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     彼は青白き馬に乗り
     風より疾く駆けていった
     彼は哀しみと流血と死を運んできたのだ
         ――エウリュピデス戯曲集より




     第四楽章 ジーグ――収束




「わああああっ!」
 ついに――パニックが、懸命に何とか最後の秩序を保とうとしていたペルジア軍をもとらえた。
「駄目だ――もう駄目だ!」
「ラトキア軍の援軍だ! ラトキアの新手がイズラルに!」
「ああ……イズラル最後の日だ……」
 これまでいくたび――
 幾多の都市がこの哀しくも悲惨な叫びを上げてのたうちながら屠られていったのだろう。歴史のはざ間で、こうして略奪と虐殺の津波に溺れていった都市は数知れない――そしてそれは今、青都イズラルを襲っている運命となったのだ。
「碧玉宮へ!」
 馬上の美しい、若き狼の絶叫が殺されていく人々の耳をつんざき、胸を引き裂いた。
「碧玉宮――!」
 血はいまや石畳の両側に川となって流れている。それへ、どうと倒れこむ新たな犠牲者の血が新たな流れを作る。
 犠牲者はペルジア兵よりもはるかに罪のない無辜の市民たちの方が多く、そしてラトキアの兵士たちはほとんど傷ついていなかった。いまやペルジア兵たちには鬼神と化したラトキア軍を引き受ける気力など全く残ってもいなかったのだ。
 トティラすでに病床にあり、ペルジア大公に国の守護神たる気概はすでになく、そして女の身で第三公女リールがただ一人必死に踏みこらえてペルジアを守らんとするがすでに遅い――いまや猛虎は牙をむき出してイズラルの喉笛に食らいついているのだ。
「わあっ!」
「リール公女様だ!」
「リール様だ! リール様が助けに来てくださった!」
 ふいに――
 ほとんど生きた心地もなく、ただひたすらおのれの上にラトキアの狂剣が振り下ろされる瞬間だけを待って泣き叫んでいたかのような人々の間に突然の大歓声があがった。
 人々の目が向いている広場への大路に、土煙をあげながら突き進んでくるペルジア正規軍の一隊がある。その戦闘に、灰色の鎧かぶとに将軍の房飾りをつけた一騎がある。その激しい怒りに燃える醜い顔は、まさしくペルジアの第三公女、公女将軍リールにほかならなかった。
「リール様だ!」
「リール公女様だ!」
 おそらく、このトティラ将軍の勢いの失せたペルジアで唯一好戦的であるがゆえに、あまり歓迎されざるこの第三公女がこれほどにペルジアの人々の歓呼を浴びたことは――おそらくこれほどに芳しからぬ容姿が頼もしく、ありがたいものに見えたことも――ペルジア始まって以来だったに違いない。
 リールは怒髪天を衝いていた。
 彼女が自ら率いて首都の防衛に出たペルジア正規軍は人数のかなり劣る敵に無残に蹴散らされ、大した抵抗もせぬままに無辜の市民たちまでを敵の刃にかけられながら、まるで追い散らされる犬の子のように逃げ出そうとしている。今、彼女の醜い顔は真っ赤に染まり、たとえ全ペルジア兵士が尻尾を巻いて逃走するとしても彼女一人は踏みとどまって碧玉宮を死守せんとする女鬼神と化したかと見えた。
「情けなやペルジア騎士! 情けなやペルジア軍人!」
 馬を駆って旗本隊を従え、ペルジア兵を蹴散らして広場からまっしぐらにアインデッド軍の本隊目指して突進しながらに、向こう見ずに彼女はわめいた。
「おのれらはそれでも男か! 名誉あるペルジア軍人として情けなくはないのか! たかがラトキアの野盗風情に後ろを見せるとは! おのれらはゼーア最古の帝国ペルジアの軍人なるぞ! それを何ぞや、たかが数千の成り上がりばらに栄えある公都をゆるすとは!――恥を知れ、恥を! おのれを恥じて自らの剣の上に死すべし!」
「おおッ!」
 この悲壮な叫びはアインデッドの耳にも入った。血まみれの剣を取り直し、彼はにやりと凄愴な笑いを浮かべた――繊麗な顔であるだけに、返り血を浴び、死神さながらのその笑いはいっそう凄絶であった。
「現れたな、リール公女! ようやく敵の大将に巡り会えたぞ! 皆、あれが名高いペルジアの公女将軍リールだぞ! 手を出すな。あの女は俺が討ち取る!」
「アインデッド! アインデッド!」
 血にまみれたラトキア精鋭たちの怒号に、リールはかっと目をぎらつかせた。
「さてこそラトキアのアインデッドか! 探したぞ! アインデッド、出よ! われと勝負せよ! たとえ我が身は屍をさらすとも、イズラルはおのれの蹄にはかけさせぬ! 碧玉宮は死守してみせるわ! 出よ、兇族アインデッド! 成り上がりの野盗め、公女リールの正義の刃を受けよ!」
「言うわ、言うわ」
 アインデッドはあざ笑った。
「ぶすとはいえ女の身でしおらしい。女相手に一騎打ちする剣など持ち合わせてはおらんが、それほど死にたければ俺の馬の蹄にかけて踏み殺してやる。前に出ろ、ペルジアの醜女」
「おのれッ!」
 リールは全身から火を噴くかと思われた。そのさま、さながら真っ赤に燃える鬼瓦――。たくましい馬の腹に狂気のように蹴りをくれ、慌てて付き従う旗本隊の勇士もろとも群衆を踏み越え、ペルジア兵を蹴散らして突進した。
 得たりとアインデッド側はまた精鋭たちがさっとアインデッドを先頭に立て、激突の構えを取って前進する。その両軍の前によけそこねた負傷者や市民たちがまた悲鳴を上げて踏み殺されていく――だがいまや戦いの鬼と化した戦士たちはすでにそれらの屍に目を向けようとはしない。
「きさまか!」
 リールはすさまじい怒りの息を吐いた。
「きさまか、アインデッド! きさまがかのラトキアの洟垂れ娘のつばめか! きさまがわが青都をかように!」
「これはまた、聞き苦しいかぎりの罵詈雑言」
 アインデッドは陽気にマントを翻しながら叫び返す。リールの顔は愛する都を踏みにじられる痛みと怒り、そして悔しさにゆがみ、真っ赤になっていた。アインデッドは顔にまでしぶいた血に顔を赤く染め、その凄愴なおもてにわざと彼女の怒りを誘うかのようなあざ笑いを浮かべた。
 彩るものは同じ赤でありながら、二人の形相は全く逆とさえ言ってよかった。
「女の身なれば女らしく、泣きながら宮殿の奥に隠れていろ。武士ならば舌先三寸ではなく剣で戦え」
「望む所!」
 たちまちリールは女にあるまじき大だんびらの剣を抜き放ち、たくましいその両腕に縄のような筋肉を盛り上がらせ、火のような怒りを吐きちらしながらアインデッド目掛けて殺到した。
 覚えずその勢いに両軍の精鋭、旗本たちも道を空けた――というよりも正直のところ、リールの武名に恐れをなしたため、と言うよりは、噂に高い醜女リールと新しい中原の英雄たるアインデッドの一騎打ちの光景を思わず期待した、というのが本当だったかもしれない。
 リールの小さな、瞋恚と激昂に狂おしく燃える目と、アインデッドのぎらぎらと輝く物騒な目が激しくぶつかりあった。リールの目がアインデッドのまだ若い、美しい顔をとらえた――本来の彼女であれば、強くてしかも美貌を誇るこのような男にいちだんと興味をそそられたかもしれない――だがいま、その若い美獣は彼女の何ものにもかえがたく愛するふるさとを踏みにじる怪物となって彼女の都に襲い掛かってきたのだ。
「おのれ!」
 リールの吐く息が炎となった。
「おのれ、野盗! 誇りあるペルジア公女の手にかかることをせめての慰みとせよ!」
 馬と馬が駆け抜けざま、リールの剣が凄まじい勢いで振り下ろされる――刹那、アインデッドの剣がそれを受け止めて火花を散らす。
 思わず、両軍の精鋭たちは剣を引き、馬の手綱を引いて両雄の激突に見とれた。
「おっと……」
 アインデッドはかすかに感嘆の声を漏らした。軽く受け流すつもりであったが、リールの猛烈な剣打を受け止めた腕はまだしびれるようだった。もう一度しっかりと剣を握りなおし、ぞっとしない表情の顔をリールに見られないように伏せて、アインデッドはつぶやいた。
「こいつ、本当に女か。なるほど、何だかんだと世間の噂にのぼるだけのことはあるじゃねえか」
「痴れ者!」
 かけちがった馬の首をめぐらし、再びリールがアインデッド目掛けて殺到する。剣が再び振りかぶられる。
「おおっと、大したもんだぜ。この女――凄え凄え」
 アインデッドの口もとにあやしい嘲笑が浮かんでいた。確かにリールの膂力も剣技も女離れしていると言っていい。
 だがそこはアインデッドとてもおのれの技一つを頼みに乱世を生き抜いてきた傭兵、『災いを呼ぶ男』である。めったなことではどのような相手にもひけをとるようなことはない――おそらくは、あまりに圧倒的にウェイトの違う相手以外には、負けるわけはない――というすさまじい自信――あまたの戦場を戦い抜き、生き抜いてきたものだけの持つ激烈な自負がある。
 まして女に後ろを見せるつもりはない。もっとも、最初の一撃を受けて以来、たかが女――と侮る気持ちは実はきれいにアインデッドの中から消えていた。そのようなつまらない侮りに溺れて後手をひくのもまた、彼のしたたかな生存のための技術にとってはごく愚かしいことなのだ。
 だが、おもてに見せた顔は嘲笑に満ちていた。それがいっそうリールを激昂させ、逆上させることもちゃんと計算に入れているのだ。
「来い、女!」
 アインデッドは挑発した。
「何を言うにも女のことだからな。苦しまないよう、一撃であの世に送ってやるぜ。中原の新しい英雄に切られて死ぬことをせめての慰みに思え、女悪魔」
「言うな、下郎!」
 リールは逆上した。やにわに、しゃにむに剣を左右になぎながら突進する。それをアインデッドはちゃんと計算していた。馬の鞍の上にさっと身を伏せて振り回される刃をやり過ごすなり、一気に身をかがめてリールの馬の足を薙いだ。
 エトルリアの軍馬のように足にまで鉄の馬具をつけて守っている装備はペルジア軍にはない。たちまち、リールの馬が哀しい悲鳴を上げてどうと足を切り飛ばされて倒れこむ――血が吹きだす。
 リールはたちまち、その体のわりには敏捷に身をひるがえして馬から飛び下りた。それを追ってアインデッドもひらりと飛び下りた。ついで、地上で振り回すには少々長すぎる両手剣を手放し、まだ血に濡れもやらぬ腰の大剣を抜き放った。
「おのれ! この、悪魔め――サライルの生まれ変わりめ!」
 リールは地面に飛び降りた拍子に石畳に突き立って折れてしまったおのれの剣を投げ捨てた。駆け寄って替えの剣を差し出す旗本兵から剣をひったくるなりアインデッド目掛けて躍りかかる。アインデッドは得たりや応と受け止める。背は文句なくアインデッドの方が長身だが、横は正直、リールの方が相当ごつい。鎧をつけていてもアインデッドのほっそりした体つきはリールより非力に見える。
「この、若造が! 生意気な、栄えある公都を!」
 リールはその体格の差を見て取ったに違いない。おのれの鍛えぬいた体力と体格にも充分自信がある。トティラに鍛えぬかれ、その右腕、後継者とまで言われた戦士なのである。見掛け倒しのなみの女戦士とはわけが違う――その自負に満ちている。組めばこちらのものだとばかりにおめいて剣を振りかぶって突進した。
 アインデッドはにやりと笑った――彼は彼で、おのれのほっそりした体格に人々がたびたび騙されて、のんでかかってあっさりと敗れるのに慣れている。リールの攻撃を受け止めざま、その首を一気にはねてやろうとぐっと剣を握り締め、右手を後ろに引き、半身になってリールの突進を待ち構えた。
 両軍――そして負傷の痛みにうめきながらイズラルの石畳に倒れていたけが人たちまでがはっと息を止めた。
 その時だった。
「アインデッド! その剣をひけ。ひくんだ!」
 凄まじい叫びが人々を石像と凍りつかせたのは。


(2011.8.30)

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