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鎮花後日譚――或いは祭部恭一朗の奇妙な日常 その弐


 じんわりと汗ばむような梅雨が漸く終わり、其の日はからりと良く晴れた気持ちの良い日であった。私は大学時代の友人、斯波君と真東君、加藤君らと暫くぶりに逢う約束をしており、日本橋辺りに出かけていた。我々は閑谷先生の下で短歌の集まりを開いていた仲間であった。
 全員が酒を余り嗜まぬので、逢うならば昼の方が良かろうということになり、加藤君が日本橋の料亭で一席設けてくれた。同じ帝都に住んでいるのだが、私は何うも料亭などには詳しくなく、全て加藤君に任せて了った。
「併し真東君は相変わらず植物に夢中だね」
「彼の場合は夢中というより、取り憑かれているのだよ」
 斯波君が云うと、真東君は少々睨むような顔をした。
「取り憑かれているとは失敬だな」
「そうとも、祭部(まつるべ)君と斯波君が、俳句や短歌に夢中になっているのと同じことだろう。なあ、真東君」
 友人達の中では唯一、官吏の道に進んだ加藤君はそう云って真東君の肩を叩いた。斯波君がとんでもない事を云われたとでもいうように云い返した。
「加藤君、祭部君と私を一緒にしないで呉れ。私は研究はしていても、未だに自分で短歌を撚っているような事はしておらぬのだからね」
「そういう云い方は無いだろう、斯波君。たかが詩作と莫迦にしてはいけない。歌の心を知るには、何時でも初心に返ること、自分で考えてみることが重要なのだよ」
 私が斯波君に反駁していると、加藤君はさも愉快そうに笑った。
「祭部君の云うとおりだ。夫れでは全く、団栗の背比べというものだよ」
「君一人が何の変哲も無い人のような顔をするのは許せないな。もしも我々が奇矯だと云うのならば、其の共通の友人である君も変わっているよ」
 真東君がなかなか鋭い事を云った。私と斯波君は先刻まで云い争っていた事も忘れて、彼の云うとおりだと頷きあった。併し加藤君は我々よりずっと実際的で、私と斯波君のように趣味を仕事にしたり、真東君のように趣味の為だけに仕事をしたりなぞはしていなかった。
 ともあれ真東君にそう云われては加藤君も返す言葉を見つけることができなかったらしく、眉を顰めて黙ってしまった。食事を終えた後は斯波君と真東君を駅まで見送って、其処で加藤君とも別れた。
 友人達と逢って懐かしくなり、久々に私は閑谷先生の家に寄って帰ることにした。
 閑谷先生が失踪されてから既に一年が過ぎた。先生から其の財産の処分を任されたが、何時先生が戻ってこられても構わぬように、時折掃除や片付けはするが、其の他は何一つ手をつけぬ儘にしている。
 先生の家の前に、見慣れぬ風体の男女が立っていた。男は随分歳を取っているようで、手には洋杖(ステッキ)、真白い洋装に身を固めて麦藁のパナマ帽を被っている。
 対して女の方は未だ若く、白絣の紋絽を着て、日傘を差している。二人は門前に立って、中を窺っているようであった。先生の旧知の方かと思い、私は足早に近づいた。
「何か御用でしょうか」
 声をかけると、男の方が振り向いて莞爾と笑った。
「祭部君!」
 浅黒い程に日焼けしていたが、私が其の顔を見忘れる筈は無かった。驚きの余り、吃って了った事にも私は気付かなかった。
「し、し、閑谷先生……」
「何うしたのかね? 宛で幽霊でも見たような顔をして。私はちゃんと生きている。幽霊などではないよ」
 閑谷先生は私の狼狽が面白かったらしく、声を上げて笑われた。以前の先生なら終ぞしなかったような豪快な笑い方であった。話し方にも何やら、日本語には在り得ぬような句読点がついているような気がした。
「君は相変わらずだなア。奥方と倩兒(せいじ)君は元気かね」
「は、はい。お蔭様で。春に娘が生まれました」
「おゝ、夫れは目出度い。奥方に似れば(さぞ)かし美人になるだろうね。今度お祝いを持って行こう」
「有難うございます」
「夫れで、名前は」
伽慧(かえ)です」
 其処まで世間話を続けた処で、肝心な事は何一つとして訊ねておらぬし、聞いておらぬということに気付いた。
「そんな話をしている場合ではありません。一体、一年の間に何が有ったのですか。夫れに、何うやってあの時、屋敷から姿を消されたのです」
 先生はますます愉快そうに笑われた。
「HAHAHA! あれは『いりうぢおんまじつく』だよ、祭部君」
「い、いりうぢおん……」
 此の異常とも云える事態と、聞き慣れぬ言葉に、私の思考は混乱し始めた。折からの暑さも手伝って、眩暈が襲ってきた。そもゝゝ、閑谷先生の変貌ぶりが私には信じられぬものであった。
「今のは英語だよ。此の一年程、絢子を連れて亜米利加に渡っていたのだよ。布哇(はわい)で挙式をしたのだ」
 其の時になって漸く、私は先生の隣に立っている女の名は絢子だと思い出した。私の視線に気付いて、彼女は微笑んで軽く会釈した。驚いた事に、彼女は腕に赤ん坊を抱いていた。
「と云う事は、此の子供は先生の」
「娘の眞梨亜(まりあ)だよ」
 先生は嬉しそうに云った。
「では絢子さんともともと結婚なさる心算(つもり)でおられたのですか。そんな事なら隠されなくても良かったのに」
 思わず詰るように云うと、先生は照れたようにパナマ帽を洋杖で押し上げた。
「今さら隠すことでもないが、此の歳になって恋をしたと打ち明けるのも恥ずかしかったものだから、二人だけで駆け落ちのようなことをしてみようかと思ったのだ。だが、唯だの駆け落ちでは詰まらぬだろう。夫れならば一つ君を驚かせてみようかと考えたのだ。真逆、之ほど驚くとは思ってもいなかったがね」
「驚いたと云うものではありません。先生が何うなったのかと何れ程心配したことか」
「君は真面目でいかんよ、祭部君。人生には時に戯れも必要だ。何事かの『えんたあていめんと』がね」
「え……えんたあ……」
 再び眩暈が襲ってきた。併し辛うじて卒倒は免れた。
「処で、此の家は今は如何なっているのかな」
「……あ、はい。名義は先生の儘で、私が管理しています。中の調度類も其の儘にしてあります」
「夫れは有りがたい。又た暫く此処で暮らす事にしたので、家を探していたのだよ。良かった、之れならあれこれ揃える手間が省ける」
 先生は莞爾と笑った。門の鍵は私が持っていたので、夫れを先生に渡した。眞梨亜嬢を抱えた絢子が先に入っていった。半ば茫洋というべきか、悪い夢でも見ているような気分でその場を辞した私に、閑谷先生はパナマ帽を振って叫んだ。
「ぐっばい! 祭部君!」
 私は、(よろめ)きながら家路を急いだ。
 閑谷先生が、観櫻よりも不可解な存在になって戻ってきたという衝撃にすっかり打ちのめされていた。
 そしてもしかしたら、私の方こそが奇怪しいのではないかという一抹の不安を感じていた。




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