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うのはな



 彼は植物が好きであつた。広い庭に、幾株も花や木を植えてゐた。()れも()う云つた訳か、花を咲かせる植物ばかりを蒐めてゐた。その蒐集は何時しか一つの植物園の様相を呈してゐた。
 中に何時まで経つても花を咲かさぬ木があつた。夫れを彼は戯れに「うのはな」と呼んでゐた。
 うのはなとは卯の花と書く。仏教に伝はる、三千年に一度しか咲かぬと云ふ伝説のある花の、優曇華の事を指す事もある。俗に蜉蝣か何かの卵をさう呼ぶこともあるさうだが、此処では花を咲かせぬ木を、その優曇華にかけてゐたのだ。
 件のうのはなは、子供の背丈ほどもない、低い木である。彼は枝の伸びるに任せてゐたが、自然に椀を伏せたやうな美しい形を作つてゐた。肉の薄い、滑らかな葉は濃い緑色をしてゐるが、夫れは木の天辺から段々薄くなつてゆき、根元近くでは淡い柳色にも似た色合いとなるのであつた。
 彼が生まれる前から、うのはなは彼の家の庭に在つたと云ふ。話に因れば、彼の父親も、祖父もうのはなを見て育つたと云ふのだから、詳しい事はわからぬが、相當古い木であつたのだらう。
 うのはなの本當の名を、私は知らぬ。彼も知らなかつた。うのはなの真の名を知りたいという欲求は、彼が植物研究を志すやうになつた一因でもあつた。
「なあ、真東君(夫れが彼の名であつた)。之は花を咲かせぬ類の木なのではないか」
 私は一度ならずさう云つた事がある。
(いや)、必ず咲く、咲かせてみせる。見てゐ給へ斯波君、そのうち美しい花が一面に咲くだらう。其の時には一番に君を呼んでやる」
 云ふ度に、彼はきつぱりとさう返すのだつた。
 彼がさうまで確信するのには、理由が在つた。彼の家に伝わる古文書に、屋敷の全景と庭の様子を写したものがあり、庭の繪にはうのはなと思われる植物が描かれてゐるのだ。其の古文書は私も見せて貰つた事がある。未だ往時の鮮やかさを留める繪には、緑の代わりに赤い顔料が塗られてゐた。(しか)し詳細の図ではないので、色が赤だといふこと以外、うのはなが何んな形をしてゐるのか、何んなふうに咲くのかは判然(はつきり)しない。だが真東君の信念を揺るぎないものとするには夫れで充分であつた。
 學生の時分から真東君は随分と此の植物に入れ揚げてゐたのだが、父君が亡くなり、その少なからぬ財産が彼の自由になるやうになつてからは、一段と拍車がかかつたやうだつた。
 あくせくと働かずとも、一家三人が慎ましく暮らしてゆくだけならば一生食ふには困らぬほどの財産である。彼が仕事も何もかも(なげう)つて、うのはなにのめり込むやうになるには一年を待たなかつた。
 私の友人達の中でも真東君のやうな醉狂も珍しかつたが、彼がうのはなに惚れ込んでゐたのは前々から承知してゐたことでもあり、又彼の性格が變はつたというわけでもなかつたので、夫れに因つて我々の友情に(ひび)が入るやうなことは無かつた。
 併し、酒の席では彼の醉狂ぶりが他の友人達の酒の肴になる事も屡々(しばしば)だつた。
 夫れは久しぶりに、學生時代の友人の加藤君が私の家を訪れた時のことであつた。加藤君は今は帝都で役所勤めをしており、此の時は仕事の関係で偶然こちらに來てゐた。
 話が弾むに連れて話題になるのは、矢張り真東君のことであつた。
「時に斯波君、真東君は未だ件の花に取りつかれてゐるのかね」
「真東君の所には行かなかつたのかい」
「其処までの時間はなかつたのでね」
「先日、偶々細君に逢つたのだが、相變はらずのやうだ。うのはなが咲かぬのは土地が悪い所為だと仮説を立てて、今は肥料の研究をしてゐるさうだ」
「家長の真東君があゝでは、風美香(ふみか)さんも隼人君も大變だらうな」
 加藤君は苦笑した。顔色は夫れほど變はつてゐないが、鼻の頭が赤らんでゐるので、大分醉つてゐるのだと知れた。其の辺りからの記憶が曖昧であるから、私も可なり醉つてゐたのだらう。
「併し、本當にうのはなが咲いたら、真東君は夫れから如何するのだらうな。今までうのはなが咲かぬから、あんなに一所懸命になつてゐるのだから」
 其の言葉が、妙に耳に残つた。
 真東君が病に倒れたという報せを受けたのは、夫れから暫く経つてからだつた。
 見舞ひに行くと、風美香さんが真東君の病室となつてゐる一室まで案内してくれた。うのはなが氣になるらしく、何うしても庭を見渡せる部屋がいゝと云ふので、今まで使つてゐた寝室から、わざゝゞ庭側の部屋に移つたのだという。
「宅にも困つたもので御座います。(ちつ)とも大人しくしてゐて呉れないのです。お醫者様の仰るとほり安静にしてゐなければ、治るものも治らないと(わたし)が幾ら云つても()きません。斯波さんからも宅に仰つてやつて下さい」
 風美香さんはさう云つて溜め息をついた。恐らく真東君は己の身よりもうのはなの方が大切なのであらうが、彼女にしてみれば、うのはなよりも真東君の方が大事であるのは當然であつた。
 病室となつてゐる一室の襖を開けると、開け放した障子の向かうは庭で、其処の真ん中辺りにうのはなが在つた。うのはなの根元に、藍染の浴衣姿の真東君が屈み込んで何やら探してゐるやうであつた。
 風美香さんは()う真東君が庭に出るのを咎めても効果が無いと諦めてゐたのか、小さな溜め息を一つついてから、縁側まで出ると彼を呼んだ。
「貴男、斯波さんがいらつしゃいましたよ。今日はうのはなも夫れ位になさつて、床に戻つてください」
 直ぐに氣がついたやうで、真東君は立ち上がつて、こちらに戻つてきた。足取りはしつかりとしていて顔色も良く、病人らしからぬ様子であつた。尤も、縁側に彼が上がつた時、眼の下には黒々と隈が出來てゐるのが認められた。
「やあ、斯波君。善く來てくれた。さ、座つてくれ給え。風美香、此の前梁原さんから水菓子を戴いただらう、あれを出しなさい」
「はい」
 風美香さんは微笑みながら頷き、部屋を出ていつた。真東君は蒲団の上に胡坐をかき、私にも風美香さんが出して呉れてゐた座蒲団に座るやうに云つた。
「案外に元氣さうで安心した。私はてつきり君が蒲団の中で呻吟してゐるものだと(ばか)り思つてゐたのに、まさか庭で探し物だとは思わなかつた」
「あれが色々と云つたのだらう。本當に大したことは無いのだ」
「だが真東君、細君を心配がらせては良くない。ちやんと療養し給え」
「風美香は心配が過ぎるのだよ。僕のことにも、隼人のことにも」
 真東君は愉快さうに云つた。
「夫れよりも君、何うやら僕は近頃、うのはなが咲くやうな氣がしてならぬのだよ。だから毎日、蕾がついてはゐないかと確かめてゐるのだ」
 先刻彼が熱心に探してゐたのはうのはなの蕾であつたのだと得心が行つた。
「夫れで、蕾は見つかつたのかい」
「未だ見つけられぬ。だが屹度(きつと)、近いうちに咲くのは判つてゐる。()うしたら約束どほり、友人では君に最初に見せてやるから、楽しみにしてゐ給へよ」
「またうのはなの話ですか」
 茶と、硝子の器に盛られた桃を盆に載せて、風美香さんが入つてきた。
「僕が如何にうのはなが咲くのを待つてゐるか、風美香には判らぬだらうが、是れは僕の一生なのだ」
「宅は何時も()うなのですよ」
 風美香さんは困つたやうに笑みながら、私と真東君の間に茶と桃を置いた。立ち上がる前に、真東君の肩に羽織をかけてやる心遣いも忘れてゐなかつた。
「では、ごゆつくり」
 真東君はうのはなの蕾に可なり執心してゐるやうで、話の間、何度もうのはなの方を見つめてゐた。案外夜中にも起き出して、蕾を探してゐるのではないかと私は疑つた。恐らく當たらずとも遠からずといつた処であつただらう。
 暇を乞うた時、玄關まで送つて呉れた風美香さんがぽつりと呟いた。
「あの人は、妾よりもうのはなを愛してゐるのです」
 夫れからも醫者の忠告を真東君が肯いたとは思えない。真東君の病は中々癒えなかつたやうで、訪れると大抵は浴衣姿で庭に立つてゐるのだつた。
 真東君が愈々危なくなり、私に逢ひたがつてゐるという急の報せが來たのは、何時になく暑かつた夏も終わらうとする頃であつた。
 取るものも取り敢えず駆けつけると、真東君はあの庭向きの病室で、蒲団に横たはつてゐた。顔は殆ど土氣色で、数月前に逢つた時からは想像もつかぬほど痩せ衰えてゐた。
「真東君、私だ。斯波だ。判るか」
 私の声に、真東君は眼を開けた。そして、笑ふやうに息を漏らした。
「ああ斯波君、やつと來て呉れたのか」
 真東君は、傍にゐた風美香さんと隼人君、醫者に、私と二人だけで話したいことが有るので、外して呉れるやうに頼んだ。彼らが出ていくと、真東君は満足げに微笑んだ。
「約束を果たさなければいけないだらう。庭を見給え、斯波君」
 云われる儘に、私は庭の方へと頭を向けた。其処には、緑のうのはなが何の變哲も無く何時ものやうに佇んでゐた。
「何うした、斯波君。餘り綺麗で何も云へないのかい。否、無理も無いな。僕も未だ、あれが咲いたとは信じられないのだ。だから君を呼んだのだ」
 死の淵に立たされてゐるとしか思へない病人が最期に私を担ごうとしてゐるのではないかと訝しんで、真東君へ視線を戻すと、彼は幸せさうな笑みを浮かべ、半ば恍惚として庭を、うのはなを見つめてゐた。
「綺麗だらう。赤い花が(まる)で燃えてゐるやうだ。古文書の繪のとほりだ。あれを見ることが出來たのだから、既う死んでも構わぬ位だ。斯波君、君も綺麗だと思はないか」
 私を見上げた彼の眼は、落ち窪んだ眼窩の底で、熱に浮かされたやうにきらきらと輝いてゐた。其の睛には一点の濁りも無かつたが、狂氣の故の輝きなのだと、私には理解できた。
 私は訳も判らず涙が零れさうになるのを堪えて、庭にもう一度目をやつた。眼に盛り上がる涙と陽炎で、うのはなが揺らめいて見えた。さうして見てゐると、暈けたうのはなに赤い花の幻を垣間見たやうな氣がした。
「あゝ」
 私は云つた。
「あゝ、君は間違つてゐなかつた」
 真東君はにつこりと笑つた。
 其の日の夜を迎える事無く、彼は死んだ。
 真東君はうのはなに憑かれたのだと、通夜の席で風美香さんは云つた。其の考えに、私は頷いた。真東君は確かに病氣で死んだ。併し、決定的に彼の命を、彼の生きやうとする力を奪つたのは、彼の心の中で咲いたうのはなであつたのだと。
 通夜の経を聞きながら、私はうのはなの幻を思ひ出してゐた。あの世で真東君はうのはなを見出したであらうか。見出したなら、夫れは燃えるやうな花を咲かせてゐるだらうかと、考えてゐた。
 彼の四十九日が過ぎる前に、私は他の学校で教鞭を執る事になり、妻を連れて此の地を離れた。十年余りが過ぎた頃、偶然にも今は官吏となつた隼人君が赴任して来た。
 彼が私の家を訪れた時、話は自然、我々の故郷の事になつた。今もあの家で風美香さんは元氣に過ごしてゐるという。話が亡くなつた真東君の事になると、隼人君は伏目がちに呟いた。
「今にして思ふと、父は行き過ぎであつたにしろ、うのはなは一体何という木であつたのか、僕も時折氣になります」
 私は躊躇いながらも、前々から氣に懸かつてゐた事を訊ねた。あの謎めいた木の、最後の赤い幻を瞼の裏に乗せながら。
「さう……其のうのはなは、何うなつたのかい。あれから、花は咲いたかい」
 隼人君は顔を上げ、一寸(ちよつと)私の眼を見詰め、それから否定的に頭を振つた。私は覚えず、嘆息の声を漏らしてゐたやうに思う。
「母は父が死んだのはあの木の所為だと、今でも信じてゐます。迷信だとは思ひますが、確かに父はうのはなに取り憑かれてゐましたから。うのはなは、母が父の一周忌の時に燃して仕舞ひました」


 炎に包まれ燃えるうのはなは、宛で真つ赤に塗り潰されたあの古文書の繪のとほりだつたという。


                          終(初版2005、最終校訂2009)

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