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6.聖夜の雪 1


「信じるも信じないも……」
 アルフレッドは困惑して、すぐ下にあるクレアの瞳から目をそらした。
「僕たちはパートナーだろう? パートナーを信じなくてどうするんだ。心配しなくても、そう信じるに足る事実がない限り、君を疑うことはないさ」
「ええ……」
 ふいにクレアから別人のように覇気がなくなってしまったので、アルフレッドは不安になった。自分が何か悪いことを言った覚えはなかったし、今まで一緒にいたガーフィールドがクレアをここまで意気消沈させることなどしないだろうと思っていた。だから余計にクレアの変わりようが不安だった。
 言い終わると、すまなそうにクレアはそっと顔を背けた。薄い色の柔らかな髪が顔を隠した。何を思うでもなく、アルフレッドはその横顔を見つめていた。あまり意識して彼女を観察したことはなかった。女性としては大柄なほうだが、男社会の中ならこれくらいの背の高さがあった方がむしろ良いだろう。痩せているので、大柄な女性にありがちな、どっしりとした感じはしない。むしろ華奢な印象すら受ける。
 警察学校では本当にここまでのことが必要になることなどあるのだろうかと思うほどみっちりと体術や射撃を叩きこまれるので、か弱い女性というわけではないだろうが、もしかしたら彼女は、自分が思っていたよりもずっと繊細な人間なのではないだろうか。
「それで、何を調べればいい?」
「今日最後に見た、G.L.ダンカンの身辺調査をしてほしいの。家族構成を知りたいのよ。あの窓際の女が気になるの」
「君に似ていたっていう?」
 クレアはちょっと眉をひそめた。
「別にそれが理由なのじゃないわ」
「わかってるよ。君が私的な感情を仕事に持ち込まない人間だってことは」
「ありがとう」
 まだ、すまなげな笑みを浮かべたまま、クレアは呟いた。
「それはそうと……」
 アルフレッドは別の話をしているリドルとガーフィールドをちらりと見やってから、もう一度クレアに視線を戻した。
「君はその間に他の捜査を続けるのか?」
 クレアはこくりと頷いた。
「調べたいことがあるの。それに時間がかかると思うから、別行動の方が早く済ませられるでしょう?」
「いいよ。調査内容をもう少し詳しく限定してくれれば、今日中に終われると思う」
 親指を立てて、アルフレッドは請け合った。ほっとしたような表情がクレアのおもてに浮かぶ。たしかに唐突な申し出ではあるが、これといっておかしいわけでも、規則違反になっているわけでもない。断る理由はなかった。恐らく、あまりに唐突に思いついたので断られることをクレアは恐れていたのだろうとアルフレッドは考えた。
 心の奥深いところでは、そればかりが彼女の様子をおかしくさせていたのだとは思えなかったが、アルフレッドはそう割り切ることにした。パートナーの個人的感情に深入りするのはプライバシーの侵害にもなりかねない。
「シンクレア捜査官、フィッツジェラルド捜査官、朝からずっと休んでないだろう。とりあえず今日はこれで切り上げて、あとは我々に任せてくれて構わない」
 リドルが親切に言ってくれたので、二人はその言葉に甘えることにした。クレアがどう感じていたかは判らないが、アルフレッドは実際疲れを感じていた頃であった。ともあれ車にまだ積んだままの荷物を下ろしておきたかった。宿と言っても先日泊まったモーテルくらいしかこの辺りには無かったので、そこに直行した。管理人でもある受付の中年女性は二人のことを覚えていて、しかも誰から聞いたのかは知らないが、二人が広域捜査官であることを聞きつけていたらしく、何故だか嬉しそうであった。
「隣り合ったシングル二室よね。隣は空き部屋の方がいいかしら」
「そうしてもらえると助かります」
 部屋の鍵を受け取り、受付を通り過ぎようとした時、管理人がアルフレッドにそっと尋ねた。どうやらずっと聞きたかったらしい。
「捜査の方はどうなってるの?」
「規則なのでお教えすることはできません」
 アルフレッドはこれも規則通りに答えた。それから思いついたように付け加えた。
「でも、万が一にもあなたが狙われることはありませんし、ここに迷惑がかかることもありませんから、安心していてください」
「そうなの? 一日も早い解決を願っているわ」
 管理人は心配そうに腕を広げてから微笑んだ。
 部屋に入ると、管理人の心づかいか、小さな天使の置物がテーブルの上に飾られていた。今は生誕祭のシーズンなのだとそれで思い出した。
(あと三日で生誕祭なんだわ)
 クレアはため息をついてベッドに仰向けに倒れ込んだ。すぐに仕事に取り掛からなければならないと思ったが、急に睡魔が襲ってきた。何度かクレアはそれに抗おうとしたのだが、最後には夢に魂を預けてしまうことにしてしまった。
「明後日はイブか……」
 テーブルに飾られた救世主の人形を見て、アルフレッドは呟いた。飾りの隣にセレストの写真を飾る。そうするつもりはなかったのだが、つい、鞄に入れてきてしまった。傍から見れば愛妻家、事情を知る者からは諦めの悪い男と思われることだろう。最初にアルミニアに来た日、クレアはこの写真を見て、事件が解決したら奥さんに紹介してほしいと頼んでいた。あの時はっきりと、妻は死んでしまったのだと告げた方がよかったのかもしれない。或いは勘のいい彼女のこと、うすうす気づいているのかもしれないが。
 何か飲むものはないかと備えつけの冷蔵庫を覗いたが、案の定ミネラルウォーターの一本も入っていなかった。モーテルの近くに食料品店があったのを思い出して、アルフレッドは行ってみることにした。
「クレア」
 突然ノックの音がして、クレアは思わず跳ね起きてしまった。アルミニアでの初日に寝坊した時のことを思い出した。もちろん訪問者はあの時と同じ、アルフレッドだった。
「なに?」
 びっくりしたのを隠して答えたのだが、どうも声が裏返りかけているようだった。ドアを開けると、アルフレッドはそれ以上踏み込むことはせずに敷居の辺りに立った。
「……寝ていたのか? 悪いことをしたな」
「大丈夫よ。それより、なに?」
「ちょっと飲み物を買いに行くんだが、ついでに君の分も買ってこようかと思って」
「そうね」
 クレアはちょっと考えてから、思ったところを素直に言った。
「あればの話だけど、ムリニエのチョコレートを買ってきてくれないかしら。できればミルクチョコね。無くても他のを買ったりしなくていいわ。ちゃんとレシートか領収書をもらってきて。後で清算するから」
「ムリニエのチョコレートだね。わかった。じゃあ行ってくるよ」
「気をつけて」
 答える代わりに微笑みと共にてをひらひらとさせて、アルフレッドはドアを閉めた。ムリニエはオルファルで一番有名なチョコレート菓子のブランドである。まだチョコレートにこだわっているところを見ると、クレアは昼に食べたデザートが気に入らなかったのだろう。料理に関しては申し分なかったとアルフレッドは思っていたが、デザートはどうやら違ったらしい。
(よほど甘いものにこだわりがあるんだろうな。フォリーに戻ったら、チョコレートケーキの旨い店にでも連れて行ったら喜ぶかな)
 甘いものを食べている時のクレアは何とも言えず幸せそうに見える。いつもは冷たすぎるほどのポーカーフェイスなのに、その時だけは何となく、柔らかな表情が浮かぶのにアルフレッドは気づいている。
 モーテルを出て、交差点を渡ったところに『スミス食料品店』と看板のかかった店がある。お使いかおやつを買いに来たのか、北風に頬を赤くした男の子が中に駆けこんでいくのが見えた。店に入ろうとした時、出てこようとした親子を見てアルフレッドは思わず立ち止った。相手も彼の顔を見てはっとしたようだった。
「あんたはこの前の……」
 レイ・ノリスとメアリー・ノリスは心底驚いたように目を瞬かせた。アルフレッドはさりげなく、彼の衣服やメアリーの様子を確かめた。レイもメアリーも、どこも汚れた感じはしなかったし、やつれている様子もなかった。少なくとも初対面の時に見せた憔悴から多少なりとも立ち直っているようだ。
「その節はどうも」
 アルフレッドは軽く頭を下げた。三人は出入口の邪魔になるのを避けてもう少し道路側に出た。こんな所で会うとは思いもよらなかったが、親子が元気そうだったことにアルフレッドは安心した。
「……俺の話は役に立ったかい?」
「ええ。犯人をもう少しで割り出せるところまで来ました。あなたの協力があったからです」
「大したことじゃなかったよ。あんたたちに会った時は本当にひどい状態だったが、あんたの相棒が、メアリーのために立ち直ってくれと言ったのが、じんときてね……。今はメアリーも落ち着いたし、俺もだいぶ気持ちに収まりがついてきたところだ」
 アルフレッドはずいぶん迷ってから、口を開いた。
「事件のことはあなたにとってもメアリーちゃんにとっても、悲しみが薄らいだり、忘れられることではないと思います。記憶を背負っていけるだけの、別の幸せを見つけられるように祈っています」
「そうだな。俺はまだ、一人じゃないんだからな」
 レイ・ノリスは微笑んだ。
「……俺にはメアリーがいる。新たな喜びとなるものが傍にいてくれる。それなのに駄目になっちまってたら、ジニーに笑われちまう」
「頑張って」
 二人は握手を交わし、レイはメアリーと手をつないで歩いていった。アルフレッドは暖かな気持ちで彼らを見送った。レイが立ち直る気力を取り戻してくれたのは一個人としても、捜査官としても喜ばしかった。
 戻ったらクレアにも話してやろうと思いながら、アルフレッドは店内に入った。ほっとする暖かさが体を包んだ。さっさと買い物を済ませてしまおうと、アルフレッドは余計なものを見ないで店内を歩いていった。飲み物の棚が並んでいる棚に、ミルクココアの缶が置いてあるのが目に入った。
 そして何故か、嬉しそうに甘いものの名前を並べているクレアを思い出した。そんなわけで、彼が棚を離れた時、買い物籠には自分のためのスポーツ飲料と、ミルクココアが放り込まれていた。
「それと……ムリニエのミルクチョコだったな」
 菓子の棚を順番に眺めていき、最後の方でやっと、一つだけ残っていたチョコレートの袋を見つけた。それを籠に入れ、ついでにビスケットの箱を放り込んでからアルフレッドはレジに向かった。
 店を出ると、また冷たい風が体を包み、思わずアルフレッドは肩を震わせた。この分ではいよいよ本格的に雪が降り出すかもしれない。聖夜に降る雪など、今のアルフレッドにとっては忌まわしい記憶と直結する、単なる自然現象の一つにしか過ぎなかったが、それでも他の人々にとっては楽しみなものなのだろう。
(生誕祭には、フォリーに戻れるだろうか)
 店先で立ち止まったままふとそんな事を思い、アルフレッドは目を閉じた。もしかしたらこれは、まだ立ち直れないでいる自分への、セレストからの励ましなのかもしれない。そう思いはじめていた。自分のことを思い出すのはもうやめて、新しい喜びを見つけてほしいと、彼女なら言うだろう。レイがそう悟ったように。
 だが、自分にはまだ無理だとアルフレッドは思った。レイにはメアリーがいた。だが、自分には何もない。自分にとっての大事な人を新しく見つけることにアルフレッドはひどく臆病になっていた。護るべきものを護れなかったという後悔は、クレアが見抜いたように今も彼の胸を焼き続けている。
 いつのまにか、モーテルまでの道に人通りが絶えていた。そこを歩いていくと、世界に自分一人しかいないのではないだろうかという錯覚にふと襲われた。そして、そんな想像をしてしまった自分を笑った。
「ちょっとすみません」
 女の声だった。
 急に背後から声を掛けられて、アルフレッドは振り向いた。そこには一台の車が停まっていて、助手席の窓が開いていた。荷台に深緑の幌をかけた、少し旧型の白い軽トラックだった。どこかで見たような気がしたが、同じようなトラックは町のどこでも見かける。気のせいだろうと思いなおした。運転者が道を尋ねようとしているのだろう。そう察しをつけて、アルフレッドは車に近づいた。
「どうしました?」
「道が判らないんです」
 女が答えた。スモーク加工をしたフィルムを張っているのか、フロントガラスが暗くて中の様子はよく見えないが、運転席には誰もいないのにアルフレッドは気づいた。
(どうしたんだろう……?)
 近くの家にでも、地図を見せてもらいに出ているのだろうか。とりあえず、女の話を聞こうと窓の中を覗き込むように身を屈め、助手席にいる女を一目見た時、アルフレッドはどきりとした。
「君……」
 女がにっこりと笑った。次の瞬間、後頭部に衝撃と激痛を感じ、アルフレッドは視界が暗く狭まっていくのを感じた。とっさに振り向くと、バットを握り締めた中年の男が立っていた。
 アルフレッドはこんな時でも職業を忘れていなかった。ざっと観察した男の風体は控えめに言ってもさっぱりしているとは言い難い。半白の髪はぼさぼさで脂じみ、髭もまばらに伸びて顎から頬までを覆っている。女のこぎれいさに比べると、こちらは浮浪者じみていた。その時ようやく、アルフレッドはどこでこの軽トラックを見たのかを思い出した。昼にリドル達と行った、フィッシュボーン・クラブだ。店の横手で冷蔵ケースを積み下ろししていた男、それがこの男だった。
 だが、なぜ彼に襲われなければならないのか。アルフレッドの頭には疑問と混乱が渦巻いた。それに加えて、与えられた打撲の衝撃で意識がもうろうとなる。
「な……」
 がくりとよろめいて、アルフレッドは車の窓に手をかけてどうにか踏みとどまった。しかし、男がまたバットを振り上げる。次の衝撃と、意識が暗闇に落ちていくはざまで見た、笑う男女の歯の白さと、冷たい瞳の緑色が、奇妙なほど鮮やかだった。


(2013.8.20)

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