戻る

待合室


 駅の待合室の窓硝子は白く曇っていた。時折、自らの重みに耐え切れなくなった水滴がつと窓硝子を伝って桟へ落ちてゆく。室の真ん中にぽつんと置かれた古い薪ストーブの中で薪は赤々と燃え盛り、上に置かれた薬罐はしゅんしゅんと音を立てながら湯気を噴き出していた。
 時刻表で確かめると、次の汽車まではあと小一時間ほど待たねばならなかった。ストーブから離れた場所に腰掛け、聡真(そうま)は深く息を吐いた。狭い待合室の中に居るのは彼と桐花の二人きりであった。


 桐花と出逢ったのは三年前、銀座の喫茶店でだった。偶々(たまたま)ふと入ってみた其処の、彼女は女給だった。桐花は黒髪の映える、雪のような白い肌の、華奢な娘だった。運命というものを余り信じる質ではなかったが、聡真は彼女に一目で惹かれた。足しげくその喫茶店に通ううちにいつしか、二人は恋人同士になったのだった。
 桐花との結婚を考え始めたのは、出逢ってから二年が経ってからだった。幼い頃両親と死に別れた桐花は叔父夫婦に養われており、今は放蕩して働かぬ彼らを養うために女給として働いていた。給金の殆どを仕送りに充てるような生活をしていたが、それでも構わなかった。
 勿論桐花は美しかったがそれ以上に、気立ての善い女だった。それが判ると、最初は渋っていた聡真の両親も彼女との結婚を快く認めてくれた。
 婚約してから、桐花は結婚する旨を伝える為にまず一人で国許に戻っていった。だがいくら待っても桐花は帰らず、電報を打っても返事は来なかった。更に三ヶ月経っても音沙汰が無いのを心配して、聡真は到頭桐花の国許を訪ねることに決めた。
 桐花の叔父夫婦は、やけによそよそしい雰囲気のする夫婦であった。
 婚約者だと名乗って桐花と会わせてくれるように頼むと、卑屈な眼をした叔父は如何にも渋々といった調子で桐花の部屋は二階だと告げ、自分は関係ないというような事を呟いた。
その妻もまた、人を品定めするような厭な眼で聡真を物陰から見つめているのだった。
 たった三人だけの血族と聞いていたのに、彼らは姪にはまるで無頓着のようであった。聡真が着いた時、桐花は屋根裏の汚く薄暗い一室に寝かされていた。雪国の冬だというのに暖を取るものは何もなく、有るのは薄っぺらい煎餅布団が一枚きりという状態だった。
「貴方、来てくださったの?」
 桐花は青ざめた顔で弱々しく微笑んだ。その頬だけが紅を差したように紅いのが余計に病人めいていた。
「連絡もせずにいて、すみません」
 聡真が何か言うよりも早く、桐花は謝った。
「病気になったのなら仕方がない。迎えに来たんだ。一緒に帰ろう。こんな所に居たら、治るものも治らないだろう、桐花」
 桐花の汗ばんだ髪を撫で、聡真は優しく言い聞かせるように言ったが、桐花は首を横に振るばかりだった。
「わたしはもう長くないでしょう。……わたしのことはお忘れになって、幸せになってください」
「そんなことを言うものじゃない」
「血を吐きましたもの……」
 桐花は言い、小さな咳を一つした。聡真はその日のうちに桐花を東京の実家に連れ帰る決心をした。彼女をこの場所に置いたままにしておけば、東京に帰る日を待たずに死ぬだろうと、素人目にも判った。
 しかし叔父夫婦を説得するのは厄介であった。病人の桐花を放置していたのは自分たちなのに、姪を連れて行くな、病人を動かすな云々とごねてなかなか首を縦に振らなかった。昨日になってやっと彼らは承諾し、今日この次の汽車で聡真は桐花を伴って東京に戻ることができるのだった。
 聡真は上体を捻じ曲げて、指の背で軽く窓を拭い、外を眺めてみた。空は鈍色の雲が重く垂れ込めていた。降るかも知れぬと思うまもなく、雪が降り始めた。聡真は雪の最初のひとひらを見たような気がした。
「汽車が遅れなければいいのだけれどね、桐花」
 桐花は応えなかったし、何も言わなかった。聡真はまた顔を俯け気味にして、ストーブの火を見つめた。柔らかな静寂が彼を包み、薪の爆ぜる音と薬罐の煮立つ音ばかりが響いている。
「来てくれて、有難う」
 桐花はそう言って、目を閉じた。両手に包み込んだ彼女の手は折れそうな程細く、驚くほど熱かった。やつれてはいたけれど、そうであってもやはり桐花は美しかった。
「一緒に帰ろう」
 膝の上に置いた小さな箱に、聡真はそっと手を重ねた。
 涙はもう出なかった。
 白い風呂敷に包まれたそれは動かすとかすかな乾いた音を立てた。聡真はその優しい音を聴きながら、桐花の遺した最後の温もりが消えていくのを感じていた。




戻る
web拍手を送る


inserted by FC2 system