第六話-2へ * 目次


6.聖夜の雪 3


 最初に思ったのは、寒いということだった。骨の芯まで凍りつきそうなほど寒かった。このままでは凍死してしまうかもしれないという思いと、それにつながる生存本能が彼の意識を取り戻させた。
(ここはどこだ……)
 アルフレッドは起き上がろうとして、体の自由が奪われていることを知った。後ろ手に手錠を掛けられている。彼が閉じ込められている部屋は暗くて、どうなっているのかは判らないが、足先の感覚が薄れかけている上に動かせないところから察するに、足首をかなりきつく縛られているようだった。
 とにかく、寒くて仕方がなかった。口を塞がれていないので声は出せるが、寒さで歯がかたかたと鳴るのを止められず、まともに喋ることはできなさそうだった。どうにか体を起こし、座ることに成功して、アルフレッドは息をついた。その時やっと、上半身にまとっていたものと靴を奪われていることに気づいた。
(道理で寒いわけだ)
 肌に触れていた硬い感触から、彼が転がされていた場所はタイルか石張りの床のようだった。明かり取りから僅かに外の光が差し込んでいたが、あまり視界の助けにはならなかった。あの二人組の男女に拉致されたのだということは容易に推測できたが、なぜ自分が狙われねばならなかったのか、それは今もって判らなかった。
「寒い……」
 氷のように冷たい壁から体をできるだけ離し、アルフレッドは苦労しながら膝を折って小さくなった。だがそれも、寒さをしのぐ手立てにはならなかった。外の暗さから相当夜も深くなっているのだろうと知れたが、今が何時なのかもわからない。
 ギシ、と床の軋む音が響いた。アルフレッドは身を硬くして、その音がした方向を見つめた。だが、闇が広がっているばかりで何も見えはしなかった。ゆっくりとだが、足音は確実に近づきつつあった。恐怖とも緊張もつかない感情が、寒さをも忘れるほどに体を支配していた。呼吸が自然に荒くなり、自分の心臓の音が耳元でうるさいくらい響いていた。
「!」
 唐突に部屋が光で満たされ、アルフレッドは眩しさに目を閉じた。しかし、誰が現れたのかを知ろうと、無理やり薄く瞼を開いた。
「気分はどう? ダーリン?」
 あの女が笑顔を浮かべて立っていた。アルフレッドはようやっと明るさに慣れてきた目で周りを見回した。床がタイルか石だという予想は当たっていた。床にはくすんだ灰色のタイルが張られている。だがアルフレッドが最初寄りかかっていたのは壁ではなく浴槽で、そこは浴室だった。
 洗面台の剥き出しとなっている配管に、金属同士を擦ったような細かい傷がついているのをアルフレッドは見つけた。窓枠やドアノブの周りには、手で引っ掻いたような傷跡が幾筋も残っている。それから、また女に視線を戻した。
 まだ若い女だった。原色の、目が痛くなるようなマーブル模様のシャツに、ショッキングピンクのショートパンツという派手な格好で、そんな薄着ではさすがに寒いのか、白いロングカーディガンを重ねている。アルフレッドが買ったチョコレートの袋を右手に持ち、それをひっきりなしに口に運んでいる。
「チョコレート、ごちそうさま」
 女の顔立ちはかなり整っていた。しかし、どこか病的な感じ――いわば麻薬中毒患者の上機嫌のような雰囲気が、彼女にはあった。そして何よりも、彼女の瞳には一切の感情というものがなかった。顔は笑っていたが、緑色の目は瞬きも少なく、じっとアルフレッドを見つめている。
「クレア……」
 アルフレッドは思わず呟いた。クレアが見たという窓辺の女は彼女で間違いないだろう。瞳の色もそうだが、彫像めいた顔立ちもどこかクレアと共通するものがある。
「は? あたしはルースだよ」
 彼女は真面目な顔をして言い、しゃがみこんでアルフレッドの顔を見た。つと手を伸ばしてアルフレッドの胸元を、感触を確かめるようにゆっくりと撫でた。本来ならそんな勝手を許すような彼ではなかったが、寒さで体がほとんど言うことを聞かなかった。
「肌はいいのに、背中も腹もこんなに傷だらけじゃどうしようもないじゃない。刺青だったらよかったのに……。あんたって、ほんとつまんない男ね」
 ルースはぶつぶつと、聞くに堪えないようなスラングで彼を罵った。それから、猫なで声ともいえる声音で尋ねた。
「ねえ、『クレア』って、昼ごろここを通った時あんたの隣にいた女でしょう? あの女の肌はどうなのさ? 色は白くてなかなか良さそうだったけど、触った感じはどうなの?」
(この女と、僕を殴った男が犯人なのか……?)
「返事は?」
「うッ……」
 ルースはいきなり立ち上がり、アルフレッドの腹をかなり手加減なしで蹴りあげた。予想もしていなかった動きだったので、アルフレッドは衝撃に耐える準備もなく強かに蹴られ、身を二つ折りにして倒れた。
「知らないの? なぁんだ。あんたたち、そういう関係じゃないってこと? ほんっと、役に立たないわね。まあいいわよ。すぐにあの女も連れてきて、一緒にばらしてやるから。肌は使えないけど、あんたは食べでがありそうね」
「ルース」
「パパ」
 アルフレッドを見下ろしていたルースは、男の声ににっこりと笑って振り向いた。アルフレッドが目を上げてみると、そこにいたのは確かに彼を殴って気絶させた男だった。二人とも、虹彩まで塗りつぶしたような緑の瞳だった。年齢的には四十代後半から五十代と思われたが、これもどこかで見たような気のする顔だった。
(クレアと……同じ色の目だ……)
 その事実に気付いた時、アルフレッドの背筋を寒さとは全く別のものが通り抜けた。
「どうしたの、パパ。もうこいつを殺るの?」
 ルースの父親――ジェフリー・ルイス・ダンカンは首を縦に振った。それはアルフレッドへの死刑宣告だった。
「物置の方を先にやらない? こいつはもう少し弱るまで、ここに転がしておいた方がよくないかしら」
「もう一人の女が嗅ぎつけてくる前にやっちまおう。それに、皮は要らないんだから生きのいいうちに解体しちまった方がいい」
 ジェフリーはまるで夕飯の相談でもしているかのような軽さで言った。それはこの親子にとっては確かに、食事の相談に他ならなかったのだが。本能的な怖れと、ファイルや解剖室で見続けてきた被害者たちの写真がアルフレッドの脳裏にフラッシュのように浮かんでは消えた。
 アルフレッドは逃れる術はないかととっさに辺りを見回した。しかし浴室の中には武器になりそうなものは何もなかった。まして彼は両手と両足の自由を奪われていた。
「お前たちが……スローターマンなんだな……」
 彼はどうにかそれだけを口にした。ジェフリーはまた、凶暴な笑みを浮かべた。それは同じ人間を見る目というよりは、瀕死の獲物を見つめる肉食動物の飢えた目に似ていた。
「今さら何を知りたいって言うんだ、坊や?」
 ジェフリーは楽しそうに言った。彼が手に握っているものが、刃毀れして錆のつき始めた斧だと気づくまで、少々の時間が必要だった。それで幾人の被害者を切ってきたのか、柄の部分まで黒く汚れて、使えるのかどうかもあやしい斧だった。ルースが父親に場所を譲り、浴室から出た。
 ルースに代わって入ってきたジェフリーは、声を出せないようにアルフレッドの口にガムテープを張り、彼の手を戒めている手錠を掴んで引きずり上げた。
「ここじゃ狭い。いつものように居間でやろう」
「そうね」
 ルースは一も二もなく同意し、アルフレッドは為すすべもなくジェフリーに引きずられていくことになった。これじゃあまるでスプラッタ映画かホラー映画の主人公だとアルフレッドは恐怖でどうにかなりそうな頭のどこかで冷たく思っていた。十一年前のあの日、命を取り留めたのがこんな所で殺人鬼の食料になるためだったのだとしたら、自分の人生とは何だったのだろう。
 十一年前から、少し前までのアルフレッドは確かに、思い出だけに縋って、死ぬために生きてきたといっても良かった。だが、今は違う。生誕祭の狂気は彼を訪れなかったし、何よりも思い出すことを忘れていた。本当の意味で、アルフレッドはこの一週間を「生きて」いたのだ。
(僕が死んでもいいと思ったのは、セレストを護るためだったんだ。こんな終わり方なんて……)
 引きずられて、体のあちこちを廊下に散乱したごみや家具にぶつけられた。その痛みが、寒さでまた気が遠くなりかけたアルフレッドの意識をつないでくれた。二人の足音が止まり、ほんの少しだけ暖かな室内に入ると、彼の体はごわごわのカーペットの上に投げ出された。よく見ると、毛足が大量の血液で固まってしまっているのだった。思わずそこを避けようとしたが、カーペット全体がその状態であることに気づき、アルフレッドは避けることを諦めた。
 ダイニングが奥に見える居間はかなり広い。彼らが食事をしているのであろうテーブルには、皿が一つ置いたままになっていた。その上に乗っている大きな二つの肉塊は、デミグラスソースの色に染まってだいぶ崩れかけていたが、なだらかな椀の形をしていた。女の胸だった。
(キャサリンの……一部か……)
 壁を見ると、茶色く萎びた干し林檎に似た塊が幾つもぶら下がっていた。目を凝らさなくても、それが犠牲者たちの頭部だということは判った。恐らくはここにいる調度品もほとんどが彼ら二人の死体芸術なのだろう。目をそらしたアルフレッドの様子を見て、ジェフリーとルースは肩をすくめて笑いあった。それはいかにも仲の良い親子の像だったが、アルフレッドの目にはグロテスクなものに映った。
「お祈りをしたけりゃ、してもいいのよ」
 ルースが再び屈みこんできた。だがアルフレッドは首を横に振った。それをどう受け取ったのか、ジェフリーは銃を彼のこめかみに押し付けた。あのいかにも切れ味の悪そうな斧で殺されるのはなく、一瞬で終わらせてくれるのを、せめてもの幸いと思いたい。アルフレッドは目を閉じた。
 だが次の瞬間に響いた乾いた銃声と共に、ルースの体がばね仕掛けの人形のように転がった。床に倒れ込むのとほぼ同時に、彼女は大声で喚いた。
「ぎゃあああっ! 痛い! 痛い!」
「どうした!」
 ジェフリーが慌てて娘に駆け寄り、抱き起した。のたうち回るルースの、白いカーディガンの肩が血に染まっているのが、目を開けたアルフレッドにも見えた。そして彼が引きずられてきた廊下から、居間に飛びこんできた人影があった。
 顔を見なくても、たとえ声を聞かなかったとしても、それがクレアだとアルフレッドには判った。どうしていいのか判らずただ怒り狂うジェフリーと、泣き叫ぶルースに油断なく銃口を向けながら、クレアは足早にアルフレッドへと近づいた。
「よくもルースを!」
「広域捜査局よ! 動かないで!」
 ジェフリーがものすごい形相で振り向いた。だがクレアはためらいもなく彼の足元に威嚇射撃し、怯んだ隙にアルフレッドの脇に腕を差し入れて引きずりながら真っ直ぐに廊下へ駆け込んだ。その間はひどく長く感じられたが、実際には一分も経っていなかった。階段の手すりの陰に身を潜めてから、クレアはやっとアルフレッドの両足を縛るロープを外し、自分の鍵で手錠も外した。それから彼の口を塞いでいたテープを剥がし、自分のコートを着せかけた。
 二人が身を隠した階段は、わりと広めにできている玄関の正面についていて、もう少し綺麗にしてあれば上品に見えないこともない作りだったが、どうしようもないほど汚れて散らかっていた。
「怪我はない? フレッド」
「頭を殴られたが、大きい怪我はない」
「ここの住所をメモに残しておいたから、リドル警部たちもすぐに駆けつけると思うわ」
 アルフレッドは頷いて、玄関へ向かった。クレアもその後を追おうとしたが、それは果たされなかった。怒りで顔を朱に染めたジェフリーが飛び出してきて、彼女に体当たりをしてきたのだ。
「クレア!」
「近づいては駄目!」
 その鋭い制止の声に、アルフレットは思わず足を止めた。クレアはそのまま突き倒され、ジェフリーが馬乗りになって組み敷いた。その額に銃口が押し当てられる。もう一方の手はクレアの首にかかっていた。
「この、くそアマが! 殺してやる!」
 ジェフリーの怒りに満ちた翡翠色の瞳を、倒された痛みで束の間閉じていた同じ色の冷たい瞳が真っ直ぐに見返した。猛り狂うジェフリーと、追い詰められているはずなのに落ち着き払ったクレアは対照的だった。
「初めて会う姪に、それはないんじゃないの? ジェフリー叔父さん」
 そして放たれた言葉に、アルフレッドは耳を疑った。クレアの声はいつものように淡々としていた。ジェフリーは不意を突かれたように肩を震わせた。
「なに……?」
「どうして父の――ジョージの真似をしようなんて考えたの」
(父――?)
 今まで、彼らの会話に出てきた「ジョージ」といえば、連続殺人犯のジョージ・マクレーガーしかいない。それが、クレアの父親だということなのか。アルフレッドは俄かには信じがたい言葉を聞いて、初対面となったあの日に見た、父親がいたはずの場所だけが切り取られた写真を思い出した。
「それに、どこでジョージが双子の兄だと知ったの?」
 クレアの言葉に一瞬驚いたようだったが、彼の中で何かを納得したのだろう。ジェフリーは直前までの怒りをふいに鎮めてクレアを見下ろした。
「同じ顔の男をテレビで見たら、誰だって気づくだろう? その時、俺には判ったんだ。俺はジョージと同じ人種なんだ、俺とジョージの魂は一つなんだとな」
「それで、ジョージ・マクレーガーが死んだ日に妻を……バーバラ叔母さんを殺したのね。……大したものだわ。父をほとんど完璧にコピーしてる。行動だけじゃない。舞台まで揃えて。驚いたわよ。家の外観だけじゃなくて、家具の配置から間取り、階段の位置に至るまで一緒なんだもの。こんなこと、どうやって知ったの」
「ジョージが死ぬまで、やつとずっと文通を続けたよ。あいつはいろいろと教えてくれた。住んでいた家がどんなだったか、どうやって殺して、皮を剥いだか。何を作ったか。娘がどんなに可愛いかもな。……クレア。そう、お前はクレアだな? ジョージは、自分とお前がやれなかったことを、俺に果たしてくれと願いを託したんだよ」
 ジェフリーはにやにやと笑った。
「父が、私と何をしたかったっていうの」
「二人でマリーを殺して、邪魔の入らない親子水入らずの生活をするってことさ。それなのにお前はジョージを裏切った。だから俺が代わりに、奴の夢見た生活を再現してやることにしたんだ。ルースを撃ったのは許せないが、心から謝るんなら、お前も加えて三人で暮らしてもいいんだぞ、クレア。ジョージはそれを望んでいた。お前が、本来の生活に戻ることをな。お前だって、血を見たら興奮するだろう? 死体を見るのは、ばらすのは、楽しいだろう? クレア」
 それを聞いたクレアは苦しげに顔を歪めた。見ているアルフレッドまで心が痛くなるような表情だった。
「なぜならお前はジョージの娘だからだ。俺達と同じ、他の下らん人間とは違う、選ばれた人間なんだ。一度殺してしまえばもうそれが楽しくて仕方なくなる。お前はそういう血を持って生まれてきたんだ」
 ジェフリーは心から楽しそうに言った。クレアはぎゅっと目を閉じたが、やがて毅然と視線を上げた。
「そうかもしれないわね。確かに、殺すことにためらいはないわ」
 いつのまにか、拳銃を握ったクレアの手が上がり、銃口がジェフリーの心臓の位置に正確に押し当てられていた。クレアはすごむような笑顔を浮かべてジェフリーを見上げた。ジェフリーもまたにやりと笑った。
「撃てるものなら撃ってみろ。お前も死ぬことになるぞ」
「いいえ、私は死なない」
 クレアはきっぱりと言った。ジェフリーは怪訝そうな顔をした。足音を忍ばせて近付いた気配に気づいたのは、クレアの方が早かったのだ。
 アルフレッドは渾身の力でジェフリーに肩からぶつかっていった。たまらずに体勢を崩して、ジェフリーはクレアの上から離れ、彼ともつれ合うように床に転がった。クレアは素早く跳ね起きて、狙いを定めた。
「くそったれがあぁぁ!」
 ジェフリーが吠え、恐ろしいほどの力でアルフレッドを振りほどくと、銃をクレアに向けた。だが彼女に迷いはなかった。
「クレア――!」
 二つの銃声が同時に響いた。
 喉から獣じみた唸り声を絞り出し、撃ち抜かれた首から鮮血を吹き出しながらジェフリーの体が倒れ、床の上で激しく痙攣し、やがて静かになった。アルフレッドは肘を使って身を起こし、クレアに駆け寄った。彼女は起き上がった体勢のまま、左腕を押さえていた。
「撃たれたのか、クレア」
「ええ。でも少しかすっただけよ」
 クレアは微笑んだ。アルフレッドは思わず彼女を抱きしめていた。彼の腕の中で、クレアはかすかに震えていた。そして同じように震える声で囁いた。
「もう判ったでしょう……。私の正体が」
 アルフレッドは答えなかった。
「私のもとの名は、クレア・マクレーガーよ。フィッツジェラルドは母の旧姓。私は、あいつの……ジョージ・マクレーガーの娘。私にはあの人殺しの血が流れてる。そして叔父のジェフリーも、従妹のルースにも」
「もういいよ、クレア」
 アルフレッドは優しく彼女の髪を撫でた。彼女がそのことでどれほど苦しんできたのかは、全く違う痛みや苦しみであるにしろ、死を望むほどの絶望を知るアルフレッドにもよくわかった。だがクレアは彼の腕の中で首を横に振った。
「私は自分の母親が父親に殺されるのを見たわ。母だけじゃない。たくさんの人が殺された。私は幼く無力で、そして何もできなかった。悪魔のような所業から父を引き離すこともできず、自分の救いだけを求めて逃げ出すことしかできなかった。だから、この事件が父の事件と同じ手口だと知った時、父の亡霊が私を同じ地獄に引きずり込もうとしているんだと思った。ヴァージニアもアメリアも、みんな、私のせいで死んだのだと。私が、父をもっと早くに救えていたら、こんな事件は起こらなかったんじゃないかって」
「僕はね、クレア」
 自責の言葉を遮るようにクレアの体をさらに引き寄せて、髪に頬を寄せながらアルフレッドは言った。
「十一年前、最も大切な人を助けることができなかった。僕は君よりも無力だったよ。君よりも大人で、力だってあったはずなのに。セレストは殺されて、僕の心もまた死んでしまった。十一年、僕はずっと魂が死んだまま生きていた」
 クレアが顔を上げた。
「だから、今度こそ誰かを……君を助けることができて、本当に良かった」
 彼を見上げていた翡翠色の瞳に、涙が溢れた。
「私もよ。あなたが生きていて良かった……アルフレッド……」
 クレアが残したメモを手掛かりに、警官隊を引きつれてダンカン家にリドル達が到着したのは、それから間もなくだった。
「フィッツジェラルド捜査官、事情は判るが、犯人が判ったのなら、どうして我々にひとこと言ってくれなかったんだ!」
「今回は無事で済んだけど、次も同じようにうまくいくとは限らないんだよ」
「すみません。決して、そちらへの連絡を疎かにしていたわけではないんです」
 病院でクレアはリドルとガーフィールドの二人からさんざん説教を食らい、アルフレッドと二人、念のために一日だけ入院ということになった。物置に監禁されていた五人目の被害者となるところだった女性も間もなく救出され、クレアに肩を撃たれたルースは病院で逮捕された。ジェフリーは即死だったが、正当防衛と緊急性が認められたため、クレアには何の処分も下されなかった。
 翌日に行われた家宅捜索で、ダンカン家で今までの被害者四人の頭部の他、死体から盗まれた頭部も、発覚した以上の数が見つかり、墓地では自分の家族は大丈夫かと問い合わせる人々の大騒ぎとなった。また、ダンカン家の冷蔵庫からは冷凍保存されていたキャサリンの体の一部、家のあちこちで加工途中の人革や完成した製品が見つかり、その血なまぐさい犯行の全容が次第に明らかにされていった。
 鮮魚の配送業者としてアルミニアとダーティルを行き来していたジェフリーは、配送の途中で見ず知らずのヒッチハイカーを拾ったり、目を付けた相手に声をかけて乗せたりしていた。被害者をそこから選び、隙を見て気を失わせてはトラックの一番奥に設置した大型の冷蔵ケースに押し込めて自宅まで運ぶ。そして後はアルフレッドがされたのと同様に、物置やバスルームに飲まず食わずで監禁して体力を奪い、最後には殺すのだ。
 ルースは死体損壊と連続殺人などの共同正犯として逮捕起訴され、もう一人の犯人であるジェフリーは犯人死亡として処理された。そして、アルミニアの「スローターマン事件」は終わりを告げたのだった。
 後の捜査はアルミニア州警察とフォークリバー署に任せ、二人の広域捜査局捜査官は次の日にアルミニアを発った。だがアルフレッドはフォリーに席を温める暇もなく、空路でヴィゼーに向かった。とはいえ諸事に追われて、彼がヴィゼーに着いたのは夜も遅くなってからだった。
 十一年前のあの日、彼が一度死んだ場所は、今も変わらぬ姿でそこにある。アルフレッドはセレストが一番好きだったピンクの薔薇の花束をそっと噴水の傍に横たえた。そして祈るように、心の中でセレストに語りかけた。
 ここで起こったことを一生忘れることはないだろうし、忘れたくはない。人が悲しみを忘れることはない。だが、思い出すことは少なくなっていくのだろう。
 思い出さないことが悪いことではないのだと、やっと思えるようになった。
(だから僕は、君を思い出さなくなっていくだろう。でも、君を忘れることはない。いつまでも君を愛している)
「アル」
 優しい声が彼の名を呼んだ。はっとして振り返ると、いつも通りの黒いコートに身を包んだクレアがそこに立っていた。なぜここに彼女がいるのかという疑問は浮かばなかった。これが当然だと、こうあるべきなのだと何故か思った。
「セレストだと思った?」
 悪戯っぽく尋ねるクレアに、アルフレッドは肯定の意味で微笑んだ。クレアは特に気を悪くしたようでもなかった。彼女がおもむろに近づいていくと、アルフレッドの方から手を差し出した。指先がゆっくりと重なり、掌が合わさり、クレアはアルフレッドの胸に引き寄せられた。彼女は抵抗せず、アルフレッドの腕に収まって肩口に頬を寄せた。
「でも君はセレストの代わりじゃない」
 クレアは頷いた。
「君は、他の誰でもないクレアだ」
「知ってる。判っているわ。誰も、誰かの代わりになどなれないもの」
 ぴったりと身を寄せていたので、少し低くてなめらかなクレアの声が、互いの骨と肉を通じて体の奥から鼓膜を震わせた。それはまるで、アルフレッドの体の奥底から響くように感じられた。久しく忘れていた、優しくも甘い感覚だった。
 見た目どおりに柔らかな淡い茶金の髪に鼻先を寄せ、アルフレッドは囁いた。
「どうしてここに?」
「森の中から白骨死体が出てきたんですって。どれもこれも独創的な飾り付けをされてたみたい。報告だと五体ってことだけど、探したらもっと見つかるんじゃないかしら? 場所はノジェロ州」
「今度は少し遠いな」
 アルフレッドは小さく笑った。クレアがヴィゼーに――アルフレッドのもとに現れた理由が、ロマンティックなものなどではないことは最初から判っていたから。けれども、彼女がおとなしくこの腕の中にいる理由は、また違うはずだった。
「もう少しこのままで。いいだろう?」
 クレアからの返事はなかったが、撫でるように背中に回った腕が答えだった。
 傷を舐め合うためにお互いを欲したのではない。たとえ傷がいつまでも癒えることなく痛みつづけたとしても、相手と自分の傷ごと欲しているのだと信じられる。二人は微笑みあった。まるで聖夜に降る雪のように静かに、そして穏やかに、互いを思う気持ちが過去の記憶と傷とを覆ってゆく。
「あ……」
 クレアが小さな声を上げて空を見上げた。
 雪は都会の青い暗闇の中から、途切れることなく降りつづける。二人は一つの柱のように抱き合ったまま空を仰いでいた。やがて世界が白に染まっても、つないだ手が離れることはなかった。


【終】
(2013.9.20)

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