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水底に


 父の故郷を訪ねるのは、これがほとんど初めてだった。便利という言葉にはほど遠いが、緑ゆたかな山あいの、静かな山村である。実を言えば訪ねるというのは正しくない。僕の実家はこの村だからだ。だが、帰るというのも正しくはない。父は故郷を離れて二十年近く、数年に一度程度しか戻らずにいた人で、その二十年の間に結婚し、僕が生まれたのである。祖父が亡くなったので、家の地所を継ぐために父は二十年ぶりに故郷に戻ることになった。むろん、この先ずっと、ということである。
 所謂都会育ちの母が、一日に一本しか乗合自動車(バス)が通らないようなこの田舎に馴染まぬのではないか、と父は心配したようだったが、母はすぐにその地を気に入った。母は別段都会風の暮らしを好むわけでもなく、最初は物珍しさが手伝い、そしてすぐに馴染んで、田舎暮らしを楽しんでいるふうであった。元々喘息気味の母には、田舎の澄んだ空気と水の方が合ったのである。
 しかしながら僕は、既に中学校に進学していたため、故郷に戻った父母と離れて父の友人の家に下宿していた。そこで盆に近くなるまで「帰省」できなかったのだ。帰省といっても元来の僕の生家は今も下宿している街にあるし、祖父の家には幼い頃にほんの二、三回訪れた覚えがあるかないかという程度で、実感としては初めての家を訪れる以外の何ものでもなかった。
 だが、山を越えて二時間以上も乗合自動車に揺られ、ようやくたどり着いたこの村を一目見て僕は気に入った。車を降りた途端に、わっと押し寄せるような蝉時雨が僕を包んだ。盛夏を迎えてむせるほどに濃い緑の森に囲まれ、田畑の合間を巡る道は日光を照り返して白く輝いている。
 余りに眩しくて、僕は麦藁帽子の下で目を細めた。この村では、形あるもの全ての色彩が鮮やかだ。稲葉を渡る風が、水田の水面を騒がせ、煌かせていった。暫く景色を楽しんでから、僕は父母の待つ家に向かって歩き出した。
 僕の「実家」は、村を囲む山を少し登る高台にあった。そこからこの美しい村全体を眺め下ろすことができ、それも僕の気に入った。恐らく、この家は村で一番高い場所にあるのに違いない。
 それを父に尋ねると、父は笑って頷いた。だが、本当に村で一番高い場所にあるのは、鎮守様なのだという。この家が建つ山に参道があり、細い山道を登らなければ本殿には辿り着けない、ということだった。そのため、日参する老人以外には、祭の日くらいしか、人が多く集まるということもないそうだった。
 その話は僕の心に、どういうわけか深い印象を与えた。明日になったら行ってみよう。僕はそう考え、僕の部屋ではあるが初めて泊まる部屋で眠りについた。
 翌日、朝食を済ませてから、僕は昨晩の決意を行動に移した。村を見て回る、と父母には告げて、鎮守様の参道まで向かった。父からの話に聞いていたとおり、古ぼけた石の鳥居が一つ立てられていただけで、あとは鬱蒼とした森が細い道の左右に迫るように覆いかぶさり、暗い樹陰を作り出していた。
 いかにも、別の世界へと続く道のようだと思いながら、僕は鳥居を潜った。木下闇とはよく言ったもので、夏の朝方だというのに薄暗い。暗いせいか、村の中ではうるさいほど鳴いていた蝉も、ここでは静かだった。
 小半時ほど参道を登ったところで、やっと平らに開けたところに出た。そこが鎮守様の境内だった。こんな山を登らなければならないこともあって、祠のようなものを想像していた僕は、お社が案外大きかったことに驚いた。社殿は伝統的な延喜式の建物で、装飾こそ地味だったが、欄間や柱にも聖獣や草花紋の飾り彫りがされていた。
 社殿の格子扉は閉じられていたが、覗いてみると、暗がりの中に鏡のようなものが掲げられているのがうっすらと見えた。その下には、注連縄をかけられた石が祀ってあった。それが御神体なのだろう。
 一応の礼儀として参拝を済ませて、僕は社殿の周りを見て回ることにした。僕が来たときには人の姿はもうなかったが、誰かがきちんと掃除をしているのだろう。古びてはいるが、汚くはなかった。
 僕が気に入ったのは、これも小さな手水鉢だった。御影石のような石でできていて、ずいぶん古いらしく、全体を苔で覆われている。その縁から澄んだ水が緑の苔を濡らして滴り落ちていた。
 その水は、山から引いてきているもののようで、石の樋がすぐそばに迫る山肌から延びていた。
 ふと、源を確かめてみたいという気持ちに駆られて、僕は斜面を登り始めた。履いているのはズック靴だったから、少しくらい道のない所を歩いても大丈夫だろう。岩肌を這う草の根がしっかりしていることを確かめて、それを頼りにして、身の丈より一尺ほど低いばかりの段差を登った。
 石の樋は、蓋を被せられて、地上をずっと走っていた。草が生い茂っていて、ともすると見失いがちだが、掻き分けていけば容易に探し出せる。何だか冒険でもしているような気になって、僕は楽しくなった。
 草に足を取られそうになったり、粘土に滑りそうになりながら、僕はどんどん斜面を登っていった。
 そうして、半時ほど山登りが続いただろうか。やっと僕は水源に辿り着くことができた。それは小さな池だった。ぐるりと回っても五分もかからないだろう。取水口になっている石の筒の周りには、古びた御幣が挿してあったので、この池もおそらく、神聖なものなのだろう。
 池は岩と木々に囲まれて、鏡のようになめらかな水面に映りこんだ葉むらの緑と、水草の濃緑とが、闇のように水を彩っていた。水辺に浅い所はほとんどなく、すぐに深みがあるようだったが、実際どれほどの深さがあるのかは判らなかった。
 余りにも澄んだ水だったので、手を触れることさえためらわれるほどだった。とても喉が渇いていたのだが、この水を飲んだら、水の精のようなものまで飲んでしまうのではないか、と不図思ったら、渇きも消えてしまった。
「こんにちは」
 不意に後ろから声をかけられたので、僕は吃驚(びっくり)して振り向いた。
 そこにいたのは、僕と同じ歳くらいの少女だった。着ているのは麻の紋絽で、白地に藍で染め抜かれた流れに朝顔の模様が夏らしく、涼しげだった。着物の模様に合わせた青い帯の端に、銀の小さな鈴を付けていたので、彼女が動くたびにちりちりと可愛い音を立てていた。
「ああ、こんにちは」
 僕も遅れて挨拶を返した。
「驚かせてしまったかしら、ごめんなさい」
 少女は莞爾(にっこり)と微笑んだ。桃色の唇の合間から、白い歯がこぼれた。
「そんなに驚いたことはないけれど、誰もいないと思っていたから」
「私も、ここに誰かがいたのは初めてだわ」
 少女は言いながら、池の周りを歩き出した。会話を続ける関係上、その後ろにくっつくように僕も歩き出した。
「あなたを見るのは初めてだけど、村に越してきたの?」
「越してきたってわけじゃないんだ。祖父が死んで、父が地所を継ぐために街から戻ってきたんだ。だから僕にとって初めての土地なのはその通りだけどね」
「ああ、功刀(くぬぎ)さんの……」
 この話は村では知られた話だったらしい。納得したように頷きながら少女は傍の笹の葉を一枚千切り取り、細い指で葉を丁寧に折って笹舟を作った。そして屈みこんで笹舟をそっと池の真ん中に押し出した。
 それを見送ってから、少女は明るい顔で僕を振り仰いだ。女学生風に長い黒髪を白いリボンで結んでいて、そのリボンの先がふわふわと揺れていた。
「これからずっとこの村で暮らすの?」
「いや、僕は学校があるから、ここにいられるのは休みの間だけなんだ」
 僕は首を振った。少女は少し残念そうな顔をした。
「そういえば、まだ君の名前を聞いてなかった。僕は功刀水晶」
「どういう漢字を書くのかしら?」
 音を聞いて、少女は首を傾げた。慣れたことだったので、僕はちょっと笑いながら説明した。
「水晶と書いて、みあき」
「まあ、きれいな名前ね」
 彼女は微笑んで掌をそっと合わせた。読み辛かったり、男らしくないこともあって僕は余り自分の名前が好きではなかったが、褒められて悪い気はしなかった。
「私は月美(つきみ)。月に美しいと書くの」
「月美さんか。君もきれいな名前だね」
 思ったままを言うと、月美さんは恥ずかしげに笑った。そうして笑うと、吉屋信子の描く美少女のようだ。
「君は、此処によく来るのかい?」
「ええ。お社に御参りしてから、ここまで来るわ。とても静かで、好きなの」
 辺りの透明な空気を取り込もうとするように、月美さんは両腕を広げて深呼吸した。帯の鈴が小さく鳴った。
「じゃあ、僕がいては邪魔だったかな。悪いことをしたね」
 厭味のつもりではなく、本心から僕はそう言ったのだが、月美さんは僕が気分を害したと思ったのか、慌てて首を振った。
「そんな事はないわ。一人でいるのが好きというわけではないもの」
 今度は僕が慌てる番だった。
「ごめん、揚げ足を取るつもりじゃなかったんだ。ただ本当に、一人でいたいところを邪魔したのだったら、謝らなければと思ったから」
「まあ」
 月美さんは目を見開いて、それからくすくすと笑った。
「そんな事、気になさること無いのよ、水晶さん」
「僕はどうやら、気を回しすぎるみたいだ」
 僕と月美さんは目を見交わし、それからどちらからともなく、何がどう可笑しいのかわからなかったけれども、笑った。
 そうして僕と月美さんは暫く話をした。それで、この池は月が池というのだということを知った。同じ歳くらいの女性と話をするなどという経験は殆ど無かったのだが、それはとても楽しかった。
 夕暮れを告げる寺の鐘が風に乗って響いてきたので、僕らはかなりの時を過ごしてしまったことに気付いた。見上げると、空は大分薄紫がかって、日暮れが近いことをうかがわせた。
「ああ、もうこんな時間だ。そろそろ戻らないと」
 空を見やりつつ、僕は言った。月美さんも頷いて、山道を下りはじめた。男の僕でも足場が悪いと思うところがあったのに、草履履きの彼女が無事に下りられるのかと危惧したが、それは杞憂だった。
 僕は全く気付かなかったのだが、神社の裏には、細いけれども月が池まで続く道があったのだ。その事を言うと、月美さんは微かに笑った。
「この道は村の人でも、あまり知らないから……」
 初めて来た僕が判らなくても当然だ、ということであった。
「またお会いできるといいですね」
 鳥居から出て左が僕の家路、右が月美さんの帰る道であったので、僕たちはそこで別れた。別れ際に僕が言うと、月美さんは頷いた。
「月が池には、よく参りますから」
 そう言い残して、彼女は背を向けた。その言葉の意味を考えているうちに、月美さんは角を曲がり、姿を消していた。僕はぼんやりとした心持で家路を辿った。別れ際の言葉はつまり、月が池に行けば、彼女に逢えるということだろう。
 まるで逢引の約束のようだと思い、僕は一人で頬を熱くした。
 その日の夕餉時、今日は何処に行ったのかと父に尋ねられ、僕は月が池の話をした。ただ、そこで月美さんに会った事は言えなかった。仮令初対面で、話をしただけだといっても月美さんは嫁入り前の娘なのだ。そんな女性と長々と二人だけで話をしていたなどとは、到底言えなかった。
「月が池まで行ったなんて、随分冒険をしたんだな」
 父は晩酌の猪口を傾けながら笑った。
「俺が小さい頃には、あの池には竜神が住んでいて、引き込まれてしまうぞと脅されてな。泳ぐのは勿論、遊びにも行くなと叱られたものだよ」
「そんな危ないようには見えませんでしたけれど」
 僕が言うと、父は首を振った。
「いや、案外あの池は深くてな。大人でも足がつかないらしい。それに水が冷たいからな。泳ごうなんて思わないほうがいいぞ」
「僕はそんな子供じゃありませんよ、お父さん」
 冗談めかして脅す父に、僕も笑いながら答えた。
 月が池で泳ごうなどとは一度も思わなかったが、それから毎日のように僕は月が池に行った。午前中は昼までの二時間ほどを散歩の時間にしていたから、その間だけ、月が池で過ごすことにした。
 月美さんがいるのは三日に一度か二日に一度か、それくらいだった。いつでも、次にまた会おうと約束をして別れるわけではなかったので、別段気になることでもなかった。彼女がいない日は池のほとりで本を読んだ。そこは本当に静かで、いつでも涼しい空気が池から流れてくるので、多少薄暗いことを除けば快適だった。
 僕と彼女は、取りとめもない話ばかりした。僕は街で見た曲馬団(サァカス)の話や、学校の話、それに昔行った旅先の風物を話した。月美さんは好きな小説の話や、村での出来事を話した。どちらもそんなに話題を持っているというわけではなかったのに、どういうわけか彼女と話していると時を忘れてしまうくらい楽しかった。
 或る日自室で勉強をしていると、何とはなしに、母と澄代さんの会話が聞こえてきた。澄代さんは代々功刀家で働いている使用人で、夫や子供とともに離れに住んでいる。子供はまだ尋常小学校に通っているような小さい子だったから、僕とはあまり会うこともなく、専ら外で友達と遊んでいるようだった。
 その時、母と澄代さんは縁側で豆を干している最中だった。澄代さんは色々と噂話をするのが好きで、いつもどこからかそういった話を仕入れてくる。
「この村で、つい最近も神隠しがあったんですよ」
 僕が聞き取れたのは、そこからだった。普段は聞き流すのだが、神隠しという言葉に何となく興味を惹かれて、僕は二人の会話に耳をそばだててみた。
「神隠しが? 怖いわね」
「最近と申しましても、まあ、五年かそこらも前のことですけれどもね。天正寺の近くの辻に、お堂がございますでしょう」
「ええ、あるわね」
 母の声は生返事だった。澄代さんはここぞとばかり声を低めて、雰囲気を出そうとしているようだった。
「そこの堂守をしているのが辻堂さんなんですが、そこの十五か十六になる娘さんが、ふいと消えてしまったんですよ」
「若い娘さんなら、家出じゃなくて?」
「そんなことはございませんよ、奥様」
 澄代さんは声に力を込めた。
「勿論そういう噂もございましたけどね。でもそうとは思えませんよ。田舎に似合わずとてもきれいな子で、ちっとも曲がった所のない、悪い噂なんか立ちようもない、それは良い娘さんだったんですから。それに、神隠しに遭った時には、隣村に使いをしに行った帰りだったそうですよ」
「それなら、何か悪い事に巻き込まれてしまったのかもしれないわね……」
 母は、少し気の毒そうな声音で呟いていた。
 平和そうな村だが、そんな事件もあったのかと思うと、少し暗い気持ちになった。
 そうして、僕の夏休みはあっという間に終わりに近づいた。帰省の為に持ち帰った荷物を纏め始めると、夏も終わるのだと感じられて、何か切なくなった。そんな重い気持ちになるのは、単に休みが終わってしまうからというだけではなかった。
 いつのまにか、月美さんと会う事が僕の日常の一部になっていて、それが途切れるのが辛かったのだ。
 暇を告げなければならないと思いながら参道を登ると、月美さんが思いがけず神社の境内に佇んでいた。
「こんにちは。珍しいね、ここで会うなんて」
「こんにちは」
 木立の向こうから村を見ていたらしい月美さんは、僕を振り返って笑顔を浮かべた。そのまま池に向かうこともなく、僕らは拝殿の軒先に腰掛けて話をした。
「来週には街に戻らなきゃいけない。学校が始まってしまうから」
 僕の声は、自分でも吃驚したくらい落胆した調子だった。
「次に戻って来られるのは、何時?」
「冬休みだよ。だから師走になるまでだ」
 言いながら、それが随分長いような気がした。そして、こんなにも会えない時間が長く思われるなんて、本当に彼女を好きになってしまったのだと思った。
「君に会えないと、(とて)も寂しいな」
 ついうっかり口に出してから、僕は慌てて口を押さえた。だが横目に見た月美さんは、心なしか頬を染めて微笑み返しているばかりだった。
「私も、水晶さんと会えないと寂しいもの。お相子ね。ねえ、それなら、これを私と思って持っていらして。私を思い出す(よすが)にしていただきたいの」
 月美さんは帯締めに結び付けていた銀の鈴を外し、僕に差し出した。彼女の指先で、鈴がちりりと音を立てた。
「でも僕には今、君にあげられるようなものが何もないよ」
 僕は両手を脇で広げて、何もないということを示して見せた。
「あら、そんなこと」
 月美さんは僕の手を取り、鈴を握らせながら言った。
「何もなくても、私はここに来れば水晶さんを思い出せるもの。だから、いいの」
 緩く首を振りながら、月美さんは鈴を握らせた僕の手を両手で包んだ。思いがけない動作に、僕はどきりとした。この短いようで長い夏の間で、僕らが手を触れ合ったのはそれが初めてだった。
 多少の照れと済まなさを感じながら、僕はその鈴をベルト通しに結びつけた。それを確認して、月美さんは微笑んだ。
「貰うだけじゃやっぱりいけないから、次に会う時には君にお土産を持ってくる。何がいいかな。本が良い? それとも他に何かあるかな」
「そうね」
 月美さんは唇に人差し指を当てた。宙に浮いた足を少しぶらぶらさせながら、暫く思案しているようだった。
「それなら水晶さん、髪を結うリボンを買って下さるかしら」
「リボンだね。判った、約束するよ」
 月美さんの髪にいつも結ばれている白いレースのリボンをちらりと見て、僕は頷いた。よほどその柄が気に入っているのか、いつも彼女は同じ着物に同じリボンを付けている。彼女が何も言わなかったら、僕もリボンを買うつもりでいた。
「じゃあ、指切り」
 月美さんはくすくすと小鳩のような笑い声を上げながら右手を上げ、小指を立てた。僕も、照れ隠しに笑いながら同じように小指を絡ませた。指切りの歌を歌う彼女は迚もきれいで、それでいて幼女のようにあどけなかった。
「冬になったら、池が凍ってしまうし、ここに来る道も霜が降りて危ないから、お会いするのは別の場所にしましょう」
「じゃあ、この境内で会おうよ」
 僕が言うと、月美さんはこくりと頷いた。
「……冬まで、元気で。またね」
「ええ、さよなら」
 手を振る月美さんを残して、僕は参道を駆け下りていった。暫くでも会えない日々が続くなんて、胸が痛い。こんな気持ちは初めてだった。それは初恋だった。次に会う時には、この気持ちを伝えよう。僕はそう心に決めた。
 その時には、お土産を渡しながら。冬の着物に合うようなリボンなら、天鵞絨が良いだろうか。そんな事を思いながら、僕は畦道を歩いていった。地に足が付いていないような、浮かれた足取りであったかもしれない。
 そんな気分だったので、誰かとすれ違ってもあまり気にしていなかった。だが、気にしていないのは僕だけだったようだ。
「おい、あんた……」
 横から突然声をかけられて、僕は立ち止まった。
 僕を呼び止めた男はぎょっとしたように僕を見詰め、鈴を見ていた。その目が何か、ありえないものを見ているようなものだったので、僕は内心嫌な気分になった。年は二十二、三歳ぐらいの、日に焼けた農夫風の男だった。手足は泥まみれで、くたびれた麦藁帽子を被って手拭を首に巻いている。畦を上ってきたところからすれば、今まで田圃で作業をしていたのだろう。
「何か用でしょうか」
 僕は極力叮嚀に尋ねたが、男は僕の顔などもう見ていなかった。鈴を指している指が、微かに震えているように、僕には見えた。
「その鈴、どこで手に入れた?」
「どこだっていいじゃないですか」
 相手の不躾な態度に苛立っていた僕は、冷ややかに返した。
「頼む、教えてくれ!」
 叫ぶように言って男が僕の腕を掴んできたので、僕は逃げられなくなってしまった。彼の目は血走っていて、どうも様子がおかしかった。あまり突き放すと、殴られるかもしれない。そう思って、僕は渋々答えた。
「人から貰ったんですよ」
「どこで、誰から?」
 何でこの男は、月美さんの持っていた鈴にこうまで執着するのだろう。彼女に何かあるのだろうか。そう思うと、僕の苛立ちは増した。
「月が池で逢った、月美さんというお嬢さんに」
「……」
 僕の答えに、男は目を見開いて、絶句した。どうしてそんなに驚くことがあるのか、僕には全く解らなかった。僕の腕を掴んでいる手の力が緩んだので、やっと僕は彼から離れることが出来た。
「もういいですよね? 失礼します」
 僕は顔をしかめながら言い、その場を走り去った。しばらく走って、道祖神の傍の木まで来たのでその陰に隠れて後ろを窺うと、男は根が生えてしまったように未だその場に立ち尽くしていた。気味が悪くて、僕は再び走り出し、二度と振り返らなかった。
 その日の夕方近くなってからだった。
 村の男衆が大声で叫び交わす声が、鎮守の社の方角から聞こえてきた。
「何かあったのかしらね、水晶」
 僕は何も判らない、ということを示すために首を振った。
「ちょっと行って、見てまいりましょうか、奥様」
 澄代さんは張り切ったように立ち上がり、縁側からぱたぱたと下りていった。それを見やりつつ何となく不安な心地がして母を見ると、母も鳥居の向こうに目をやっていた。遠目に、参道を塞がんばかりにして下りてくる人々が見えた。
「私たちも行ってみましょうか」
「お母さん、そんな野次馬みたいなことは止しましょう」
 僕は言ったが、母は聞かなかった。
「庭まで出るだけよ」
 よほど一人で残っていようかと思ったのだが、何か言い知れぬ不安にも似た予感がして、僕は母の後を追った。高台にある庭先からは、参道の入り口である鳥居が見下ろせる。その石垣の上に母と並んで立った。
 野次馬の間から、男衆たちが、何かを俄か作りの担架代わりにした戸板に乗せて運んでいるのだ、というのがやっと見えてきた。だが、それが何なのかまではわからなかった。そこへ、息を切らしながら澄代さんが戻ってきた。
「まあ、まあ、大変ですよ、奥様」
「何だったの、澄代」
 額ににじんだ汗を手の甲で拭いながら、澄代さんは息を整えた。
「それがまあ、月が池で仏さんが上がったんでございますよ!」
「まあ、恐ろしい」
 母は目を見開いて、肩を抱いた。
「一体誰が。子供でも落ちたの?」
「それが、この前した、神隠しの話は覚えておいででしょう?」
「ええ、辻堂さんのお嬢さんのことね」
 母が頷くと、澄代さんは大仰に手を振った。
「見つかったのは、その娘さんですよ」
 何がどうという確信があったわけではない。ただ嫌な予感に胸を締め付けられるようで、僕は矢も盾もたまらずに走り出した。坂を駆け下りて、群がる野次馬をかき分け、罵られるのに謝りながら、何とか前の方にもぐりこんだ。
 筵を被せられた、人らしきものが戸板の上に乗せられている。知らせを聞いて駆けつけ、それが娘だと確認したらしい。戸板を担ぐ男たちの後ろで、辻堂さんに縋りつくようにして奥さんが泣いていた。
 戸板の前を持つ男がよろめいた弾みに、筵の間から死体の腕がだらりと垂れ下がった。絡みついた藻がぼたりと落ちる。死んで何年も経っているはずの死体は、既に皮も肉も半ば以上剥がれ落ち、骨の周りに得体の知れないものが絡みつくばかりとなっていた。
 慌てて後ろの男がその腕を筵の下に隠したが、僕は見た。
 死んだ少女の着ていた、年月に破れ、黄ばんだ着物。その、白地に藍染めの紋絽を。その模様は僕の見慣れた、流れに朝顔だった。
 僕が見たのはそれだけだった。僕は亡くなった娘の名を聞かなかったし、それ以上聞く気もなかった。
 翌日、池のほとりでどれほど待とうとも、二度と月美さんに会うことはなかった。本当は、昨日の時点でそんな事は判っていたけれども、待たずにはいられなかった。そして、僕は街に戻るその日まで待ち続けた。
 その頃には、死んだ娘の葬儀も滞りなく済み、村は何事もなかったかのようにいつもの落ち着きを取り戻していた。あの日、どうして月水さんが発見される事になったのかは、後になってから澄代さんから聞いた。
 駐在所に血相を変えて駆け込んできた誠太郎という青年が、辻堂の娘を殺したこと、その死体を月が池に沈めたことを自白したのだという。それが、あの日僕の貰った鈴を見て、血の気を失っていた男であることは疑いようがない。
 誠太郎は、月美さんに交際を断られたことから、かっとなって彼女を殺したのだそうだった。
 月美さんは生きていたときから、月が池に行くのを日課のようにしていた。遣いの帰り、そこで待ち伏せていた誠太郎に殺されて、月が池に沈められていたのだった。誠太郎は、どうして今になって自首したのか、その理由は終に明かさなかった。
 冬になり村に再び戻って来た時、僕は誰にも告げず神社に行った。そこで半日も待った挙句、日暮れ時になってから墓地に向かった。探していたものは程なく見つけることができた。辻堂家の墓に建てられた、まだ新しい卒塔婆。その中程に、街で買い求めたリボンを結びつけた。
 薄闇の中に、桜色の天鵞絨の光沢が月明かりに淡く浮かび上がるようだった。
「約束は守ったよ」
 僕は小さく呟いたが、誰にも聞こえなかっただろう。その言葉の意味も判らなかっただろう。僕以外、この世に生きている者には。
「君の事、好きだったんだ」
 手を合わせながら、僕は囁いた。囁きは白い吐息になって、やがて闇に溶けていった。月光に煌きながら、雪が降り始めた。まるで月の涙のように。
 僕には、何も解らない。
 月が池で出会った月美さんは、この世に思いを残した彼女の魂だったのだろうか。どうして僕の前にだけ彼女が現れたのか、どうしてそれが僕だったのか、それも解らない。
 或いは僕は、最初から誰にも会わなかったのかもしれない。あれは水底の記憶が見せた幻だったのかもしれない。だが、僕の手の中には確かに、彼女から貰った銀の鈴が今も残っている。
 この鈴と、あの夏の僕の想い。それだけは、確かに現実だったのだ。仮令水底の少女は幻であったとしても。



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