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2.冷たい土の下で 2


 部屋に戻ってから、クレアは真っ直ぐバスルームに向かった。蛇口をひねると、心配とは裏腹に熱い湯がほとばしり出た。バスタブに湯が溜まるまでの間に彼女はキャリーバッグを開け、パジャマや洗面具、化粧品を取り出した。それから浴室に戻ると、ちょうどいいくらいに湯が溜まったところだった。
 湯の中に体を沈めると、全身の力が心地よく抜けた。思っていたよりも疲れていたのだと判った。深い息をつき、クレアは両腕を前に伸ばした。自分の体を見下ろしてみて、ふと考えた。
 自分がスローターマンの前にいたのなら、スローターマンはこの体を狙うだろうか。
 肌が人よりもきれいかどうか自信はないが、二十六歳の肌ならまだ若さでカバーできる。クレアは標準よりも大柄だから、取れる肌の面積もとうぜん広い。その点は合格だろう。被害者はみな背が高く、或いは体格が良かった。肌質が犯人のお眼鏡にかなうかどうかは判らないが。
 食料としてならどうだろう。自分がいくぶん痩せぎみであるのは自覚している。警察学校での格闘術や逮捕術の訓練はハードなものだったから、それでも一般的な女よりも筋肉がついているだろうが、食欲をそそる柔らかな肉というイメージにはほど遠い。自分が人間を食べるとしても、やはりふくよかで肉の柔らかそうな人間を選ぶだろう。女である以上、男よりも皮下脂肪は多いし、胸や臀部も柔らかめだろうが。
(まずそうったらありしゃしないわ)
 犯人が飢餓状態にあって、目の前にクレアしかいなかったら話は別だろうが、それでも調理方法は選ばなければならないだろう。
(私が犯人なら、私よりもシンクレアを選ぶわ)
 クレア自身にはそんな嗜好は毛ほどもありはしないが、もし、という言葉で考えてみればそう思う。もし――もしも自分がこの事件の犯人なら。女であることを最大限に利用するだろう。
 ヴァージニア・ノリスの顔を思い浮かべる。彼女が最後に見かけられたスーパーマーケットの中。背が高く美しい黒人の女が前を歩いている。張りのある肌のつやに胸がときめく。黒檀を磨き上げたような黒い肌。触ってみたらどんな感触がするだろう。あの女の肌を剥いで、とっておきたい。
 何かのきっかけを見つけて、女どうしであることを利用して話しかけ、親しくなる。それなら――もう少し時間をかけて、顔見知りになっていた方がいいかもしれない。人通りのない道なら大丈夫。こんにちは、ジニー。今日は天気がいいわね。時間があったら私の家でお茶でもどうかしら?
 殺す場所は誰からも見えない方がいい。だから自宅のカーテンは念のため閉めておく。ジニー、お茶を淹れるからそこで待っていて。おいしいクッキーを買ったのよ。メアリーに少し持って帰る?
 そう言ってキッチンに向かうふりをして、隠し持っていた銃を取り出す。頭部と胴体が見つかっていないので詳しい死因は判らないが、女なら薬か銃を使う可能性が高い。血中に毒物反応は無かったので、この場合は銃だろう。ヴァージニアの後ろに回った時、後頭部を狙って引き金を引く。ヴァージニアは何も言わずに机に突っ伏す。床に血が流れる。それで私はぞくぞくするほど興奮する。やっとこの肌を手に入れられるのだもの。
 彼女の体が硬直してしまう前に、服を脱がせてしまわなければ。これはかなりきつい仕事。肌を傷つけないように気をつけながら、鋏で切り開いて邪魔な服を取り除く。やはり思ったとおりのきれいな肌。満点だわ。裸になったヴァージニアを見下ろしてお茶を飲む。これから一仕事あるのだから、何か軽く食べておいた方がいいかもしれない。彼女が買った食材で料理をしよう。
 ジニーの肌で何を作ろうかしら。せっかくだから頭は取っておきたい。内臓は要らないわね。手足も、そんなにたくさん皮膚が取れるわけじゃないから、この服と一緒に捨ててしまおう――。
 クレアは静かに目を開けた。イメージは呆れるほど鮮明で、筋道立っていた。何も連続殺人犯が男であると決めつけることはないのだ。犯罪報道の欠点はまだあったと、明日にでもシンクレアに教えてやろう。性別を特定したあだ名を付けると犯人像が独り歩きしてしまう可能性がある。犯人が女である証拠は出てきていないが、男である証拠もまた同様に、ないのだから。
 あまり長い間そうやってぼんやりしていたので、指先がすっかりふやけてしまっていた。それに気づいて、体を洗ってしまい、すっかり寝る支度を整えてからクレアは浴室を出た。湯に浸かりすぎて火照った体を冷たいシーツに押し当てる。気持ちがよくて目を閉じた。
「見直しが必要ね……」
 犯人が女だったら。簡単な話だ。犯人は逞しい男じゃなくたっていい。計算高い残酷な女でも構わないのだ。そして腹が減っている。
 女同士ならヴァージニアとアメリアに警戒される可能性は低い。犯人が若くて魅力的な女ならなおいい。ラルフに甘い言葉をかけて誘えばいいのだ。キャサリンも、まさか犯人が女だとは思わなかっただろう。銃は場所さえ外さなければ非力な女でも簡単に体格差のある男を殺すことができる。アメリアの連れていた小型犬の首を折る程度のことなら、クレアでもできる。
 もちろん、男だという可能性をすっかり捨ててしまうわけにはいかない。たとえば、今までの犯人像である内向的な男でなくて、人好きのする中年男とか、若い優男ならどうだろう。夫とうまくいっていても、ヴァージニアがつい気を許してしまうほど魅力的な男だったら。自宅に連れ込まなくても、人目につかない場所に――或いは車の中にでも、連れ込むことができればいい。
 これは実際のところは判らないが、あれほど若々しく社交的なアメリアなら、異性からデートに誘われることだってあったに違いない。キャサリンの場合でも、ちょっとませた十七歳なら、ドライブ程度の誘いには簡単に応じるだろう。ラルフを殺すのは少々難しいところだが、マスコミで報道されている犯人像とはかけ離れているなら用心されることはない。その時にはまだ、スローターマンは女性を狙う殺人犯と思われていたから、犯人は余裕を持って獲物を選んだに違いない。
 クレアは唇を噛みしめた。これまで、警察は後手に回り続けている。自分も無能な警察官と思われているも同然だ。捜査官として、個人としてのプライドにかけて、これ以上の犯行を重ねることは許すことができなかった。
 必ず逮捕してみせる。アルフレッドもその決意を持って捜査に臨んでいるはずだ。そう考えてから、クレアは考え直した。
(……彼なら、そんなふうには考えないわね)
 マスコミに対して、捜査官の立場としてではなく、被害者遺族の心情に寄り添った立場から批判し、彼らの態度に心から怒りを覚えることができる人間なのだ。スローターマンに対する思いも、捜査官の意地などとは関係ないだろう。ただ犯人を人間として許せない、だから捜査官である自分が権限を持たない遺族の代わりに突き止め、捕まえる。そう思っているだろう。
 まだパートナーになって実質一日しか経っていないが、まるで何年も彼と組んでいるかのような信頼感がある。アルフレッドはまっすぐで優しい男だ。今日のレイ・ノリスへの聞きこみでも、クレアを若輩扱いして自分の後ろに下がらせようとすることもなく、彼を差し置いて発言したことを咎めることもしなかった。女だからと言って特別ちやほやすることもないが、さりげない気配りや配慮は怠らない。
 しかし彼が結婚していたとは知らなかった。結婚指輪をしていなかったので外見から判断できなかったのはもちろん、ボウマン課長も彼のプライベートに関しては何も言わなかったし、本部勤務の友人たちとの話題にも出なかった。彼が結婚していることを聞かれない限り黙っているのなら、知ろうと思った者しか知らないのは当然だが。十一年前というのなら彼が二十四歳の時だ。アルフレッドが昔からああいう性格なのであれば、どんな女性だって彼に惹かれただろう。写真で見た彼の妻はとても綺麗だった。きっと彼女はアルフレッドのような男を夫に持ったことを誇りにし、幸せだと思っているに違いない。
 クレアは仰向けになり、天井を見上げた。
(シンクレアの私生活を想像してる場合じゃないわ)
 明日はラルフ・チェンバーズとキャサリン・マクドナルドの関係者に聞きこみをして、遺体が捨てられていた場所の調査をしなくては。シンクレアの妻に会うのは、事件が終わってから。楽しみは後に取っておこう。
「疲れた……」
 薄暗く明かりを残した室内でそっと呟いて、クレアは目を閉じた。すぐに眠りは訪れ、彼女は夢も見ずに眠った。

「フィッツジェラルド――クレア、まだ寝てるのか? もうすぐ八時だぞ」
 控えめな声とノックが彼女を眠りから現実に引きずり戻した。もうすぐ八時という言葉を聞いて飛び起き、枕元に置いていた腕時計を覗きこむように確認する。七時五十五分。完全に寝坊だ。
「今用意するわ。ちょっと待って」
 慌ただしく着替えを済ませたらしい。コートを片手に飛びだしてきたクレアは顔すら洗っていないのか、化粧もアクセサリーもしていなかった。髪だってくしゃくしゃのままだ。アルフレッドは思わず苦笑しかけ、慌ててそれを噛み殺した。
「昨日のレストランで食事にしよう」
「ええ、いいわ」
 助手席にクレアが乗り込んだのを確認して、アルフレッドはエンジンをかけた。
「着くまでに髪ぐらい整えておけよ」
 車内で化粧をされるのは好きではないが、場合が場合だ。彼女だって身だしなみくらいは整えたいだろう。こんなに焦って飛び出して来たのだから、それくらい許してやっても罪はない。
「ありがとう」
 鞄の中から化粧ポーチを取り出して、クレアは手早く髪に櫛を通した。その様子を横目でちらりと見て、彼女の髪がくせ毛の上にとても細いのだと気づいた。こんなに細い髪の毛では、一度絡まってしまったら大変だろうな、と他人事の呑気さで考えた。触れてみたらきっと、小動物のような柔らかい手触りなのだろう。セレストの髪はこしの強い、やや硬い手触りだった。日の光を浴びてきらきらと輝いていた艶やかな髪。
 また考えた。
 セレストのことは事件が終わるまで極力考えないようにしようと自分で決めているのに、まったく守れていない。何かペナルティをつけておいた方がいいかもしれないと、アルフレッドは舌打ちしたい気分だった。まったくもって紳士的ではないので、それは心の中でだけにとどめていたが。
 昨日の夕食をとったレストランに到着し、駐車場へゆるやかにカーブを切って入る。その頃にはクレアの髪は一応きれいに梳かされ、少なくとも寝起きそのままの雰囲気は消えていた。狭い店内には常連らしい客が五割ほど席を占めて、めいめい煙草をくゆらせたりコーヒーをすすっていたりしていた。
 アルフレッドとクレアは向かい合わせになる窓際の席に着いた。朝のメニューは情けないほど少なかったが適当に注文し、料理が運ばれてくる間にクレアは一度手洗いに立ち、戻ってきた時には素顔は完璧に隠されていた。
 席に戻ったクレアは手帳を取り出して机の上に出した。そしてちょっとした緊張を隠し、さりげなさを装ってアルフレッドを名前で呼んでみた。
「これを見てくれる? フレッド」
「何を書いたんだ?」
 差し出された手帳のページには、見開きで地図が描かれていた。それが現場近くの地図であるというのはすぐに気づいた。大きい道路だけを描いて簡略化された地図には、赤いペンで点がそれぞれ四つ記されていた。点の下にはイニシャルらしいアルファベットが書かれている。
「遺体の発見現場よ。点の下は被害者のイニシャル。何か気づくことはない?」
「いや……わからないな。共通点はこの市内だってことだけだろう?」
 考え込む時の癖なのか、髭も何もない顎をしきりに撫でながら、アルフレッドは言った。
「遺体の発見された場所はかなり限定されていると思わない? ヴァージニアの発見現場だけは少し離れているけれど、第二第三の被害者と第四の被害者の発見現場は五キロ圏内、全て国道45号線沿いよ」
「確かに」
 アルフレッドは頷いた。
「だが、まだ四件だ。偶然かもしれない」
「ええ、もちろんそうかもしれない。この近辺に犯人がいるとは限らないし。でも、気になるのよ。次に被害者が見つかるとしたら、またこの近くかもしれない」
「そうなる前に犯人を逮捕したいものだけどな……おっと」
 ちょうど、頼んだものが運ばれてきたのでアルフレッドは乗り出していた上半身を戻した。クレアも目の前に皿が置かれたので、ポケットに手帳を戻して朝食にかかった。ふとアルフレッドを見て、クレアが笑った。
「何だ?」
「フレッド、昨日からサンドイッチばかり食べてるわ」
「君こそ相当な犬好きだな。昨日はホットドッグ、今日はチリドッグじゃないか」
 言い返して、アルフレッドはハムサンドにかぶりついた。クレアも軽く肩をすくめてチリドッグを取り上げた。同じようなものばかり頼むのはお互いさまだった。
 朝食を済ませ、二人はその足でフォークリバー署に向かった。殺人課に入ると、すでにリドル刑事が来ていた。昨日の聞きこみと捜査で得た推論を話すと、彼は目に見えて動揺したようだった。
「じゃあ犯行の間隔が狭まるかもしれないと?」
「可能性の問題です。犯人がキャサリンの遺体を食べ終えてしまったら、きっと新しい食料を補充するために殺人を犯すでしょう。犯人が単独犯だとして、彼女の見つからない部分の重さを仮定して計算すると、あと一週間が限度です。それまでに皮膚の採集を目的とした次の犯行が行われる可能性も高い」
 リドルは真っ青な顔で、崩れるように椅子に座った。
「なんてことだ……」
「ですが、リドル刑事。犯人が被害者一人にかける労力から考えれば、皮膚と肉の両方を一度に獲得するほうを選ぶでしょう。別々にすると、単純に言えば手間が二倍になるわけですから」
 クレアは相変わらずのあの無表情できっぱりと言った。仕事とプライベートで顔を使い分けているかのような見事な切り替えだった。
「お気づきでしょうが、被害者が発見された場所は二人目からはずっと国道45号線沿いです。ここに巡回を増やして、目撃者探しと不審人物の洗い出しを行いましょう。必要があれば検問も。私たちは引き続き、関係者への聞きこみを続けます」
「そうしよう」
 リドルはまだ顔色が悪かったが、しかし強い光を目にたたえてクレアとアルフレッドを見返した。
「次はラルフ・チェンバーズの家か? クレア」
 自分では意識していなかったが、アルフレッドは初めてクレアを名前で呼んだ。なぜかどきっとして、クレアは跳ねあがった動悸を隠して答えた。
「ええ。でも、彼の働いていた店の方が近いわ。そちらから行きましょう」
「了解」
 アルフレッドはちょうど赤信号になったのでブレーキを踏んだ。どうせなら、こういう台詞の時にはアクセルを踏みたかったのだが。


(2012.11.30)

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