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 わああ――わああ――
 すでにイズラルは激烈な戦いの渦中に巻き込まれていた。
 アルドゥインが単身、後ろにおのれが副官たるセリュンジェさえも置き去りにしてイズラルの市街に突入した時、すでにアインデッドの率いる五千のラトキア軍はリール公女率いる、数では圧倒的に勝るはずのペルジア正規軍の一部を郊外のスーサで蹴散らして、そのままリール軍の本隊を求めて市中へとやはり突入した所だったのである。
 あちこちの建物から火の手が上がっている。
 アインデッド軍はただ軍隊を相手に戦うばかりではなく、手当たりしだいに家々に火を放ち、一般市民をも容赦なく切り捨て、女子供でさえも一刀の下に切り倒しながら碧玉宮を目指していたのだ。イズラルの市民たちにとってもこれは寝耳に水に近いくらい突然の市街戦であった。
 むろん、ラトキア軍が迫っていることも知っているし、ペルジア正規軍がそれを迎え撃つか、それとも首都防衛に立てこもるか連日ぐだぐだと碧玉宮で会議が繰り返されて、いっこうにどうにもならない、くらいのことは市民たちにももう情報がいっている。
 それゆえ、目端の利くものは女子供や老人、病人などを郊外に避難させてはいた。しかし今回、ペルジアはナーディル公子の後ろ盾となってラトキアを手に入れようとしていたということはあるにはあるが、その元凶であるナーディル公子と、アダブル大公にその口添えをしたアクティバルを引き渡してしまいさえすれば問題は解決し、ラトキアと戦う理由は全くなくなるということも市民たちにはわかっている。首都まで敵軍が迫らぬうちに、どちらかから和平の交渉になるだろう、という見通しがあった。
 それに、敵はゼア、ヒダーバードの二方向から迫っている。郊外に避難するにもどうやら無事なのは西のナラと北のゲネインの方角ばかりである。とはいえ北ではエトルリアに近い。残る西の方面にゆかりのない市民などにとっては、おいそれと避難もし辛い状況にある。
(それに、しょせんラトキアなのだから)
(いくらなんでも首都決戦になるまで戦うわけもないだろうし……)
(トティラ将軍が仲裁に入っているそうだし、戦争にはならんだろう。少なくともイズラルの市街が戦場になるようなことはまずあるまい)
 市民たちはたかをくくっていた所もあったかもしれない――それにそもそも、そのように考えてぐずぐずして好機を逸するのがペルジアの老弊であったかもしれない。
 そこへ、なだれ込んできたラトキア兵は、若く、精悍で、しかも情け容赦もあったものではなかった。
「やめて――やめて!」
「鬼! 悪魔!」
「助けてぇ。誰か助けてえ!」
 逃げ惑う女子供、赤ん坊を抱きしめてまろび逃げる女、うろたえ騒ぐ老人たちの上にも容赦ない刃が振り下ろされ、蹄が迫った。それは一つには、アインデッドの作戦でもあった。アインデッドは普段は一般市民には被害を出したくないと言いつつも、必要とあらばどれだけでも、誰にでも、徹底して冷酷になれた。
 家に火をかけられ、突然に切りたてられて動転し、完全に我を失って路上に逃げ惑って出てくる一般市民は数で勝るペルジア正規軍の行動の邪魔になる。ラトキア軍には容赦するいわれはない。女だろうと、老人だろうと、両手を合わせて拝まれようとも容赦なく切り捨ててゆく。
 それゆえ市民たちはラトキアのその禍々しい鎧兜と旗印を見るなり狂乱して逃げ回り、助けてくれとペルジア兵にとりすがり、ただでさえ狭い市街の路上で騎士たちの隊列をかき乱す。だが、ペルジア軍にとっては我が同胞、本来守るべき女子供である。それを邪魔だとて押しのけたり、切り捨てたりするわけにはいかないのだ。
「どけ。どくんだ」
「邪魔だ。馬の前に立ちはだかるな。危ない」
「助けて。助けて」
「後生です。お願いです。守ってください!」
「危ないっ……どいてくれ、頼む」
 半狂乱の市民たちに取りすがられ、動きの取れないペルジア軍に、喚き声を上げてラトキア兵が切りかかってくる。たちまち混乱は混乱を呼び、ラトキア兵はそれに乗じて彼らの圧倒的な数の違いなど歯牙にもかけず、凄まじい勢いでどんどん攻め込む。あちこちから火の手が上がるに連れて、ペルジア軍のいちじるしい混乱状態はひどくなるばかりであった。
「助けて! 助けて!」
「どけ、どくんだ。……これでは戦えん」
 全てがアインデッドのなかば本能的にその野獣のような勘によって読んだとおりになっている。いまやイズラルの中心部はたった五千のラトキア兵のために撹乱され、大混乱に陥ってまともな応戦は不可能に近くなりつつある。
「リール様に――公女殿下に……伝令を……」
 この状態を何とか打破しなくてはと必死に振り絞る隊長たちの声も、市民の悲鳴と怒号にかき消され、走り出そうとする伝令は逃げまどう老若男女の群れに妨げられて、碧玉宮にゆきつくこともできない。動きが取れないのだ。
「わあああっ……」
「悪魔だ。ラトキア軍は、悪魔だ……」
 泣き叫びながら切り下げられて血煙を上げながら倒れていく男女。
 火の手をあげて燃え上がっていく繁華街の豪華な屋敷。
 むろん、広いイズラルの都を五千の兵で全て略奪しつくせるわけもなく、実際にラトキア軍の暴虐の刃にさらされているのは中心部のごく一部に過ぎない――それと、不運にも郊外の戦場から碧玉宮目指して突撃するラトキア軍の進路にまともに当たってしまった幾つかの町々とだ。だが、そこで起こっている阿鼻叫喚のすさまじさと、もくもくと次々とあがる黒い煙と火の手とが、中心部から外に向かって確実に狂乱と恐怖の波を波及させつつある。
「わああっ――ペルジア軍だ!」
 逃げまどいながら泣き叫んでいた市民たちの間から喝采が起こる――新手のペルジア軍が必死に防戦のために戦場と化している市街に駆けつけたのだ。だが、
「ああ――」
「ラトキアの援軍だ!」
「ラトキア軍が、もっと増えた! 我々は全滅だ!」
 その頃までには、アインデッドの率いてイズラルへ駆けいった旗本隊の精鋭五千だけでなく、ルカディウス率いる残るラトキア兵、不気味な鋲を打ったごつい鎧のエトルリア兵が隊列を組んで青都の広い都大路を駆け抜けていくのを見て、気を失って倒れる女、全ての望みを失って狂ったよう橋から身を投げる男、泣き叫びながら逃げる気力も失ってへたり込む老人――それらの人々でいよいよ路上はふさがれ、もう身動きも取れない。
「イズラル最後の日だ……」
 誰かが絶望に駆られて絶叫した。たちまちその叫びは市街に広がっていった。
「ペルジアは滅亡するんだ……」
「イズラルは滅びる」
「ああ、俺たちは皆ラトキア軍に殺されてしまうんだ。皆殺しだ」
「助けて……お慈悲を。ヤナスのお慈悲を」
「ああ……」
 座り込んで頭に砂をかけ、布を被って恐怖と絶望に泣き叫ぶ市民たちの間を、なおも必死に防戦しようと痛ましくあがくペルジア軍が何とかすり抜けようとするが、そうするいとまもなくラトキア軍が殺到してくる。ラトキア軍はいよいよ求めた最後の戦場、そして本当の獲物に踊りかかった野獣であった。
 そして、その先頭には常に恐るべき若い狼のような姿がある。
 漆黒の――だが今は半ば以上返り血で染められて、炎に照らされて不気味に赤黒く輝くマントと鎧。その上に華麗にたなびいている血よりも赤い髪。美しく不吉な死の女神を思わせる若い顔、ぎらぎらと血に飢えて光る情けを知らぬ双眸。
 ふりかぶる大剣がひらめくとき、確実にその下に血煙が上がり、絶叫が起こる。
「アインデッド――ああ、アインデッド……」
「ラトキアの狼……」
 それはまさに、イズラルの悪夢であった。
 馬を駆り立て、死骸の山をおどり越えながら突き進んでゆく若く禍々しい英雄の姿は死と残虐と、そして流血の象徴のようにペルジアの人々の目に焼きつき、燃え上がる青都イズラルを背景に暴虐の剣を振るう恐ろしいありさまは死神それ自体としていつまでも人々の心を脅かすだろうと思われた。
「たすけて――助けてぇ」
「ああ――アインデッド――悪魔の使いだ……」
 中には、ウジャスの呪いだ、これはゼーア皇帝をないがしろにしたためにペルジアにかけられた呪いなのだとなかば気が狂って口走るものもある。
 それはもう、戦いとはほとんど言えなかった。市民たちの群れに妨げられ、隊列を組むこともできぬペルジア正規軍はすでにまともな応戦もできないまま、辛うじて隊長たちの判断によって何とか態勢を立て直すべく、リール公女のもとに撤退しようとしはじめていた。
 ――つまり、もはやこのままではどうにもならぬと見て取って、ペルジア正規軍は彼らの守るべき市民たちを見捨て始めたのだ。
「ひけ! 退け! これ以上ここで無駄な損害を出すな! いったん大公広場へ集結せよ!」
「大公広場で陣容を立て直せ! リール公女のもとに集結せよ!」
「市民どもにかまうな。退くんだ」
 正規軍が無常にも守るべき市民を見捨てて態勢を立て直そうとしている、と見て取って市民たちは逆上した。このままここに捨て置かれたら、ラトキア軍の恐るべき略奪と虐殺にさらされていくだけなのだ。
「助けて、助けて!」
「行かないで――おいていかないで!」
「碧玉宮へ――碧玉宮へ!」
 市民たちもいまや身を守るには王宮に最後の庇護を求めるしかないとばかり、雪崩を打って碧玉宮前の大公広場を目指しはじめた。それがさらにペルジア軍の撤退を妨げたのは言うまでもない。
 混乱に陥った群衆ほどに軍隊の行動にとって邪魔になるものはない。その上に、群衆のパニックが軍隊にも及んできて、兵たちを浮き足立たせる。隊伍を組みなおして応戦するために撤退しているはずが、いつのまにか、金切り声の悲鳴を上げながら逃げ回る市民たちの高ぶりや恐怖に巻き込まれて、まるで敗走している軍隊ででもあるかのような恐慌に次第に囚われていくのだ。
「わあーっ!」
「アインデッドの軍だ!」
「殺される! 殺されるーッ!」
「助けてえ! 助けてえ!」
 人々の悲鳴の中に懸命になって叱咤し、規律を維持しようとありったけの声で命令を怒鳴りまくる隊長たちの金切り声も瞬く間に飲まれていってしまう。それへ向けて、また容赦なく油断のないラトキア軍の精鋭たちが恐ろしい叫び声をあげて突進していくと、わーっと凄まじい悲鳴とともに群衆は四方へ逃げ散ろうともがき、それゆえにますますパニックにおちいってゆくのだった。
 運悪く足を取られて転んだものは二度と起き上がれぬままに、味方の軍勢や同胞の足にかけられて踏み殺された。その死骸に足を取られてまた転び、またそれに続いての犠牲者になっていくものも数知れない。いまや、イズラルのあれほど華やかにかつての栄華の名残をとどめていた中心市街は地獄の様相を呈していた。
 負傷者の悲鳴やうめき――兵士たちの雄叫び――そして馬のひづめの入り乱れる音とともに打ち下ろされる剣が剣や鎧に当たってたてるけたたましい金属音。
「アインデッドだ! アインデッドだ!」
「アインデッド――」
 人々のその叫びの中で、アインデッド、という名は悪魔そのもの、死神それ自体のあだ名と化していくかのようだった。
「ラトキア――ラトキア!」
 ラトキア兵たちの怒号に、
「アインデッド!」
 という叫びが入り混じる。恐慌と恐怖につかれた叫びだった。


2011.5.20

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