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月夜


 ふたりで月夜のみずうみに行ったのは、どれほど昔のことだっただろう。
 その日は素敵な十五夜で、空には真ん丸なお月さんが光っていた。
 みずうみの真ん中にもぽっかりと、双子みたいにそっくりなお月さんが浮かんでいた。
 君はみずうみの中のお月さんが欲しいと泣いて、取ってくれと僕に強請った。
 僕はあの時、すっかり困ってしまったものだ。僕は君に何だってあげたかったけれど、それでもどうしたって手の届かないものがあるってことは、かなしいことに君よりもうんと判っていたからね。
 けれど僕のそんな少しばかりかなしい気持ちも、無理なんだって言葉も、君はちっとも肯いちゃくれなかった。
 とうとう終いには、君は自分でお月さんを掴まえるのだと言って、みずうみに入っていった。


(ねえ見て、ほらもうすぐ、お月さんに手が届くよ)


 嬉しそうな君の声はまるでさっき言われたみたいに僕の耳に残っているのに。もうすぐって、どのくらいだい。僕はずいぶん待っているよ。
 お月さんはまだみずうみに居るから、君は帰ってこないまま。
 そうして僕は、今夜も待ちぼうけ。



火奈子


 彼女は妖精だ。
 翅もて飛び回る妖精。
 蜻蛉か蜉蝣のような、透けるその翅は虹色、水に流した油のようにギラヽヾした虹色なのだ。
 その翅で以って彼女は鱗粉を撒き散らす。
 ぎとぎとした虹色の毒を火の粉のように撒き散らす。
 それが毒だと解っている。毒に触れれば堕ちるより他なく、火の粉に触れれば燃えるより他ない。それは触れたものを罪へと、死へと誘うもの。そうと解っているがもう逃げられない。
 何故なら私もまた、あの妖精が撒き散らす忌まわしい毒粉に溺れているからだ。
 その虹色は被膜のように私に張り付き、絡みつき、私を窒息させる。
 花の香りする甘い窒息の中で火奈子が笑う。秘めやかに、密やかに、翅を羽搏たかせ、虹色を煌めかせて。
 私の眼はその光の欠片を追いかける。
 きらきら、きらきら、光が砕ける。
 虹色の毒と罪に溺れながら、私はそれでも幸せであった。
 彼女は妖精、その毒は虹色の甘い夢を見せるが故に。






ええ、ええ、結果としてそうなったことは認めるわ。
でもそれは、パパとママが望んだことだったのよ。
パパとママは私を愛してたし、私も二人を愛してたから、その通りにしてあげただけなの。
私のことを二人はそれはそれは愛していた。私がすることなんて何もないくらいに大事にしてくれたわ。
私は二人の言うとおりに生きてきた。
洋服も、友達も、学校も、行動も、考えることも全てパパとママが決めたとおりにしてきたわ。
でも、私だってもう大人でしょう?
自分でものを考えられる歳よ。


私には好きな人ができた。
でも彼は二人の気に入らなかった
今まで私はずっと二人の言うとおりにしてきた。
もう充分だって彼は言った。これまでずっと言うとおりにしてきたんだから、そろそろ自分の思うようにすればいいって言ってくれた。
私もそう思ったわ。パパとママにああしなさい、こうしなさいって言われると、入り切らないものをを無理やり飲み込んだみたいな気分になったけど、彼の言うことって、全てがそのとおりだって思えるのよ、不思議ね。
だから私は初めて自分の思うとおりにした。パパとママじゃなくて彼を選んだ。
家を出ていくと言ったらママは泣いたわ。パパは怒った。
あんな怖い顔をした二人は初めてだった。
そして二人はこう言ったの。
パパとママを置いていかないで、私たちを捨てるつもりなのかって。
だから私はにっこり笑って答えてあげたわ。
いいえ、私はパパとママを愛してるもの、捨てたりなんて絶対しない。いつまでも一緒にいてあげるわ、って。
でも一緒に連れて行ってあげるにしても、そのままだと二人とも鞄に入らないじゃない?
だから入れるようにしてあげたわけ。
腕とか足を入れる時はやっぱりちょっと嫌だったみたいだけど、頭が入る頃には二人ともすっかり納得してくれてたわ。


……ねえ、これって、別に悪いことじゃないでしょう?



コビト


 僕の傍にはコビトがいる。
 他の人には見えないらしい。声を聞くだけで、僕も見たことはない。
 コビトはいたずら好きだ。
 人が困るのを見るのが楽しくてしょうがないらしい。
 自分の考えたいたずらを、やっちまえやっちまえと僕にけしかける。
 たいてい僕は無視している。
 だけどほんとうにうるさいのだ。そしてしつこい。
 どこにいるのか知らないが、いつでもどこでも話しかけてくる。
 時々うんざりして言うとおりにしてやる。
 そうするとコビトはものすごく喜ぶ。そして二三日は黙っている。
 この前コビトの言うとおりにしたら、怖い人たちに捕まった。
 コビトがやれと言ったことだけど、誰にも見えないものを信じてもらえるわけもないので、僕はそのことは黙っていた。


 またコビトが話しかけてきた。今度は何だ?
 でも真面目に聞いてやる気はない。だいたい言いたいことは判ってるしね。
 僕だって嬉しかぁないが、悪い気分じゃないよ。
 コビトが何を喚いているにしろ、目の前にあるこの階段を登れば、あいつとは永遠にさようならってわけだ。



花に想う


茉莉花
 かのひとに逢ったのは何時の事であったのか、
 何故かのひとを愛したのか、
 それももう、はっきりとは思い出せません。
 名前も、顔も、声も忘れてしまいました。
 別れたその日の事も憶えていません。
 憶えているのは唯
 茉莉花の花の目に沁みるほど白かったことと
 夕闇に漂っていた澄んだ香りのことばかり。


向日葵
 何故貴方はそんなにも
 かれの影を追うのですか
 哀しいほど無邪気に
 切ないほど一途に
 ただゝゞひたすらに
 太陽(かれ)は貴方を顧みないのに
 貴方はそれで
 しあわせなのですか


夾竹桃
 今年の夏、私は彼女に恋をしました。
 紅色の夾竹桃が花盛りで
 その甘い香りはまるで息が詰まる程でした。
 そして全く彼女には夾竹桃が似合っていました。


 しかし実のところ、私は彼女の何も解っていませんでした。
 狂おしい程に彼女を想っていましたが
 詰まる所それは夾竹桃の甘い香りと同じで
 私は唯、毒の甘さに酔い痴れていただけだったのです。


篝火花
 真綿の色したその花は、頭を垂れて泣いています。
 風に揺れるその度に、黄金の涙を零します。


 深紅の色したその花は、天に背を向けて燃えています。
 風に揺れるその度に、黄金の火の粉を散らします。


 嗚呼、それはまるで


 かれを恋うる心のように。


芙蓉

君の名を知らぬまま
僕は君を想う

燃えるような日輪の下、揺らめく陽炎の中に
君は凛としてそこに在る
それだけで、僕の全ては満たされる

君の名を知らぬまま
僕は君を想う



2010.7.3〜10.16拍手御礼文
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