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 アインデッドの軍はイズラルの南西に、ということは最初に迎えうったリール公女軍と激突したあたりからあまり離れていない、イズラルを見下ろす小さな丘の上に野営をしている。そこを使うよう、講和条約の中で求められたのである。
 逆らう理由もなかったのでラトキア軍はそこまで引き上げていって陣を張っていたが、それとても勘繰れば、市中にラトキアの兵士を入れてまた新たな騒動のもと、あるいは紛糾のもとを作るまいとするペルジア側の気遣いだとも思えないこともない。
 現にラトキアの兵士たちからは、約束の略奪――かれらにとってはそれが給金の一部、あるいは代わりにさえなっていたのだから――はいつさせてくれるのだ、一体いつになったら自分たちはイズラルの市中に入って自由に略奪や強盗を許してもらえるのだ、という不平の声が上がっていないわけではない。
 アルドゥインとアインデッドたちのあのシーンは、いかに精鋭たち、旗本隊の連中の目の前で行われたといったところで、後ろの方にいた者たちには何のことだかほとんど理解されていないだろう。
 ただ単にあとで伝令で停戦だ、という命令を受けてしぶしぶひいたに過ぎないものもいただろうし、またルカディウスが率いてあらかじめこの丘に待機させていた分の軍はなおのこと、全く事情を飲み込めていない。
 ただとにかくひたすら、イズラルに行けばさんざん戦って、手柄を立てれば略奪は思いのままだ――何しろペルジアの首都なのだからゆたかで良い品物がたくさんある、それを好き放題に略奪してよいのだ、と言われてそればかりを楽しみにしてやってきているような好戦的な連中なのである。
(なんだって、急に停戦なんかになるんだ)
(さあな。――ただ、何でもアルドゥイン将軍が……)
(アルドゥイン将軍ったって、あれはメビウスの司令官だろう。メビウスの司令官に何か言われてなんだってラトキアの兵までひかなくちゃならないんだ? アインデッド将軍はアルドゥイン将軍の部下なのか?)
 そのような声だってちゃんとあちこちから上がっているのだ。いや、むしろ、アルドゥインを直接見ていない、ルカディウスが代わって率いてやってきたサナアからの兵士たちの大半は、自分たちが一体何をしているのか、どういうふうに引き回され、何をしにどこに行くのが最終目的なのか、何もかも判らなくなってひどく動揺したり、機嫌が悪くなりはじめたりしている。
 指揮官であるアインデッドたちにこそナーディルとアクティバルたちを捕らえるという大義名分もあれば、内心の野望もあるが、付き従ってくる下っ端の兵士たちにとってはそんなものはどうでもよく、ただ「イズラルに行けば略奪ができる」「イズラルを落とせばなんでも思いのままのぜいたく品が手に入る」と言われて喜んでついてきたに過ぎない。
 指揮官の大義に心から納得して従い、それだけを目的に戦っているような連中は、ラトキア軍の中でもよく訓練されている方である黒騎士団にしても、ごく上層の隊長クラスぐらいにしかいなかっただろう。
 本来なら、たちまちに暴動が起こってもおかしくはないような情勢だったのだ。事実、誰か別の人間が司令官として彼らを率いていたのだったら、たちまちのうちに「約束が違う」といって兵士たちが騒ぎ出していたに違いない。
 それでもなお、メビウス兵のように厳しく軍律を訓練されたわけでもないラトキアの兵士たちがおとなしくこの郊外の丘まで撤退し、命じられるままに野営の陣を張っていたのは、ひとえに彼らにとっては右府将軍アインデッド、というこの存在がすでにメビウス国民にとっての紅玉将軍アルドゥインにも匹敵するくらい巨大な魅力になっていたからに他ならなかった。――とうのアインデッドがどのくらいその事を意識していたかはわからなかったが。
 アインデッドが通り過ぎるとさっと慌てて全ての兵士が敬礼をする。崇拝と憧れを込めた目で見つめてうっとりとした様子でずっと通り過ぎるまで見送っている兵士たちにも事欠かない。
 この遠征で、当人はいくら戦っても足りないくらいの気持ちでいるが、一緒に戦ったラトキアの兵士たちにとっては、アインデッドの壮烈な戦いぶりや、その独特の傭兵気質を残したものの言い方、時に貴族的な立ち居振る舞い、その月光のような冷たい美貌や何となく絵になる物腰、風貌の全てが非常に印象的なものだったのだ。それは、エトルリアの兵士たちにとってさえ同じであったに違いない。
 だがアインデッドの方は、そんな崇拝が向けられていることなど、別段羽虫がとまったほどにも気にとめていない。実際には、兵士たちの間にどういう状態が広がりそうか、ということについてだって把握はしていても、そんなことはルカディウスが原因を作ったのだから自分でどうにかすればいいと思っている。
 彼は大股に歩いて小高くなっている丘の上に登っていくと、狼のようにきつい眉をひそめて眺めを見下ろした。
「ほう……」
 かすかに、一気に飲み干した酔いを発した目に眼下に広がるイズラルを見やって嘆声を漏らす。
 イズラルは、燃えていた。
 消火作業にかかれなかったのか、それとももう間に合わないほど火の回りが早いのか、それとも風に煽られてどんどん燃え広がるのをすでに、無気力なイズラルの民が諦めてしまったのか。
(もっとも、ありったけの力で盛大に火をつけてやったからな――。騎士団の奴らにも、かまわねえから燃えそうなところがあったらかたっぱしから燃やせと言いつけてな)
 アインデッドは肩をすくめた。彼にとっては、数千年の歴史を誇る文化の都、中原で最も古い都市であろうとも別段何の価値も見出すことはできず、何の感慨もない。そう言っては一応は沿海州の大華ティフィリスで育った彼のこと、言いすぎであったかもしれないが、今はひたすら、おのれの野望といくさのことしかこの若い戦鬼の眼中にはないようだった。
(燃えてやがる……こりゃあ風向きしだいじゃ、いかに石の都といっても丸焼けになるかもな。面白えや――アルがいかに取り繕うとしても、そうなりゃ、遠征軍のおかげでイズラルは滅亡寸前てことになるわけだ。どっちみち、ちょっとぶちあたっただけの手応えからじゃ、あんな連中なんざあの百倍いたって俺の手兵だけであっという間に片付けられそうなくらいの弱敵だけどもな……けっ)
 イズラルは燃えている。
 すでに日の沈み、暗くなった平野の広がりの一角を赤々と炎の海と化して、イズラルは燃えていた。
 その中では恐らく、火に追われて逃げまどう市民たち、少しでも荷物を運び出そうとする人々や老人や子供、病人を助け出そうとするものたち、燃え崩れて焼け落ちていく建物の中で助けを求める逃げ遅れた人々などが右往左往してこの世の終わりをかこっているのだろう。
 ここからではただの美しい炎の海のようにしか見えないが、その中では一人一人の市民たちの思い出多い家々や築き上げたつましい財産、そして何よりも何千年も経てきた文化と歴史の記憶が松明と化して燃え続けているのだ。
 あるいは優れた耳を持つものであったら、その焼けてゆく都の悲鳴や断末魔の絶叫をさえ、ここからでも聞き取ることができたかもしれない。人々の怒号や助けを求める声のみならず、都そのものの苦しみとうめき、あえぎと嘆きとが黄金と朱の火の粉となって夜空を焦がしているのだ。
(本当に、火ってのは厄介だな。一度勢いがついてしまうと、人間の力ではどうにも止めようがなくなる。操れる大きさの分には便利に使えるが、武器として使えばこれほど恐ろしいものもない……)
 ふと何かを思い出したように、アインデッドは首をかすかに振った。そしてようやく包帯の外れた自分の左手を見下ろした。彼は掌を上に向けてイズラルに向かって手を差し延べた。
 掌の上にふわりと炎が浮かび上がる。何もかもを焼き尽くす炎でありながら、彼自身を焼くことはない炎がイズラルを焼く大火を背景にして溶け込むように揺らめくのを、アインデッドはしばらくの間見つめていた。
(なぜ神は、俺たちにこの力を与えたんだろう。悪魔と戦うため――? そうならなぜ、この力で同じ人間を傷つけ、滅ぼすことができる? 本当に悪魔と戦うためだけなら、他のものは何ひとつ焼けない力にしてくれればよかったものを)
 アインデッドは目を細めた。濃い緑色の瞳に、炎の赤が映って照り返す。
(ただ燃やし、破壊するための力……。何かを作るとか、生み出すなんてこととは無縁の力。それが俺に与えられた力の意味なら、そのために使うしかないのか……)
 だが、拳を握って炎を消し、再びイズラルを見やったアインデッドの痩せた顔には何の哀れみの表情も、痛ましく思う様子も、ましてや一掬の涙さえも浮かんではいなかった。ごうごうと音を立てんばかりに――おそらく、もっと近づけば実際に音立てて燃えていたはずだが――燃え盛る火の海に、ただ冷然とその横顔を照らし出させて、冷ややかな目を注いでいるばかりだった。
 時たま、その口もとにかすかな微笑が浮かんでいるのが、見るものをぞっとさせたかもしれない。
(この街がどうなろうが俺には関係ない――。何もかも燃えてしまえ。燃えちまえ――こんな古い血のとどこおって腐れ果てた都などいるもんか。あんな戦うこともできねえ男じゃねえような連中ばかりがぐだぐだと暮らしているこんな国など滅びてしまえ。……こんな国など地上からなくなってしまったって、誰も悲しみやしねえ。
 ――もっと景気よく燃えろ、燃えろ、燃え尽きて灰になっちまえ。――くそ、なんだか気が晴れてきたぞ……そうだ、もっと燃えろ、イズラル――俺の毒牙にかからなくたって、お前の命運はすでに尽きていたんだ。古い都、腐った都――もうお前の寿命はお終いだ。これからは新しい、まるきり新しい時代が始まるんだ。若くて新鮮で残酷で荒々しい――まるで冬の朝みたいな時代が。
 きさまは燃えて燃えて燃え尽きちまえ。そうしたら俺が新しい都を建ててやる。……クラインのカーティスよりももっと凄いのを作ってやる。そうさ、俺は帝王になるんだからな。無慈悲な帝王――この地上に君臨する最初で最後の帝王になってやるんだ。
 この炎はイズラルの葬送の火だ。そうして古い腐れ果てた時代が終わって、新しい、全く新しい時代が始まる、という証なんだ。――燃えろ、燃えろ。――風よ吹け、吹いてこんな都、燃やし尽くしてしまえ……)
 ごうごうと燃え盛っていく炎の海。
 それに煽られるゆえか、どうやら風さえも出てきたようだった。
 また、アインデッドの目はイズラルを通り越してはるか彼方を見るようになっていた。その面差しも、どことなく頼りなげな少年の顔に戻っているようであった。
(遠い)
 何を思って、遠い――とつぶやいたものか。
 幼い日を過ごした沿海州のティフィリスなのか、それともはるかなシャーム――それとも、過ぎてきた過去の日々を、もう帰らぬ日々を思ったのか。
 アインデッドは夢見るように、あたかも魅入られてしまったかのようにうっとりと、炎に包まれるイズラルに見とれ続けていた。その若い体を包む黒いマントを、風が強くはためかせた。その長いつややかな、炎の色の髪をも。
 アインデッドはまるで不吉な彫像のように、イズラルを見下ろす丘の上に立ったきり、何テルジンもの間風に吹かれて身じろぎもしなかった。彼に見守られながら、ゆっくりとイズラルの葬送の火は、確実に、それを何とかして鎮火しようとする人々の努力にもかかわらず、じりじりと全市に広がり、家々をなめつくし、いまや碧玉宮にさえ迫ろうとしはじめていたのだった。


(2016.8.20)

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