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十月三日 土曜日 | |
警察にあれこれ聞かれたのは一週間前の土曜だった。なんだか一週間がとても長かったように思う。 この頃、僕の後ろを誰かがつけてきているような気がする。見張られてるみたいなのだ。神経質になると、どうでもいいことで変なことをしてしまうので、意識しないようにしている。 だからといって全く気にならないわけでもない。誰だってああいうふうに、いかにも不審者と言わんばかりに見張られたら嫌な気持ちになるに違いない。 僕が虫たちを眺めるように、人類みんな愛を持って接しあえたら世の中は平和になるだろうに。 考えてみたらあまりにも理想郷すぎて泣けた。 |
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十月四日 日曜日 | |
幼虫の中に、三回目の脱皮をしているやつを見つけた。とても早い。 まだ二回目の脱皮から四日しか経っていない。普段だったらもう少し……あと二日くらいかかるんだが。 餌が良いんだろうか。 |
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十月五日 月曜日 | |
一限の比較文化の授業の時、久々に充宏が隣になった。 「飯田のおふくろさん、圭介が飯田を殺して埋めたって騒いでるらしいぜ」 遅れてきた充宏は、座るなり小声でそんなことを僕に言った。 僕は、そんなこと言われてるなんて知らなかったと答えた。 実際知らなかったし。 「人聞きが悪いな」 「全くだ」 充宏は大事な友人だが、僕に虫を育てる趣味があることは知らない。 殺したって、埋めたりなんかしないで家に大切に飾っといてやるのにと呟いたら、充宏はとびきりの冗談を聞いたような顔をして笑った。 教室中がうるさかったから、充宏の笑い声はすぐに紛れて消えてしまった。 僕の発言は思いのほか充宏には受けたらしい。 「そんなこと、警察の前で言ってみろよ。洒落にならないことになるぞ」 というようなことを充宏はアドバイスしてくれた。 確かに彼の言う通りだと思う。 まあしかし、優子の母親がどんなに僕を疑ったところで、証拠もないのにヒステリックに噂をばらまいてるだけじゃどうにもなるまい。 喚き散らすだけの女の言葉なんて、真面目に受け取る奴などいないだろう。そして自分の言い分を聞いてもらえないことに怒って、ますますヒステリックになって声を荒げて、うるさいから無視されてまた怒って――ああ、虚しい悪循環だ。 こんなことをもし言ってやる奴がいるとしても、あの女が冷静にそれを聞くとは思えないが。 |
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十月六日 火曜日 | |
ほとんどの幼虫が三回目の脱皮を済ませたらしい。最終齢は四齢だから、だいぶ黒くなってきた。三齢幼虫は薄墨のような色だ。 相変わらず藤川のRにイライラさせられる一日だった。しかしそれも、虫たちの超然とした生きざまを見ているとだんだん落ち着いてくる。 餌の腐敗のスピードよりも、幼虫たちの食べるスピードが上回ってきたらしく、今では餌も少なくなってきて、それほど臭わない。見た目があんまり気持ちよくないのは仕方ない。 見慣れてはいるんだが。 |
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十月七日 水曜日 | |
百合がほとんど散ってしまったので、捨てて新しい花を買ってきた。臭いのことを考える必要もなくなってきたので、一束だけだ。 名前は知らない花。聞いたけど、忘れた。 香りはほとんどないが、色が気に入った。花びらの、萼に近いところは白いが、先に向かって薄い青紫を刷いたような色合いがきれいで気に入った。 半ば以上腐り、虫に食われている餌と花の取り合わせはどこかシュールだ。 写真を撮ろうかと思ったが、現像してもらえるかどうかわからないし、かといって自宅に暗室があるわけでもないので諦めた。ポラロイドカメラかデジタルカメラがあればよかったんだが。 |
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十月八日 木曜日 | |
庭の金木犀に花がついた。 金木犀の匂いは甘ったるいようで、それでいて鮮やかな匂い。香りが空気から、花の黄色になってくっきりと分かれているみたいだ。 何だか詩的な表現になってしまった。 この香り、僕は好きだ。でもあんまりいい思い出がない。初恋の人にふられたのが、金木犀の咲き始める頃だった。 彼女の名前は理沙だった。僕が唯一、自分から告白してお付き合いした人だ。とはいえ三か月もしないうちに彼女にふられたわけで。 おかげで金木犀が咲くたびに彼女を思い出して感傷的になってしまう。 |
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十月九日 金曜日 | |
夜、久しぶりに父から電話があった。 といっても一言「元気か?」と言って、それだけだった。近況をあれこれ説明するのも面倒だったのでただ「元気だ」と答えただけ。僕も同じことを訊ねて、父は同じように返した。それだけでも父との会話に僕は満足している。 父は色んな事を僕に教えてくれた。虫のこともその一つだ。僕は父が大好きだ。彼には新しい家族ができてしまったので滅多に会えないが、今も大好きだ。 何で離婚してしまったのかはともかく、何で母に僕を託してしまったのか、僕は残念でならない。 離婚に関しては、昔は想像もつかなかったが、母に我慢ならなかったんじゃないかと今では思う。多分、僕は間違ってない。 |
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十月十日 土曜日 | |
今日は休み。 昨日父から電話があったので、今日も何だか一日気分が良かった。 気分もいいし晴れていたから、家中きれいに掃除した。普段は洗わないソファーのカバーとかも洗った。 あとは一日中虫を観察。 幼虫の色が薄墨色からだんだん濃くなってきた。もうすぐ脱皮するんじゃないだろうか。 |
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十月十一日 日曜日 | |
もうすぐと昨日書いたが、朝本当に脱皮していた。 今回は孵化する瞬間を見れたり、脱皮の瞬間を見れたり、ついている。 くじ運が良かったとはとうてい思えないが、虫のことに関しては優子は僕のラッキーガールだったらしい。 |
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十月十二日 月曜日 | |
また比較文化で充宏と会った。 同じ学部で同じクラスなのに、比較文化と語学でしか会わないのは確率としては低い方だろうか。 充宏に言われて少し気にするようになったのだが、僕が優子の失踪に絡んでいるという噂があるらしい。優子の彼氏が率先して流しているに違いない。迷惑な奴だ。 僕をふった女がみんな失踪しているのならともかく、優子一人であれやこれや言われたんじゃたまったもんじゃない。 |
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