った瞬間なのだそうだ。
 女は寒いと言ってもいいような気温だというのに白無垢一枚の姿で、俯いていたので長い黒髪が垂れて顔は見えなかった。腕には何かを抱えている。もう少し近づくと、赤ん坊らしいことが判った。
 父は黙って目をそらし、足早にその場を通り過ぎた。女は話し掛けもしなかったし、父に気づいた様子もなかった。ただひたすら黙って、ぽつんとその場に佇んでいただけ。アパートの入り口前に近い場所に立っていたから、通り過ぎればすぐに自分の部屋に逃げ込める。だから父は振り向くことも、後から様子を確かめてみることもせず、まっすぐに部屋に入り、朝が来るまで外に出なかった。
 その後、同じ道を通っても二度と女に会うことはなかった。
 白無垢姿で赤ん坊を抱いていたというその女の風体を聞くだに、産女のようだと思う。その日、近くで妊婦が死んでいたのかもしれない。何故よりによってあの日あの時間、自分の下宿先のまん前にいたんだろう、と父は嘆くのであるが。
 まあ――もしかしたらその女は少しおかしなところのある人で、寒空の下あんな時間に赤ん坊を抱えて着物一枚で外に立っていたのかもしれない。
 だが、それが何であれ、晩秋の深夜に着物一枚で立っている女である。真相を知ったところで何一ついいことはないだろうと、私は思う。とにかく、世の中には知らない方がいいこともあるのだ。
 とある日の深夜に赤ん坊を抱えた女を見た。事実はそれだけである。
 或いはそれだけだったからこそ、恐かったのかもしれない。


2010.11.20

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