白櫻


 其処は周囲を深い緑の山に囲まれた静かな村である。
 村の中程、櫻に囲まれた旧家の屋敷に、櫻木と細君は住んでいる。
 櫻木の苗字の由来となった其の櫻がまた見事なもので、村の至る所に植えられているどの櫻よりも素晴らしい。
 屋敷を囲むように幾本も植えられているのだが、黒々とした幹は一抱え以上も有り、雪深い土地柄の為、横に広がった枝振りはどっしりとして、時代の風格を漂わせている。
 櫻木に熱心に誘われて初めてこの櫻を観た時は驚いたものである。この村の櫻は山櫻の一種であると思うが、普通に知られている山櫻と違い、まるで肉のような、やや赤みの強い花色をしている。
 春になれば村中の櫻が一斉に咲き乱れ、村を見下ろす峠からの眺めはまるで紅色の霞がたなびいているようである。此れに勝るものは無いと、初めて観た其の時から密かに思い続けている。


「この時期の櫻が一番美しい。咲いている時も美しいが、地面に散り敷いた花弁もまた見事なものですな」
祭部(まつるべ)さんはそうお考えになるのですね。でも散ってしまった花びらは茶色に縮れてしまって、雨でも降ったらぐちゃぐちゃになって仕舞いますもの。(わたし)には余り美しいものには思えませんわ」
(しか)し、花弁が散って肥となるから、来年もまた花が咲くのでしょう。古いものがみずから新しいものの為の糧となるのですよ」
「流石、祭部さんは文学者でいらっしゃるだけあって、仰ることも深うございますわね。そういう考えは、妾には思いつきもいたしません」
「いや、文学者などとはお恥ずかしい」


 今年もまた、私は彼の家を訪れていた。
 毎年櫻が咲き始める頃、櫻木からの手紙が届く。その手紙を合図に、私は彼の住む村へ旅に出る。汽車に乗って十数時間、それから二日歩き続けてやっと村に着く。その頃には櫻は丁度見頃になっているという寸法だ。
 だが今年の手紙は櫻木の細君から届いた。櫻木は去年の秋に不図した病がもとで儚くなってしまったのだ。大学時代の友人達の中で、櫻木が特に早逝であったというわけではなかったが、十年来の付き合いがあり、無二の親友であっただけに、櫻木の死は私に少なからぬ哀しみと衝撃を与えた。
 手紙では、私が一番に彼の葬式に駆けつけた事と、長年の友情に対し、叮嚀に礼が述べられていた。彼ら夫婦に子供は無かったので、使用人も置かぬ屋敷には細君だけが残されることとなったそうだった。
 その手紙の最後に、櫻が咲き始めたことが書かれていた。もう彼岸の時期は過ぎていたが、毎年訪れていた事もあり、櫻木の墓参りをしてやろうと考えた。
 そこで、また今年も櫻木の屋敷を訪れたのだった。

「妾は咲き始めたばかりの櫻が好きですわ。ほんの一二輪、ちらほらと咲いているのを見つけたときが、いちばん幸せ」
 観櫻(みを)さんは相変わらず美しい人であった。少し面窶れしていたが、些かもその魅力を失うことは無い。何処か憂いを帯びた大きな黒い瞳が印象的な人で、儚げな雰囲気を持っている。云うなれば櫻の精がかたちを得てあらわれたような人であった。
「随筆にそんな事を書いた人が居ましたね」
 着いたその日のうちに、櫻木の墓参りを済ませた。
 旧家の末裔だけあって、墓は大層立派なものであった。村の櫻は何処も満開で、寺の境内にも並木が出来ていた。花吹雪の舞い散る中で手を合わせるのも、不思議な気分であった。墓と櫻の取り合わせが意外にも美しいものだと私は初めて知った。
 其の夜、客間になっている離れの一室で、夜櫻を眺めながら観櫻さんと話をしていた。

 未だ瓦斯灯なども無い田舎の村である。月は欠け始めていたが、充分に明るかった。こういうものを朧月夜と云うのだろう。紗を掛けたような薄ぼんやりとした月が櫻を照らしていた。
「それは兼好法師と云う方でしょう。
 『花はさかりに、月はくまなきをのみ見るものとかは』
 と云うくだりの」
「そのとおりだ。良くご存知で」
「昔、宅が教えて呉れた事です。女の浅学ですわ。お褒めにならないで下さいな」
 観櫻さんは上品に笑って、私の杯に酒を注ぎ足した。
 そよと風が吹いて、櫻の枝が微かに揺れ、花びらが一斉に舞い散った。
「もう一つ、櫻の樹の下には死体が埋まっているなんて話も有りますね。この村は櫻が多いから、一つくらいはそんな樹が在るかも知れない」
「まァ厭な方、そんな恐ろしい事仰るなんて」
 整った眉を顰めて観櫻さんは私を睨んだ。
「でも本当の事かも知れませんわね。この村に伝わるお話を祭部さんはご存知かしら」
「何ですか」
「櫻の花はその昔は真っ白だったと云うお話」
「知らない話ですな。是非聞かせて下さい」
 それでは、と云って、観櫻さんは居住まいを正して私の方へきちんと向き直った。開いた障子に切り取られた闇と櫻を背負った彼女は、喪服と髪の色の所為で、闇に融けているように見えた。
「神代の昔の事でございます。この村の氏神様は村人たちが何時までも仲むつまじく暮らしていくようにと、其の証として村人たちに神の庭に咲く櫻をお与えになりました。其の頃の櫻は雪のように白い花でありました。
 村人たちは氏神様との誓いを護り、平和に暮らしておりました。ですが或る日のこと、一人の男が人を殺めました。何が在ったのかは伝説も語ってはおりません。判っているのは、男が其の屍を氏神様の下さった櫻の樹の下に埋めて隠して仕舞ったということです。
 其れから暫く経って、櫻の花が咲く頃、村人たちは真っ白だった櫻の花が、何時の間にか肉のような紅色に染まっているのに気づきました。櫻は死んだ男の血肉の色に、染まっていたのです。
 其の事は勿論氏神様の知る所となりました。
 何が起こったのかを全て悟った氏神様は深く哀しみ、爾来村に降りてきては下さらなくなりました。そしてこの時氏神様のかけた呪いの為に、この村の櫻は残らず紅色になってしまったのです」
 語り終えて、観櫻さんは恥ずかしそうに微笑んだ。
「詰まらないお話で御免なさい」
「いいえ、とんでもない。とても面白いお話です。――併し、その話の続きで考えれば、紅色の枝垂櫻などは如何なるのでしょう」
「さぁ、妾には判りませんけれど……」
 観櫻さんは言葉を濁したが、私はまだ自分の考えに没頭していた。
「この村には真っ白い櫻はもう咲かないのでしょうかね」
「其れは妾も考えて居りました」
 観櫻さんは控えめに云った。そして庭の方に顔を向け、夢見るような眼差しを櫻に投げかけた。私もつられて庭を眺めた。雲が晴れたようで、蒼白い月光を受けた櫻の花は一層輝いていた。
「死んだ男の血肉の所為で、村の櫻は紅色になってしまったのでしょう。それなら血肉の無い真っ白い骨を埋めたなら、白い櫻が咲くのではないかと思いましたの」
 彼女の見つめているものを、私も見た。
 今まで気づかなかったのが不思議であった。
 櫻色と呼ぶには余りに濃い色合いの中、ぽつりと、真っ白い花に覆われた櫻の樹である。
「あの櫻は……」
「宅が咲かせて呉れたのです」
 観櫻さんは莞爾と笑って私を振り返った。
 其の時ほど、女の笑が恐ろしいと思ったことは無い。



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