石を投げる者は誰か
主宣いて曰く
「されば汝らのうち罪なき者が
先ず石を擲て」
と。
――ヨハネによる福音書 第八章七節
「或る日気づいたら世界が終わっていて、知らぬうちに死ねたらいいのに」
そう呟くと、夜江は顔を上げて朝彦の目を見つめた。優しく夜江を見つめ返す朝彦の瞳の色が、夜江は好きだった。
「私は本当は生まれてきたくなかった」
「なぜ?」
「だって、生まれてこなければ、お母さんだって、嬉しかったでしょうに」
朝彦は軽く笑った。夜江はいつもこうして朝彦を困らせる。朝彦は優しく夜江の小さく形の良い頭を抱き寄せて肩へともたれさせ、その耳に囁いた。
「莫迦なことを言うものじゃないよ、夜江」
ふたりの間ではもう、儀式のようになってしまった会話だった。ふたりを取り巻く世界はいつも小昏く、埃っぽいにおいがしていた。どんなに窓を開けても、空気は淀んでいてかれらを窒息させようとしているのだ。
屋根裏の隅に置かれた古いソファに座り、夜江は自分から朝彦の肩に頭を凭せ掛けた。朝彦の指が、夜江の黒い髪を巻きつけては解き、解いては巻きつけている。それが彼の癖で、夜江はその指先を見つめるのも好きだった。
「夜江が生まれていなかったら、僕も生まれていないよ。どっちが欠けていても駄目だよ。僕たちは二人でいるから意味があるんだ」
生まれてからほとんど戸外に出たことのない夜江は、まるで産まれたての子供のように白く、柔らかで、無垢だ。そして、この閉鎖された朝彦の世界の中で唯一意味を持ち、輝いている存在。
二人がいつも読まされている本に書かれた、天使――神のみ使いというものが本当にいるなら、それは夜江のようなものに違いないと朝彦は彼女に言ったことがある。その時夜江は笑って、それなら一緒に生まれた朝彦も天使に違いないし、壁に掛けられた絵の中の天使は朝彦の姿そっくりではないかと答えた。勿論それは二人の会話を聞きつけた母によって根底から否定されはしたけれど。
二人の世界に他人という概念は存在しない。居るのはお互いと、二人を産んだ母親の三人だけ。以前は四人だった。姿を消したその一人は、二人に名を与え、二人が人間らしい生活を送れるように日常の世話をしてくれた。母に良く似た、しかし母よりもずっと年老いた女だった。それが母の母だったことを、二人はずいぶん後になって――彼女が死んだ後に知った。
父親の名も顔も、母親の名も二人は知らなかった。知る必要のないことは何も教えてもらえなかったし、知りたいことも教えてもらえなかった。母の意に沿わぬ疑問を持つことは禁じられていた。
朝彦と夜江が生まれてからずっと教えられてきたのは、ある一冊の本の内容、そして自分たちは罪なのだということだった。
主というのはずっと昔に、人々の罪を償うため身代わりとなって死んでしまった人だとその本には書いてある。彼を誉めたたえる内容ばかりがそこには書かれているし、母も絶対視しているのだが、とんでもない悪人だと朝彦は思う。朝彦が思うからにはきっと夜江もそう思っているだろう。死んだ人間を生き返らせたり、死ぬべき者の運命を変えてしまったり、自然のあるべき摂理を乱す者は、罰せられて当然だと朝彦は思うのだ。
しかし主の教えには時に興味深い事柄もある。朝彦と夜江の存在にも関わってくるからだ。あの本にたびたび出てくる、人々を罪へと導くサタンという存在。
お前たちはサタンによって生み出された「罪」なのだと母は事あるごとに言う。
サタンの手先である、彼らの父となった男が、母を何事かの恐ろしい、口に出すことすらはばかられる罪深い行為に引き込み、汚した結果としてこの世に送り出された罪の証し――祝福されない子供なのだと。
それなら罪に触れた母も同じく汚れているのではないかと朝彦は思うのだが、ずっと昔にその考えを口に出して恐ろしい思いをしたことがある。何が起こったのかはよく憶えていないが、思い出そうとするだけで目眩と動悸がするほどの恐怖を感じるので、それ以来思ったことも考えたことも口にしないようにしてきた。
ともあれ、二人をサタンから救うために母は二人を外界の一切から隔離し、主の教えだけを糧に育ててきたのだ。
それなのに、と母は言う。
それなのに、お前たちは罪に堕ちてしまった、と。
サタン云々はともかくも、確かに、自分は母の息子ではないだろうと朝彦は常々感じていた。その名前の由来でもある、朝の光のような色の髪と、青空の色を映した瞳は、母や夜江の持つ闇夜のようなそれとは全く違う。
「でもね、生まれてきて良かったと思うわ。生まれていなかったら、朝彦にも会えなかったもの」
「僕も夜江に会えなかった。だから、生まれてきて良かったよ」
夜江は伏せていた睫毛をそっと上げて窓へ顔を向けた。窓枠に切り取られた空は青を含んだ柔らかな黒に覆われ、黒い天鵞絨に銀砂を散らしたような星が瞬いていた。その空に、まるで血を孕んだ蝋のような赤い月が輝いていた。
「きれい」
窓の外を眺めて夜江はぽつりと漏らした。
「こんな月は初めて」
「世界の終わりが来るからだろう」
「二人一緒にゆけるのね」
幸せそうに言うと、夜江は朝彦の胸に頬を擦り寄せた。こんな世界は灰も残さず燃え尽きてしまえばいいのだ。そうすれば夜江は朝彦と二人で、違う世界にゆくことができるだろう。
母を思う時に自分の中にあるこの感情が、鈍い挽くような憎しみであると夜江は気づいた。それではやはり母の言ったとおり、夜江はサタンの娘に違いない。サタンは人の心にそうした邪な感情を植え付け、悪しき行動を取らせるものなのだから。
朝彦もそうだ。あれは夜江のためにしたことだったけれど――。
「いつまでも一緒だよ」
朝彦は言いながら、一階の床に横たわっている自分たちの母のことを考えた。
――やっぱりお前たちはサタンの子供だ、あの男の息子なんだ。あの男の娘なんだ。やっぱりお前たちを救うことなんてできやしないんだ。ああ神様、この罪深い者どもに罰を与えて下さい。何てことを。お前たちは兄妹なのに。兄妹なのに!
夜江に馬乗りになって首を絞めている母を、止めようとしただけだった。少し黙ってもらって、夜江を助けるだけのつもりだったのに、彼女が夜江にしているのと同じように首に腕を巻きつけて引き離そうとしたら、ごきりと変な音がして、何ともいえぬ変な声が出て、それで終わってしまった。
あんなに恐ろしいと思っていたのに、冷たくなり動かなくなった彼女は信じられないくらい小さくて軽く、朝彦は驚いたものだ。
彼女も自分たちと共にゆくのだろうか。少し考えて、それはありえないとすぐに打ち消した。彼女は二人を憎んでいた。一緒にゆこうなどとは考えないだろうし、第一彼女は一足先に神の御国とやらに行ってしまっただろう。あれほど行きたがっていたのだから、行けなければ可哀相だ。そして朝彦と夜江が行く場所は神の御国とは程遠い場所――煉獄であるはずだ。なんとなれば、二人は罪人であるから。
そろそろ、眠気が朝彦を包み始めていた。先刻一緒に飲み干した薬は、安らかな眠りを二人にもたらしてくれるだろう。そして母を焼く葬送の火は贖罪の炎となって二人の体をこの世界から消し去ってくれるだろう。
「次に生まれてくる時も、一緒に生まれてこよう」
「ええ、約束よ」
夜江は微笑んだ。その微笑みを見ると、朝彦は切なくなった。窓から眺めたことしかない外の世界がどんなものか、次には知ることが出来るだろうか。その時、傍らに夜江はいてくれるだろうか。
「ずっと一緒にいるわ」
朝彦の想いを見透かしたように、夜江は言った。うっすらと紗膜のかかったように潤むその瞳は月明かりを受けて輝き、黒い鏡のように彼の顔を映し出していた。
「誰も間違いだなんて言わないのよ。この先、ずっと」
朝彦は無言で頷いた。
朝彦にとって夜江を愛したことは何の間違いでもなかった。母が熱心に信じていた救世主は、互いを愛しなさいと命じた。全ての隣人を愛しなさいと。朝彦と夜江の世界には、お互いと母しかいなかった。だから二人は愛し合い、母をも愛そうと努めた。
だがその母は二人を愛することを拒み、二人が愛し合うことを禁じようとした。主の教えに背いた母は罰されるべきだったのだ。
しかし母のように、人はきっとこの愛を過ちだと、罪だと言うだろう。
朝彦は思う。
――僕らの愛が罪だと言うのなら、きっと生まれてきたことからして罪だったのだ。
だが人は皆、生まれながらに罪を背負っているのではないか。
主は言ったではないか。あなたがたのうちで、罪を犯したことがない者が、罪人へ最初に石を投げるがよいと。
ならばこの愛を、誰が責められよう?
終 (2010.5.20up)
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