母に似た人






「五分遅刻」
「ごめん」
 左の手首を返し、時計を確かめて弟は笑った。少し困ったような笑顔だった。弟が席に落ち着いたのを見計らったようなタイミングで、店員が氷水のコップを彼の前に置いた。弟は喉を鳴らして水を飲む。ここまで走ってきたのだろう。額や鼻の頭にうっすらと汗をかき、薄い水色に紺のストライプが入ったシャツの脇辺りにも染みがにじんでいる。
「それくらいで止しなさい」
「大丈夫だって。姉さんは心配しすぎだよ。もう大人なんだから」
 それでも弟は云われたとおり、半分ほど飲んだところでコップを置いた。私と弟は幼い頃から胃腸が弱かった。冷たい飲み物や氷菓子などは滅多に口にできるものではなく、母の許可が必要だった。今でもそれは強烈な抑止力となって私を縛り付けている。


 糸。ソレハ糸ノいめーじ。
 蜘蛛ノ糸。
 蜘蛛ハ獲物ヲ食イ殺スノデモ、血ヲ啜ルノデモナイ。消化シナガラ獲物ヲ啜ル。
 生キナガラ溶カサレ喰ラワレル気分ハドンナモノダロウ?



 メニュー表を開き、弟にも見えやすいように差し出してやる。二人ともひとしきり悩む。食べたいものよりも安いものをついつい探してしまうのは二人に共通する癖だ。
「決まった?」
「ええ」
 弟が手を挙げ、店員を呼び止めた。茶色に染めた髪を可愛らしいバレッタで束ねた、若い女の子。化粧っ気のなさから見ると、高校生のバイトだろう。
「ミートソーススパゲッティとイタリアンサラダ」
「セットにいたしますか?」
「じゃ、それで」
 ウェイトレスに、弟は軽く頷きかけた。
「イタリアンサラダと魚介類のリゾットのセット。それとケーキセット。エスプレッソとミルフィーユで」
「あ、狡い。俺もセットで、チョコレートムースとカフェオレ」
 まるで子供のように弟が言った。店員が注文を復唱し、店の奥に入っていった。自分だけデザート頼むなんて狡いよ、と弟が不貞腐れた。結局自分だって頼んだじゃない、と云い返すと、にっと白い歯を見せて笑った。一年前なら食事で余分なものを頼むなんて、二人ともできやしなかっただろう。
「仕事のほうはどう?」
「まあまあ。この前俺が提案したプランが採用されてさ、ちょっと忙しくなったけど、充実してると思うよ。姉さんは?」
 よく冷えたお絞りで手を拭きながら、弟は微笑んだ。
「変わったことはないわ。隣のデスクの飛沢さんが結婚したくらい」
「ふうん」
 テーブルの上でなんとなく組み合わされた私の左手に、弟は目をやった。声をひそめるように上体を低くする。
「姉さん、別れたって云ってたけど、結婚しないつもり? 母さんは反対してたけれど、浅井さんとなら俺は大賛成だよ」
 私はゆっくりと首を振った。
「別に母さんのことがあったからじゃないわ。私がしたくないから、そうしたの」
 裕史は私の全てを愛してくれた。何もかも、彼なら許してくれるだろう。けれど私には彼と結婚する資格はないから。別れようと云ったのは私。悪いのもすべて私。
「姉さんが浅井さんと婚約したって聞いた時は嬉しかったんだよ。姉さんに出来るなら、俺にも出来るんじゃないかって。なのに、どうして……」
「私の心配より、自分の心配をしたらどうなの」
 弟の追及から逃れるように、私は呟いた。
「俺はまだ考えてないから。姉さんと違って、そんな相手もいないし」
 それきり、弟は黙って俯いてしまった。注文した料理が運ばれてきた。フォークを取り上げ、弟は殊更に明るく云った。
「食べようよ」
「そうね」
 弟が答えられない理由は判る。その沈黙の意味なら痛いほど。私も同じだから。
 僕と居ると辛いのかい、と裕史に悲しそうに瞳を覗き込まれ訊かれた時、私は彼と別れなければならないと直感した。
 君は僕の意見を待ってる人形じゃないんだ。自分のやりたいことを云えばいいし、云いたいことを云ってほしい、と彼は云った。それが私に確信させた。彼に愛され、彼を愛する前に、私は、人間にならなければならないのだと。
この店に来たのはこれが初めてだったけれど、料理は申し分なかった。食後のコーヒーとケーキもなかなかだった。弟を外に誘って良かったと思った。一人暮らしではろくなものを食べていないだろう。そう云うと、ムースを頬張ったまま弟は頷いた。
「自炊はしてるけどさ。手のかかるものなんて作らないからね。半端に余るし。一人暮らしって、案外非経済的だよな」
「今度何か作りに行ってあげようか? それとも、食べに来る?」
「恥ずかしいよ、そんなの。子供じゃないんだから」
 弟は苦笑いした。
「それより、そのミルフィーユどう? 俺のと交換で一口くれる?」
「いいわよ」
 私とは二つ違いの弟は今年で二十五になる。独りで、昔私と住んでいた家に住んでいる。言い方を変えれば、私たちの家族が住んでいた家だ。私も弟も家が嫌いだった。家というものが内包している《家庭》や《家族》という概念、形態がこの上もなく厭だった。だから私は逃げた。弟を残して。
「そうそう、庭の紫陽花がすごく綺麗に咲いたんだ」
 弟はゆっくりとカフェオレをすすった。
「あれは母さんの好きな花だったわね」
 私は窓の外を何気なしに眺めた。そこにはただ、無味乾燥な建物が立ち並ぶ森を、同じような顔をした人々が通り過ぎているだけで、私の注意を引くようなものは何もなかったけれど。
「うん。もう、庭は草ぼうぼうでさ。一応、物干し竿の周りは草を取るくらいしてるんだけど、見る影ないよ。紫陽花以外は」
「手入れしてないの?」
「暇がないから。それに何していいのか判らない。だから水撒いてるだけ」
 弟が笑う。記憶の彼方に忘れられかけていた色を思い出した。一年前に見たときは、無残に枯れて干からびた茶色の花房に過ぎなかったのに。ふと、見たくなった。
「更地にしたいわね」
 だが、私の口を衝いて出た言葉はうらはらだった。弟は驚いたふうもなかった。
「俺もそう思っていたから、それを姉さんに訊きたかったんだ」
「好きにしていいのよ。あの家はもうあなたの名義なんだし」
「でもさ……」
 弟は云いよどんだ。彼の云いたい事はすぐ判った。
「家はあなたの名義になったし、あの人はもういないんだもの。文句は云えないし、云う筋合いでもないわ」
 私はやや強い口調で云った。自分に言い聞かせているようでもあった。
 弟と私はまだ母に支配されたままだ。母は私と弟をまるで人形のように育てた。大事にしたという意味ではない。文字通り彼女の意見にだけ従い、その思惑どおりに動く、生きた人形として。
 私たちの記憶の母はいつも怒っている。食事中に話をした、服が少し乱れていた、成績が悪かった――どんな些細なことでも、彼女の計画どおりでないことならば嵐のように怒り狂った。私と弟は部屋の隅に縮こまり、庇いあうようにお互いを抱きしめ、嵐が過ぎるのをただ待った。
 父は母のなすこと全てに無関心で、係わることを恐れているようでもあった。結局、彼は自分の妻を、子供をすら、愛してなどいなかったのだろう。彼の存在は私たちにとって害にはならなかったかわり、何の救いにもならなかった。父は私が十一歳、弟が九歳の時に癌で死んだ。
 それからは、私たちにとって地獄のような日々だった。父が死んでからの母は、抑制がきかなくなった。始終苛々として些細な過ちを見つけ出し、発作のように感情を爆発させた。父が全くの役立たずではなかったことを、その時私はやっと知った。
 私たちを叱り、考えを押し付けるたびに、母は片親だからといって馬鹿にされることがないようにやっているのだと言っていた。いつも二言目にはそれだった。だが片親ということを誰よりも気にして、恥じていたのは他でもない母自身だった。
 私も弟も、家にいて心が休まったときなどなかった。勉強に追われ、習い事に追われ、《あるべき娘》《あるべき息子》であることを求められていた。休日はありがたいものでも何でもなく、学校に通うという日常生活だけが、唯一の慰めであったような気がする。離れていても、母の声の幻聴が追いかけてきはしたけれど。
 私が弟に負い目を感じているのは、高校卒業と同時に就職を理由に私が彼を一人残して母の支配下から逃げてしまったからだ。しかし弟は云ってくれた。
「姉さんは逃げたかもしれない。けれど俺を自由にしてくれた」
 私が直接に手を下したわけではない。何処の誰とも知れぬ運転者が、母を轢いた。でも、生きている人形――温かい死体になってしまった母の、命をつないでいたスイッチを切らせたのは私だ。
 だが事故が無くても、いつか私は、きっと母を殺していただろう。事故はきっかけにしか過ぎなかった。未だ知れぬ犯人を、私は憎まない。私に母を殺すためのきっかけをくれたのだから。
 生前の意志に反して、臓器の移植には同意しなかった。母の一部がどこかの誰かの躰の中で生き続けるなんて――! 考えただけで吐き気がする。だから、母を殺すことに何の良心の呵責も、咎めもなかった。
 薄暗い病室の中には医師や看護師もいたけれど、あの日の情景には弟と母しか残っていない。幼い日のいつかのように、まるで離せば互いがこの世界から消えてしまうと恐れでもしているかのように強く手を握り合い、二人で母の命が消える瞬間を待ったあの日。無意味に動きつづける人工呼吸器のかすかなため息と心電図の叫びを聞きながら、ただ、これで自由になれるのだと、弟を自由にしてやれるのだと、思った。
 だが、人形はいつまでたっても人形のままなのだろうか。決して人間にはなれないのだろうか。
 母の呪いだと、時折思う。
 裕史は人形のような私でもいいと云ってくれた。そして私はまだ彼を愛している。けれど、私の中の母はいつまでも私を見張り続け、ヒステリックに叫ぶのだ。


 オ前ハ駄目ナ子!
 云ウトオリニシナサイ。オ母サンノ云ウコトヲ聞イテイレバ、
 悪イコトナド何モナイデショウ。


 たしかに、悪いことはないだろう。しかしそれは母にとって、という意味だ。神がヒトを造った時、神はヒトに自由意思を与えた。母は神などではない。逆らって何が悪いというのだ。
 生きている間に投げつけたかった。


 オ母サン、モウ私タチヲ自由ニシテクダサイ。
 私タチハアナタノ人形ジャナインデス。



 怒りもなく、悲しみもなく、ただ言葉として在る、音の羅列を。そうしたら、母は何と答えたのだろう。それを知ることができたら。
 結婚して子供を生んだとき、自分が母のような女になることを、私はいちばん恐れている。弟もそうだ。自分が母のような親になること、自分の選んだ伴侶が母のようになること――母が甦ることを。
「ここ、私が払っておくわ」
 最後に一口だけ水を飲み、私は立ち上がった。先にレジに向かうと、遅れてきた弟はそのまま店を出て、入り口の前で私を待っていた。
「また会いに来てよ」
「庭の植え替えをするときになったら呼んでちょうだい。手伝うから」
「うん。そうしたらさ、俺はあそこに梔子を植えたいんだ。姉さんはどう思う? 何がいいかな」
「何でもいっぱい、好きなものを植えましょうよ」
 弟は頷いた。母は強い香りを持つ花が大嫌いだったから、私たちはお互い、香りの強い花が好きだということを中学生になる頃まで知らなかった。母の嫌ったものの大半を私たちが好み、母の愛したものを嫌っているのだということに気づいたのは、私が家を逃れ、弟が初めて私のアパートを訪ねた時だった。
 店の前で弟と別れた。弟が一人で住むあの家に行くことはしない。私が家に入ったのも、葬式の前後と、盆に一度だけだった。私と弟はこうして外で会い、話をするだけでいい。あの家に一緒に居たら、母が何処かから出てくるような幻想を抱いてしまう。母を殺しても、弟と私の中の母までは殺せないから。


 弟と私は反対方向へ歩き出す。
 母は永遠に死ぬことはない。私たちが死なないかぎり。母に似た人が通り過ぎる。私は目を閉じて立ち止まった。雑踏の中で、非難めいた眼差しが向けられるのを感じる。その中にきっと、母の目がある。私と弟を縛りつけ、操ろうとする、母の。
 操り手を失った人形は、次の操り手が現れるまでその場に留まらなければならない。けれど母の人形としてではなく、一人の人間として生きたいと望み、糸を断ち切り自ら歩むことを選んだのは他でもない私自身だ。
 今日弟に会って正解だった。私が歩き出さなければ、弟も歩き出せない。帰ったら、まず最初に裕史に会おう。彼に許されなくてもいい。会って、何もかもを話すのだ。
 私の中で母が叫ぶ。


 アンナ男ハ止シナサイ!


 母を永遠に黙らせるために、私の人生を取り戻すために、もう一度全てを最初からやり直すのだ。遅かったけれど、遅すぎなかったことに感謝した。そして、弟もそうであることを願った。



終(2010/3/5校訂・up 最終改稿2011/5/5)

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