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 アインデッドはそのまま、アルドゥインに抱きしめられて身動きできない状態で呆然と立ち尽くしているままだった。抱きしめる、というよりはしっかりと押さえつけられているといったほうが良かったかもしれない。
「おお、アインデッド将軍。――これを貴殿に渡したいと、こうして病躯をおしてここまで来たのだ。早く貴殿に出会えてよかった」
 そこに近づいてきたトティラは震える手を差し延べた。そこに握られているのは、二通の書簡のようなものであった。
「これは」
 受け取りながら、アインデッドが目を上げる。
「これが、アダブル大公よりの講和申し入れの親書だ――そしてこちらはペルジア宰相アヴィセン閣下と閣僚よりの嘆願書」
「……かたじけない……トティラ将軍。しかと承った……」
 アインデッドはかすかな、ひきつったような微笑みを浮かべた。彼はあまりの事態の急変に、まだ何が何だか理解していなかったが、どちらにせよ戦いはもうおしまいだということだけはようやっと判り始めていたのである。
「アインデッド、リール殿下。お頼みがある。……このようなところでこうして対峙しているのも気のいたみ、それに至る所でうめいている負傷者たちが気にかかってならねば、ともあれここはこうしてこのたびの戦闘が互いの不幸な行き違いと誤解によるものであり、その行き違いと誤解もめでたく解消の方向に向かったことが明らかとなったこともある。いったん兵をおさめられ、負傷者の救済にお力を貸していただくわけには参るまいか。――おそらく今手当てすれば助かるものも多くいよう。――おまけに、あのとおり」
 アルドゥインは手をあげて遠くを指し示した。思わず、リールもアインデッドも反射的に目をやった――イズラルが燃えている。
「火が次第に燃え広がっている。――折角の三千年の歴史を誇る、それ自体歴史の証拠、記念の芸術品とも言うべき青都イズラル、それをむざと一夜の炎のうちに瓦礫と化させるにはまことにしのびない。――お許し願えればメビウスのわが精鋭たちも消火活動に当たりたいと思うが、いかがか」
「アルドゥイン――」
 リールはいまだに心をすっかり決めかねているかのように小さな目をきょときょとさせていたが、突然に、その固い頭の中にも、今ここで降参せぬかぎりは炎上するイズラルもろとも滅びてゆく以外にないのだということがしみこんできたものと見える。ふいにがくりと肩の力を抜き、力なく頷いた。
「トティラ将軍、よろしかろうか」
「そうしてもらえるのならむろんペルジア軍としては幸いのきわみ……」
 言いかけて、ふいにトティラ将軍はがっくりと馬上でのめる。激しい緊張が解けて、一時に気力が失われ、もとの病の苦痛が戻ってきたのだろうと察せられた。
「これはいけない――トティラ将軍のお加減が悪いようだ。将軍をお守りして、ご自宅まで護衛せよ」
 アルドゥインの命令を受けて、慌ててペルジアの騎士たちが駆け寄ってトティラを助け起こし、馬から下ろして臨時に路上に敷いたマントの上に横たわらせたが、トティラは方で激しく息をしながら、ぐったりと目を閉じたままだった。
「アルドゥイン閣下!」
 慌ただしい叫び声とともに近づいてきたのは、ようやく追いついてきたヴェルザーのセリュンジェ率いる旗本部隊であった。
「何ていう無謀な! 単身、市街戦のまっただなかに駆け込むなんて!」
 セリュンジェは心配が過ぎて頭から火を噴きそうに怒りながら駆け込んできたが、アルドゥインがさっと手を上げて制したので拍子抜けしたように率いてきた騎士たちに全員停止を命じた。
「停戦だ。――伝令にそのように伝えさせろ。むろん連合軍にもだ。――たったいまトティラ将軍のお力添えにより、ペルジアとの間に和平が成った」
「ええっ」
 としか、セリュンジェは言わなかった。正直、呆れかえっていたのである。黙っていくぶんへこたれた様子で振り返る。
「おい、伝令だ。全軍戦闘を停止しろ。講和が成った」
「メビウス軍はこれより全員ただちに停戦、そののち消火活動にあたる。第十整列陣形で。――それから、アインデッドも」
 話題から外れたのかと思いきや、いきなりアルドゥインに振り返られて、アインデッドは何と言ったらいいものか判らずにうなった。
 むろん、アインデッドの方はまだ戦い足りないどころではない。
 それどころかこれからようやく面白くなるぞ――とひそかに腕を撫して期するところであったまさにそのときだった。
 しかもいまやペルジアの最高司令官リールを討ち取らんとしていたその刹那だったのだ。それに、彼にしてみれば抑えに抑えていた戦いへの欲望をやっと解放していたときだったのだ。
 今となってみれば講和など最も望まぬところである。彼が欲しいのは戦いなのだ――血みどろの戦いと略奪、イズラルの全滅さえもが目的なのである。ペルジアからはっきりとした返事が来る前にとにかく仕掛けてペルジアが後に退けぬようにして戦いに引きずり込んでしまえ、というのがそもそも彼らの――もっと突き詰めて言えばルカディウスの――たくらみであったのだ。
 だが、アルドゥインはまるで、ペルジアの講和への試みが遅れたがゆえにアインデッドがイズラルにやむなく真意をただすために切りかかったような言い方で、一言でアインデッドの文句を封じてしまった。
 そのように言われてしまえばアインデッドとしても、もともと第三者とはいえ「友情と好意によって講和を結んでくれた」アルドゥインの言うことに逆らってまでラトキアがイズラルに挑みかかる理由はないのだ。
「おい」
 やむなく部下たちを振り返ったときのアインデッドこそ、まさに不機嫌の絶頂、とも言うべきものであった。
「停戦だとよ。兵を引くように伝令隊は全隊に伝えろ。――ともかく一旦兵士どもを全員集めて命令を待たせるように伝えろ」
「か、かしこまりました」
 どうも何だか妙ななりゆきだな――と言いたげに、ラトキアの旗本隊の伝令が馬に飛び乗って駆け出していく。
「アルドゥイン将軍――」
 リールはまだ半ばとまどいがちにアルドゥインを見上げた。
「わらわは――」
「公女殿下もいったん兵をお納めあれ。ただちにイズラルを炎より救い出さねばならぬ――ご覧あれ。かなり風が出てきた。美しい青の都、この歴史ある都を炎上より救うためには今をおいてよりあるまいかと」
「そ、それはそうだが」
 慌てたように頷く。まだ納得していなさそうなリールに、アルドゥインはかすかに首を傾げてみせた。
「それとも、あえて全ての恩讐を越えて兵を引き、ナーディル公子へのたくらみの憎しみを越えて講和を結ばんとするアインデッド将軍の申し出、公女殿下にはお心に沿わずとおぼしめされるか。――公女殿下には、この上の流血がお望みか」
「それは……」
「ただいまはペルジアの体面、公女将軍のお怒りは忘れられよ。――ペルジアの無辜の民をこの上、流血と炎にさらすは支配者として非情のお心かと」
「な。何もそのように言うことはない」
 リールは狼狽したように言った。
「もとよりこちらとしても、アクティバル将軍に強い請われてのいうなれば国を守るためのやむなき戦い」
「なれば、今は昨日の恨み、今日の遺恨はともにいったん忘れ、イズラルを救うべくおん手を差し延べられよ、リール殿下」
「ま、まあ――そのように言うのであれば……」
 リールはいかにも不本意そうにつぶやいた。そして、そのかわり、突然にメビウスの若き紅玉将軍の美貌と武勇を思い出したらしく、世にも物凄い秋波を送りながら下からアルドゥインを見上げたので、セリュンジェは危うく卒倒する所であった。
「アルドゥイン、頼む」
 トティラが、待っていた輿乗物がやってきたのへ騎士たちに助け起こされて乗り込もうとしながら弱々しく手を差し延べる。
「わしにできることは全てした――あとはもう、わはしおそらく……あとどのくらい命があるか……」
「ご案じあるな」
 即座にアルドゥインは答え、トティラの手を握り締めた。
「後のことは全て、アインデッド将軍と俺に」
「頼んだぞ、アルドゥイン――わしはもうよく戸外の空気に耐えぬ」
 それはまことだったらしい。言いも果てず、トティラ将軍は輿の中でがっくりとなかば失神したように目を閉ざした。ペルジアの兵たちも、またメビウスの騎士たちも一様に声もなく、一世を風靡したこの英雄の、無残な弱り果てた姿を見守るばかりであった。
「アイン!――いや、将軍閣下!」
 そこに、再び激しいひづめの音が入り乱れ、兵士たちの隊列の間に割って入ってくる一軍があった。
「アルドゥイン様。ルカディウス卿率いる連合軍の本隊も合流してこられたようです」
 すかさずアルドゥイン付きの小姓がささやいた。アルドゥインは頷いた――どのみち、はるか遠くからでも、その小さな異形の姿は馬上にあって人目を引いていたのだ。彼はぐっと顎を引き、待ち構えた。
「アインデッド様!」
 ごくわずかな精鋭のみを護衛に率い、残りの兵たちは手前に待たせておいて、馬を飛ばしてきたルカディウスが転がるように馬から飛び下りた。だが、彼には口を開くいとまもなければ、アインデッドに駆け寄る事もできなかった。
 やにわに、まるで飛び掛るようにして、アルドゥインがルカディウスに覆いかぶさるようにまくし立て始めたのである。
「ルカディウス卿、お勤めご苦労に存ずる。――このアルドゥイン、卿に深くお詫び申し上げねばならぬところであった。幸いにして間一髪間に合ったゆえにこのようにして無事平和を取り戻す端緒につくことができたが、少々ペルジアの講和交渉への対応が遅れたがために、卿のとっての大切のおん主、アインデッド将軍閣下をその勇猛さのゆえにあなや生死の危地に陥れるところであった。
 ――将軍は生来のその義侠心と勇敢さのゆえに、わずか五千の兵を率いたのみにてイズラルへの先陣を引き受けられ、すでに市中にてこれなるリール公女殿下の軍隊と激しく切り結んでおられた所、どうにかこのアルドゥイン、それとペルジアのトティラ将軍とによって講和の交渉成り、この上の流血とアインデッド将軍の御身に万一のことあるを避けることができたのは俺としても望外の幸福とするところだ。
 我が戦いにご協力をいただいた身であるところ、ご恩返しになればと思い、将軍に代わり交渉を承ったものだ。まこと勝手に講和交渉をなしたところ、さぞやお腹立ちであろうが、ここは天祐というべき将軍のご無事をもっと何とかご寛恕願いたいと存ずる。――また、講和の交渉も首尾よく進行するであろう見通しもあれば、ご安心召されよ、ルカディウス卿」
 日頃、政治や外交は嫌いだのどうのと言っていたのはどこのどいつだ――と思わずアインデッドやセリュンジェが腹の中で考えずにはいられなかったくらいに、さしものルカディウスが全く口をはさむ隙さえもない。立て板に水、火のついた紙、というのはこのことかと思わせる、すさまじい能弁であった。能弁、というよりも、有無を言わせぬ勢いがあった。
 すらりとした長身をずいとルカディウスの前に突き出して、よく響く大声で一気にすさまじい勢いでまくし立てたのだ。ルカディウスのほうはまた並外れて小さいがゆえに、そのようにして並んで立てばわずかにアルドゥインの胸のあたりまでしかないくらいである。大人と子供と言ってもいいほどかもしれない。否応なく、アルドゥインの顔を仰ぎ見るかっこうになる。
 おまけに今到着したばかりでよく事情が飲み込めていないのだ。ルカディウスも目を白黒しながらアルドゥインに言い立てられているしかなかった。が、徐々に一切を飲み込んでくるにつれて、ルカディウスの青白い顔が真っ赤になり、それから今度は真っ青になっていったのはちょっとした見ものであった。
「そ、それは――それは……」
 ルカディウスは口ごもった。アルドゥインは舌鋒を緩めようともしなかった。
「このたびのいくさにつき、快くも援軍を引き受けてくださった絶大なる友情、僭越ながらお礼申し上げる。しかしそれに重ねてお詫び申し上げねばならぬのは、アインデッド将軍の意思を推し量ってのこととはいえ勝手ながらに講和条約をなしてしまったことだ。
 もしもこのままイズラルを落とし、ナーディル公子一味を捕らえなんとしていたならばこれはどのようなもお詫びできぬところであるが、ここは講和条約に彼らの拘束と引渡しを強く要求し、これをペルジア宮廷の受け入れたこと、それによって首尾よく勇敢なるラトキア兵士諸君に多大なる被害の及ばず、イズラルの無辜の民も血を無駄に流さずに済んだこととあわせ、アインデッド将軍閣下の御身に万一のことあらばと心配したまでのこととご理解いただき、どうぞお許しあれ。アインデッド将軍、ルカディウス卿」
「う――いや――うう……」
 ルカディウスは唸った。ことすでに成らず――すでに身動き取れぬまでに完全にアルドゥインの術中にはまったことを悟ったのだ。
「それは……かたじけなく……主人に代わりましてあつくお礼申し上げます。……アルドゥイン将軍……」
 そうして、とぎれとぎれの言葉の後、ルカディウスのやっと浮かべた笑いはほとんど痙攣のようにひきつっていたのだった。


(2016.1.20)

「Chronicle Rhapsody 32 紅蓮の都」完

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