何か昔の話をと云う事で御座居ますか。(これ)はまた、都会の旦那様がたは不思議な御注文を為さるのですね。
 とは仰られても、此処は今でこそ旦那様がたのように物見遊山をなさる方もいらっしゃいますが、自慢出来るのは景色だけ、昔は誰壱人訪れることも無かった処で御座いますから。此の村の話と云いましても、お話して面白そうな事なんて、何も存じません。
 何でも()いから話して欲しいだなんて、ふふ。其方の旦那様たら、まるで子供みたいな事を。あら、失礼を申しました。
 えっ、(わたし)の話を。
 厭ですわ、御冗談を。妾は学のない、田舎の女で御座いますから、皆様を興がらせるような見聞は致して居りませんよ。それとも、妾の謡や三味線では退屈で御座いましたか……
 嗚呼、そうでは無いのですか。それを聞いて少し安心致しました。けれどももっと他の事に為さいませんか。田舎藝者の昔語りなど、三味線よりも退屈でしょう。
 それに妾は、喋るのは不得手なので御座いますよ。科白が決まって居りませんから、謡のように流暢にはゆきません。
 それでも構わないって。皆様も我の強いこと。如何(どう)しても御勘弁戴けぬようですね。では、何をお話致しましょうか。先にも申しましたように、妾の身の上話には皆様に喜んで戴けそうな事なんて、何も御座いませんからねえ。妾は生まれてこの方、此の村から出たことが御座いませんもの。
 なら妾が子供の頃の話でも構いませんか。
 そうですねぇ……では()んな話は如何でしょう。()う廿年近くも前、妾が未だ物心つくかつかないかの頃の話です。
 あれは盆に近い、夏の或る夜のことでした。そうです。丁度時間も今頃の、斯んなふうに遠くから祭囃子が聞こえてくる夜でした。
 其の夜、妾はいちばん上の姉に連れられて螢を見に行きました。他のきょうだいたちは居りませなんだから、恐らく、妾が螢を見たいと駄々をこねたのでしょう。陽が落ちてから壱刻ほど経って居りましたでしょうか。けれどもあの頃は月も随分明るかったものです。妾たちは提灯も持たずに出てゆきました。
 螢が見られるのは、鎮守の杜に程近い川のほとりでした。
 いいえ、いいえ、嘘など申して居りませんよ。今は既うあの辺りの田圃も無くなって、其の小川も埋められて仕舞いましたから名残も御座いませんけれど、あの杜は、此処にいらっしゃる途中に旦那様方もご覧になったでしょう。昔は其処に可愛らしい流れがあったのです。
 お話を戻しましょう。何処まで話しましたか……。
 そうゝゝ、鎮守の杜まで行った処でしたか。
 月明かりを遮られた闇に乱れ飛ぶ螢は、(さぞ)かし奇麗だったことでしょう。
 けれども、其の光景は朧にも覚えていません。覚えていれば皆様にもお話して差し上げられたのにと思うと口惜しい氣も致します。今となっては既う、この界隈でも螢は見られませんから。
 ……いいえ、妾は莫迦な女ではありますが、ちゃんと覚えていることも御座いますよ。蛍のことでは無いのですけれど。
 えゝ、勿論それを今からお話しようと思っていたのです。
 大層不思議なものを、妾は見たのですよ。
 妾が覚えているのは、川面に沈む美しい女の顔。
 月明かりに青白く光っていた膚。
 流れに任せて水草に絡まっていた黒髪。
 女の体に張り付いていた朱色の長襦袢。
 水にさやゝゝ、さやゝゝと靡いていた韓紅(からくれない)の帯……。
 それはほんとうに奇麗な女でした。(まる)で何事も無く川底で眠っているかのようにさえ見えました。実際、最初は何故この人は川で眠っているのだろう、と思った位ですから。
 其処の旦那様、お笑いになっちゃあいけません。
 いいえ、お隠しになっても妾にはちゃんと判ります。ですが冗談などでは無いのです。お笑いになるのも無理からぬと思いますけれど、本當なのです。信じて下さいませな。
 はい……あゝ、続きを早くと云うことで御座いますね。申し譯ありません。
 其方の旦那様は。
 其の女が土左衛門ではなかったかと云うことで御座いますね。それも重ねてお話致しますから、今暫くお待ち下さい。未だ、話はこれで終りでは無いのです。
 其の小川はほんとうに小さなもので、子供の膝にも届かぬ程だったのですから、幼い子供なら兎も角、大人の女の體が川底に横たわって沈んでいるなど、あり得ることでは無かったのです。
 それに、先程もお話致しましたように、其処は月明かりが木陰に遮られて仕舞う所だったので、女の姿が月明かりに浮かぶ筈も無かったのです。
 妾は螢のことなどすっかり忘れて、女の顔(ばか)り見つめていました。今も斯うして眼を閉じれば、はっきりと思い出すことが出来ます。眼を瞑り、青褪めた唇を僅かに開いて、月に照らされていた彼女の顔を。
 今迄、あんな美しい女は見たことがありません。
 妾が其の頃知っていた、そののち知った、どんな女の顔にも似てはおりませんでした。
 どれほど眺めていたのかは判りませんが、或る瞬間、女の口から生まれ出たかのように、螢が壱匹、すうッと飛び立ちました。
 光に一瞬眼を奪はれ、視線を戻した時には既う、女の姿はかき消すように無くなって居りました。妾は余程ぼんやりしていたのでしょう。不図我に返った時には、妾は姉に手を引かれ家路を戻る途中で御座いました。
 それ以来、妾の心の中にはあの女の顔が焼きついて離れません。随分と経ってから、ずうっと昔には、螢は火垂る――死んだ人の魂の火を運ぶ蟲と信じられていた事を、姉が教えて呉れました。
 あの時水面から飛び立った壱匹の螢――
 あれは恐らく、あの美しい女の魂魄だったのでしょう。
 けれども女が何であったのか、今も判りません。姉はそんな女なぞ見ていないと申しますし、まぼろしを見ていたのか、幽靈でも見たのか……。


 でもねえ。
 もうずっと昔の事になりましたけど、あの夜の螢と女の死顔。
 死ぬまで忘れることは無いでしょう。


終(2010/2/5up)

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