前へ * 小説一覧へ
十月十三日 火曜日
 藤川の講義をさぼってみた。
 出席日数に問題はないし、罪悪感はない。
 虫を眺めているときの高揚感に似たものがある。
 どうやら僕の中で、罪悪感と快楽というのは同じものらしい。
十月十四日 水曜日
 幼虫が二匹ほど蛹になった。前まではほとんどが餌に埋もれて見えなかったけれども、その餌自体が少なくなっているのでとても見やすい。どこに何匹いるかまでわかる。
 もう真っ黒で、腐敗した餌と見分けがつかなくなりがちだ。彼らの色は保護色なのだ。蛹は少し茶色が混じったような微妙な色をしている。
 見られるかと思ったが、蛹になる瞬間は見られなかった。
十月十五日 木曜日
 たくさん、変な夢を見た。
 その中の少ししか覚えていない。
 僕は灰色の建物ばかりが立ち並ぶ街にいた。映像そのものが灰色がかって見えた。コンクリートとも違う、何かもっとぼやけたような灰色だ。
 建物で囲まれた中庭にプールがあって、濁った緑色の水がたたえられていた。何もかもが奇妙に静かで、人はみんな建物と同じ灰色の服を着ていた。
 その灰色の色彩の中で、水の緑だけがいやに目立った。


 もう一つの夢では、僕は子供に戻っていた。裏山にちょっと似ている山が出てきて、そこには洞窟があった。入ってはいけないと大人には言われていたが、僕と僕の友達は冒険心をかきたてられて入っていった。
 友達が誰だったのか定かでないが、隣に住んでいた健一みたいだった。
 洞窟のくせに、中は明るかった。
 真っ白い、ベールみたいなクモの巣がカーテンよろしくかかっていた。そのクモの巣をかき分けながら進んでいくと、小さな広間みたいな所で行き止まりになっていて、頭上から光がさしていた。
 そこに一体の骸骨が立てかけてあった。
 懐かしい人に会ったような気がした。
 太陽がやたらにまぶしかった。
十月十六日 金曜日
 学園祭準備で休み。
 幼虫は全て蛹になった。餌はまだ少し残っているが、羽化したら成虫が片付けてくれるだろう。
十月十七日 土曜日
 今日から学祭。
 サークルにも部活にも所属していない僕にはあまり関係のない話。ただでさえ人が多いキャンパスの中に、人があふれかえっているのを見ると気分が悪くなる。僕は人ごみが苦手だ。
 だから学祭なんて行かずに済むのならそれでいい。
 とはいえ土日はともかく月曜まで休みになるのはありがたい。
 今日は虫を飼いはじめて一カ月。なんとなくケーキを買ってみた。
十月十八日 日曜日
 一回くらい出てこいと充宏に誘われたので、学祭に行ってきた。
 充宏はスキーサークルに入っていて、サークルでは焼き鳥の屋台を出していた。要するに僕に焼き鳥を売りつけて、売り上げを少しでも増やそうという魂胆だったらしい。
 充宏が焼いた焼き鳥はまあまあいけた。ちょっとばかり焦げ付いていた気がするが、生焼けよりましなので大目に見ることにした。焼き鳥だけ食べて帰るのはちょっと癪だったから、演劇部の劇を見た。
 創作劇だということだったが途中で寝てしまって、内容は覚えていない。
十月十九日 月曜日
 片付け日とかでまだ休み。
 ここまで休みが続くと明日も休みたくなってしまう。
 虫を観察しようにも、今はみんな蛹で動かないから全然面白くない。つまらなかったから蛹の数を数えられるだけ数えてみた。
 全部で百三十一個。予想していたより多かった。
 そういえば、この頃は警察(多分)も僕を尾行したり見張ったりはしていないらしい。いいかげん、無駄だってことがわかったんだろうか。
 それとも、僕にはわからない何かがあるのだろうか。
十月二十日 火曜日
 最初の成虫が羽化していた。
 もっと見ていたかったけれど時間が押していたので家を出た。帰宅したらもっと増えていて、まだ残っている餌を食べていた。羽化したやつは全部捕まえて、裏山に放しに行った。
 かれらは夜行性だから、元気に飛んでいった。
十月二十一日 水曜日
 今日も順調に羽化が進んでいる。残っている蛹は三つだけ。
 さっき、羽化の瞬間を見た。
 羽化については前回も見ることができたが、いつ見ても何度見てもやっぱり感動的だ。白くてぶよぶよした感じの成虫が厳かに殻を破って出てくる。透明な羽を広げて静止していると、次第に体が黒く色づいていく。
 あんな餌からこんなに奇麗なものが生まれてくるなんて、一つの奇跡だと思う。
十月二十二日 木曜日
 最後の蛹が羽化した。
 残っていた餌は思ったとおり全て食いつくされ、あとには残りかすしか残っていない。これは虫も食べないし置いておいても邪魔だから、また庭に埋めることになるだろう。そのうち土に還るだろうし、いい肥料になる。
 今度は何を植えようかな。今から楽しみだ。
 それにしても、残骸を埋める余地が少なくなってきた。うちの庭は本当に狭い。ビワの木があって、金木犀があって、花壇があって。
 それだけだ。
十月二十三日 金曜日
 午前中に、残骸を庭の洗い場で洗った。
 虫は、皮は食べるが毛は食べない。それをたわしでこそげ落として、汚くなったところも磨いてやった。そうしたらすごくきれいになった。
 もとから人間の残骸っていうのはきれいなものだと思っていたが、今回のは特に形もきれいだった。小柄だった名残をとどめて、全体的に華奢で細い。残骸をすっかり洗ってから、縁側に敷いたレジャーシートの上にきれいに並べて干した。
 乾きかけた水滴がきらきらしていた。
 肉体を脱ぎ捨ててしまえば、人というものはどこまでも美しくなれるのだ。
 僕はしみじみとそう思った。
十月二十四日 土曜日
 朝に雨が降ったので、夕方になっても地面がぬかるんでいた。
 庭を掘るのは明日にする。
 その代わり、帰宅してから餌を入れていた水槽だとか、それにかぶせていた網とかを洗った。きれいにしておかないと、次に使う時に困ったことになる。
 合間に、和室に置いてある残骸を眺めた。
 やっぱり、この方がきれいだ。
 顔とか体つきに対する先入観を持たずに接することができる。
十月二十五日 日曜日
 買い物に行ってから、庭に残骸を埋める穴を掘った。正直言って、あれがこんなに美しくなるとは思っていなかったから、ちょっと勿体ないような気がした。でもずっと傍にいるとますます離れがたくなるだけだから、涙を飲んで埋めることにした。
 シャベルにぶつかるものがあったので何かと思って慎重に掘り出してみたら、前に埋めた母だった。見るからに古いものだったし、前歯が金歯になっていたから、すぐにわかった。
 この骨が肉体をまとっていた頃は憎くて仕方がなかったけれど、今となってはその憎さも懐かしいだけだ。
 やはり虫を飼うことは僕にとってカタルシスになるらしい。


 母と義父は僕の足元。
 理沙は金木犀の下に。
 健一はビワの木の下。
 いつでも彼らはここにいる。
 憎かった相手を赦し、愛しい人たちと共に生きる。
 こんな幸せが他にあるだろうか。


 雲が明るい午後だった。



前へ * 小説一覧へ
web拍手


inserted by FC2 system