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2.冷たい土の下で 1



 食べてしまいたいほど可愛いとか、愛しいとか。
 あなたを殺して独り占めしてしまいたいとか。
 そういった言葉は恋愛小説やドラマの中ではよく聞く台詞だ。愛情や性欲が食欲にすり変わる衝動や、相手を食らって自分の中に取り込みたいという願望は大なり小なり誰もが心の奥に持っている。相手を食らうことでその力や能力を手に入れようとする行為、愛情や敬意を示すために自分を食わせたり、相手を食ったりする行為は世界中で見られる。
 人間に限らず様々な動物を生贄に捧げて食べる儀式しかり、討ち取った敵の肉を食べる儀式しかり。このオルファル連邦で大多数を占めるアンゼール教でも、最高神アンゼルムスの肉に見立てた聖餅と、血に見立てた葡萄酒を口にする。
 だが今の時代、それらの言葉を本気として受け止める人間はまずいないだろう。その言葉どおりに実行してしまう人間も。
 クレアが推測したスローターマンの殺害動機は異常きわまりないものだ。人間の皮膚を蒐集したがる変質者であり、さらに三人目の被害者からは、その肉を食べるようになっている。四人目の被害者キャサリン・マクドナルドははっきりと、その目的で解体されている。
「確かに、食肉目的で殺人や死体損壊を犯した犯罪者は過去にも多くいる。宗教的な理由。異常性欲或いは性欲と食欲のすり替え。死体の処理に困って。最も手近なタンパク源として……理由は様々だ」
「行動それ自体は異常なことではないわ。人間はどんな動物の肉だって食べるし、狩った動物の毛皮を利用するでしょう? 犯人はそれを人間にも当てはめただけ。異常なのは、それを人間に当てはめた、というところよ」
「君は最初からその線を疑っていたのか?」
 クレアは首を振って否定した。
「キャサリンの死体を見るまでは、性的な快楽殺人犯ではないかと思っていたわ。ノリス夫人とラルフは下半身が失われていたし、老人のアメリアの性器には全く関心が払われていなかったから。でもキャサリンの死体を見た時、あなたと似たような感想を持った。それで確信したの」
「あれは、肉を取った後の残骸だ……って?」
「そうよ。ラルフの肉が取られたのは思いつきであったとしても、キャサリンは最初から肌の蒐集と食料の確保、その二つの理由から殺された。問題は、犯人が殺人を犯す二つの目的が離れてしまうこと」
「つまり、皮を取るために殺す人間と、食べるために殺す人間と、被害者が別になる……単純計算で二倍になるということだな」
「ええ。皮を取る相手は少なくとも好みがあるし、選ぶ必要がある。だからそうそう簡単に見つかるものじゃない。でも食料確保のための相手なら、そこまで吟味する必要はない。彼が肉質にまでこだわる性格じゃないければ」
 それはつまり、誰でも被害者になりうるということだ。だが現時点では推測の域を出ないし、夜間の外出を控えるように注意を促すことくらいしかできないだろう。
「この推測が正しいとして、発表は控えた方がいいだろうな。マスコミが大騒ぎすると困ったことになる」
「そうね。今のところ犯人は何も気にせず死体を遺留品ごと捨てているけれど、手口や動機を明らかにされたと知ったら慎重にならざるを得ないし、抑止効果になればいいけれど、死体を隠すようになるかもしれない。そうなると発覚が遅れるわ」
「ああ、そういうことじゃなくて」
 アルフレッドは目を伏せた。
「マスコミが独自調査と称して関係者をつけ回したり、いい加減な犯人像を流布させると捜査の邪魔になる。それに、家族を失ったショックや悲しみに沈んでいる遺族に、平気でマイクを突き付けて心の傷を引っ掻き回していくようなことがあると、僕らの聞きこみも困難になるし、何よりも遺族の苦しみを大きくする」
「その意見には全く同意するけど、あなた、マスコミ嫌いなの?」
「長年この仕事をしているけれど、好きになったためしはないな」
「なぜと聞いてはいけないかしら?」
 クレアは首を傾げた。
「君は五年前のロビー・ベイツ――《ハイウェイの首吊り男》事件を知ってるかい?」
「覚えているわ」
 南部のニューゲイル州で、一年間にわたって若い女性が次々と刺殺され、死体を晒し台よろしくハイウェイ沿いの街灯や木に吊るされるという殺人事件が起きた。ハイウェイの首吊り男とあだ名された犯人ベイツはすでに逮捕され、死刑判決を受けている。
「あれは僕が担当した事件の一つだ」
 クレアは驚いた。
「ベイツの殺した最初の被害者は、その時ちょうど恋人とひどい喧嘩をして、二人で同棲していたアパートを飛び出した。そして実家に戻る途中で事件に遭遇したんだ。地元警察は当初その恋人を疑った。それに飛び付いたマスコミは連日彼の家に押し掛けて――彼の実家にまで、だよ。彼から恋人の話を聞きだそうと付け回した。中には完全に彼を犯人扱いした報道もあったよ。その後二番目の被害者が出たことで、彼への疑いは晴れたけれどね。僕は何度か彼の相談に乗っていたんだが、マスコミの興味が次の被害者に向いた頃、彼は自殺を図った」
「それで、どうなったの」
「幸か不幸か――命は取り留めたんだが、脳死状態で今も寝たきりだ。他の事件でも、母親が幼い息子を殺された事件で、彼女に落ち度があるような報道をされたせいで精神的に追い詰められて入院せざるを得なくなったこともある。とにかく、連中は視聴率稼ぎや陳腐なドラマ化にしか興味がなくて、相手の気持なんか考えてないんだ。僕はそういう例を飽きるほど見てきた」
「あなたは優しい人なのね、シンクレア」
 ふいに声をかけられたアルフレッドは顔を上げて、不思議そうにクレアを見つめた。彼女の瞳には、どこか慈愛に似たような光が宿っていた。なんだ、そんな表情もできるのかと、アルフレッドはぼんやりと考えた。
「被害者遺族をそんなふうに気遣えるなんて。怒りや悲しみを共有するのは大切。でも、それに囚われてはいけないわ。心が潰されてしまう」
「君が僕の心配するなんて意外だな」
「あら、パートナーの心配をするのは当然でしょう?」
 クレアはちょっと唇を尖らせた。
「それは、心理学の見地から?」
 揶揄するでもなくアルフレッドは呟いた。クレアは困ったような顔をした。二人の間に沈黙が訪れ、エアコンの唸るような音だけが響いた。話題の転換点を探すようにクレアはベッドサイドに目をやり、写真立てを覗きこむように上体を傾げた。
「シンクレア、この写真をいつも持ち歩いているの?」
 テニスラケットを片手に、コートの前で肩を並べて笑っている、いかにも幸せそうなカップルの写真。男の方は今のアルフレッドとほとんど変わらない。変わったのは、栗毛に近かった髪の色が透けるような薄い金色――アッシュブロンドでもごく淡い方だろう――になってしまったことぐらいだろう。隣で笑っている女は褐色の長い髪で、色白のアルフレッドとは対照的な小麦色の肌をしている。彼女がアルフレッドの大切な人なのだろうというのはすぐに判った。
「……いいや。今回は特別だ。もうすぐ十回目の結婚記念日だから」
「ずいぶん若い頃の写真なのね」
「ああ。婚約時代のだ」
 クレアはにっこりと微笑んだ。
「今度、奥様に紹介してもらえないかしら」
「そうだな。事件が無事解決したら、紹介するよ」
 アルフレッドは快く頷いた。生きているセレストを紹介することはできないだろうが、クレアなら自分の心境を、心理学という面からではなく、一個人として理解してくれそうな気がした。
 広域捜査局に配属されて以来、ずっとパートナーだったターナーは、彼がいつまでも亡き婚約者の面影を抱き続けて、他の女性の交際を拒否していることに口を挟みはしなかったが、少し異常だと考えていることくらいはアルフレッドも気づいていた。二人と、十一年前の事を知っている誰もが、数人の例外を除いてはアルフレッドは少し狂っているのだと考えていることも。
 だが、クレアなら何か違った反応を示すのではないかという期待のようなものがあった。彼女が心理学を専攻していたという事実があるからか、それとも、初対面となったあの父親だけを切り取った写真のせいかは、彼にも判らなかったが。
「お子さんは?」
「残念だけどいないんだ」
「ごめんなさい、余計なことを聞いたかしら」
「いいや。気にしてないよ」
 アルフレッドは心からの微笑みを浮かべた。九歳年下のこの才気煥発な後輩に、先を歩かれたり心配されたり気遣われたり、今日は忙しい日だ。こうやって赤の他人に自分のことを話すのも久しぶりだった。
「フィッツジェラルド」
「なに?」
「まだ風呂にも入ってないみたいじゃないか。明日も早いから、早めに休んだ方がいい。話はこれぐらいにして、君も休めよ。明日は八時出発でいいか」
「そうね」
 クレアも、会話の終わりを探していたらしい。素直に立ち上がった。出ていく間際にちょっと振り返り、彼女は照れたように言った。
「私を苗字で呼ぶのは面倒じゃないかしら」
「そうは思わないが。まあ、少し長いのは確かだね」
「クレアでいいわ」
「なら君も、フレッドと呼んでくれ」
「わかったわ。おやすみなさい」
 ぱたんとドアが閉まり、アルフレッドは一息ついてベッドに転がった。クレア・フィッツジェラルド。不思議な女だった。何を考えているのか判らないが、いつの間にあんな推論を組み立てていたのだろう。無愛想で一方的かと思えば、他人を心配したり気遣ったり、色々な表情を今日一日で見せた。
「しかし、あの死体を見た後で肉料理を食べられるなんてな……」
 アルフレッドは独りごちた。自分だって殺人事件専門の捜査官なのだ。ずいぶんと陰惨な現場を幾つも見てきたし、クレアよりもキャリアが長い分、そういった光景に慣れているという自負もある。だが、彼女の方が自分よりも経験があって、落ち着き払っているように感じられるのは何故なのだろう。
(何度もああいう現場を見てきたみたいだな)
 アルフレッドはふとそう考えた。
 保存袋から取り出された、キャサリンだった物体を、眉ひとすじ動かさずに淡々と見つめていたクレア。何度も彼女と組んで、ああいった死体を見てきたような、そんな気がしたのは確かだ。
(吐かれたり、卒倒されたりするよりはましだけど)
(あれじゃあ寄りつく男もいないだろうな)
 そこまで考えて、これはセクハラではないかと思い当たったアルフレッドはそれ以上クレアのことを考えるのをやめた。そして事件のことに意識を集中した。今いちばんの疑問は犯人の動機だ。
 皮を剥ぎ取るため、肉を取るためだというのは判った。
 ならなぜ、そんなことをしようと思い立ったのか。
 アルフレッドは同じような事件を幾つか知っている。彼が生まれる前の、ある昔の事件では、犯人は死体の皮で椅子の背を張り、頭部を剥製にして壁飾りにしていた。そして死臭のこもった暗い部屋で独り、母親の幻影におびえながら暮らしていた。彼は母親から受けた虐待が原因で精神に異常をきたし、妄想の果てに猟奇殺人犯となり果てたのだ。
 敵を串刺しにし、死体の森とでもいうべきものを作り上げ、その前で平然と食事をしたという暴君。死体の脂から石鹸を作り、皮でランプシェードを、髪を編んで毛布を作っていた異常者。孤児を引き取っては殺し、その肉を料理に混ぜて売りつけていた肉屋。そんなおぞましく残酷なことを、人間はできるのだ。「人間も他の動物と同じだ」という、一つの認識のもとで。その認識は間違ってはいない。だが、正しいわけでもない。
 スローターマンもまた、禁断の扉を開けてしまったのだろうか。
「やめだ、やめ。また明日」
 激しくかぶりを振って、どんどん気味の悪い方向に向かっていく想像をむりやり意識から締め出すと、アルフレッドは明かりを全部消して布団にもぐりこんだ。写真立ての位置を少し直して、暗闇の中で囁いた。
「おやすみ、セレスト」
(おやすみなさい、アル)
 目を閉じた闇の中では、セレストが笑っていた。
 いつまでも変わらない声と表情で、セレストはいつも微笑んでいる。そして彼女はゆっくりと視界から消えていった。変わりたくなくとも、アルフレッドはどんどん変わっていってしまうのに。消えてしまいたくとも、彼が消えることなどできないのに。
(事件が終わるまで、待っていてくれ)
 あと一週間と一日で、アンゼリオ祭のイブ。セレストと、彼の心が死んだ日。それがひどく切なくて、アルフレッドは声も涙も出さずに泣いた。


(2012.10.30)

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