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     そのかんばせは
     月の輝く夜よりも清けく
     いかなる花よりも美しい
     されどその心は
     燃え盛る炎のように抑えがたく
     吹き荒れる嵐のように激しい
     まこと彼は
     戦を求め戦に生きる戦神の子であった
            ――アインデッドのサーガ



     第二楽章 クーラント――疾駆と追走


「閣下」
 城門の下から、伝令の騎士が呼びかけた。夜はまだ明けもやらぬ、真夜中のゼア砦である。ゼアでの戦闘は終わったものの、イズラルからの兵が来ないとも限らない。見張りは怠らないが、兵士たちは明日からの行動に備えてほとんどが休息を取っている。
「何だ?」
「ルカディウス参謀がお目通りを願いたいと仰っておられます」
「ルカディウスだと?」
 アインデッドはちょっと嫌な顔をした。
「いつのまに来たんだ? 何だって、そんなことは明日にしとかねえんだ」
 彼の剣呑な調子に、その騎士はたじろいだようであった。
「ご到着はつい先程のことでございます。その、ルカディウス参謀が……閣下に至急お耳に入れたいことがあるのだと仰せられましたので……」
「ああ、そうか」
 それ以上不機嫌にも上機嫌にもならず、アインデッドはおざなりな返事をして、城門から下りた。ルカディウスの至急と言うのも、その重要度はいろいろあるが、この場合は多分かなり重大な方に属するだろう。それを思えばルカディウスの行動は何を思っていたにしろ外れではなかった。
「ということはランも一緒か」
「いいえ、ラン様はこちらには。しかしすでに追いかけてきているとのことです」
「いねえにこしたことはないんだがな」
 アインデッドはこっそり呟いた。


 そして――
「閣下、閣下!」
 当直の騎士の声が、朝まだきの天幕の間を響きわたっていった。うす青い煙が幾筋もいまだ天に向かい立ちのぼってはいるが、全ての火は消え、静寂を取り戻したヒダーバードの朝である。
「どうした」
 もうすっかり軍装を整えて出てきたのは、白銀のよろいかぶとを身につけた、丈高く若い沿海州人だった。
「ご報告申し上げます。ただいま街道筋に出ております偵察部隊からの報告によりまして、アインデッド将軍率いるラトキア‐エトルリア連合軍がゼアよりすでに出立、イズラルを目指しているとの情報が入っております」
「アインデッドが?」
 アルドゥインは目を細めた。
「ずいぶんと逸ったものだな」
「御意」
「おそらくは気の短い彼のことだ、戦闘後の処理も待ちきれなかったとみえるな。仕方がないな――ことが大きくなる前に、我々が納められればいいのだが」
 アルドゥインが困ったような、それでもアインデッドに対する好意を隠さない様子で苦笑している所へ、もう一人の伝令が駆け込んできた。
「アルドゥイン閣下、青白の斜め格子の旗印を立てた一隊が交渉希望旗を掲げてこちらに参ります!」
 それは見まごうこともなく、ペルジアの誇る世界屈指の猛将トティラ将軍の旗印であろう。アインデッドの動きを知って、こちらに向かってきたものだろう。
「よかろう。ラトキア軍の行動に対し我々ができることがどれほどあるか判らないが、アインデッドが何も言ってこなかったということは、この場は俺に任せるということだろう。丁重にお迎えしろ」
「はっ」
 一礼して、騎士が去ってゆく。先触れと思われるペルジア兵がアルドゥインの天幕まで案内されてきて、そこに膝をついた。
「親書の内容、あらためて交渉いたしたく、トティラ将軍が参っておられます。なれど将軍は病あつき身にて、しからば貴殿にご足労を願いたし」
 アルドゥインは一応確かめておくことにした。
「親書――とは、アインデッド将軍からのものだろう。そちらとの交渉は? ナーディル公子を後押しする貴国とことを構えているのは俺ではなく、彼だ。まずゼアに参られるが道理かと思われるが、なにゆえ我らに交渉を?」
「それは、ゼアよりアインデッド将軍率いるラトキア軍がいずこかに消え失せていること、そのこともトティラ将軍にご釈明いただきたく……」
「――用向きは承った。いかにも、参ろう」
 アルドゥインは諦めて答えた。ペルジア軍の情報網はアインデッドに完全に押さえられてしまっているらしい。これだけイズラルの近くにありながら、しかもイズラルを目指しているのにもかかわらず、ペルジア宮廷が全くアインデッド軍の動向を知らないというのも色々な意味で恐ろしいことだった。
 準備と言うほどのものもなく、そのまま馬にまたがり、アルドゥインと数十名の精鋭のみが、紅玉騎士団の団旗と、使者の白旗を押し立てて本陣を離れていく。
 トティラ将軍の一行は、すでに下馬し、武装解除のさまを見せつつ整列してアルドゥインの到着を遠くから見守っていた。ペルジア兵が先に馬から下りてアルドゥインの到着を告げると、かすかなざわめきが起こる。
「アルドゥイン将軍、こちらへ」
 ペルジア兵の騎士数名に案内されて、アルドゥインはおのれの一行をペルジア軍からの使者たちと向かい合う形に整列させたまま、馬から下りて、騎士たちに守られる形で静止している輿に向かった。
「将軍、アルドゥイン閣下がおでましになられました」
 輿のかたわらに付き添っている騎士が声をかけると、ゆっくりと輿の窓が開いた。
「おお、アルドゥイン殿」
 しわがれた声がかけられる。瞬間、思わずセリュンジェは目を疑った。
(こ……これがあの英雄の姿だというのか)
 一年半前、アルドゥインと相対して戦った人の姿ではない。替え玉ででもありはせぬか――と思うような、あまりの変わりようだった。
 ペルジアの英雄は見る影もなくやつれ、老い果てていた。あれほど頑強に、雄牛のように逞しかったその巨躯は、その骨格を残したままげっそりと痩せ、その体を分厚いガウンに包み込んで辛うじて隠している。
 以前のような威風辺りを払うような様子は全く見られなくなっていた。彼はまだ老人と言うには早すぎるほどの年齢であったが、この一年で、十年、いや二十年も年を取ってしまったようだった。
「ア――アルドゥイン殿。アルドゥイン将軍」
 そのトティラの、これまた肉が落ちてげっそりと骨が浮きあがり、いたいたしく老醜のしみが浮いた大きな手が、弱々しく輿の中から差し延べられた。
「久しい……な。一別以来であったか」
「ええ。……わがペルジア遠征のみぎりより」
 アルドゥインは輿のそばにより、その老いた手をしっかりと浅黒く力強い手にとらえた。彼の手の中にあって、トティラの手はさらに痩せ枯れて見えた。トティラの落ち窪んだ目がアルドゥインを見た。
「驚かれたか――? 笑ってやってくれい、アルドゥイン殿。ペルジアにこの人ありとまで言われたトティラのこのざまを。医師どもの申すことには、今の医術ではとうてい治らぬ病らしい。だからわしは諦めておる。もともとの頑強さでまだ生きているようなものだからな。わしの体で何が起こっているのやら、今は風邪一つからも身を守れぬ。最初は、過労か何かだと思うていたのだが、何日、何ヶ月経っても快癒するどころか、しだいに悪化し、さいごにはおのれの力で動くこともままならなくなってしまった。は、は……ざまはないの」
「トティラ将軍――」
「何もおぬしのせいではないのだぞ。おぬしから受けた傷がすっかり癒えた後に起きた病だ。そのようにあわれがることはない」
 トティラは笑った。むしろその笑いはおのれの死期を悟って清々しかった。
「わしはもう、長くはないよ。それはそれでよい。しょせんはペルジアの人間――今となってはこの傾いたペルジア宮廷と運命を共にするしかない人間だからな。ペルジアの哀れな末路を見ることなく死ねると言うのは望外の幸福と言えるのかも知れぬ」
 死期を悟った英雄というものは、このように全ての禁忌を失ってあっけらかんと物事を語るものであるのか――と、セリュンジェがひそかに首を縮めたほど、トティラの言葉は飄々としていた。
「そのようなお言葉――いかな病とて、いずれ癒え申す。きっと、いまにまた――」
「アルドゥイン。おぬしの心遣い、まことにかたじけない。わしは今日、おぬしをあざむいた――わしは、アダブル大公の意を汲んでやってきたのではない」
「そのことは、うすうす気づいておりました」
 アルドゥインは静かに答えた。
「病篤いはずの将軍が、このようにしてまでお出ましになるとは思っておりませんでしたし……いくらアダブル大公閣下でも、あなたにそのような無理をさせるはずがございませんでしょうし」
「誰も彼もが優柔不断な国なのでな、ペルジアというのは」
 トティラはまた笑った。今度は自嘲するような響きのある声だった。
「アダブル大公は、かのナーディル公子をペルジアの傀儡にと考えられているようだし、リール公女はペルジアの今の国力もかえりみずに、手当たりしだいに敵軍を壊滅させよと怒鳴りまくるばかり。かといってメーミア公女もセリージャ公女も我関せず。アルドゥイン、わしもな、このような体になって初めて判ったのだが、このたびばかりはペルジアというこの国家――いや、この現在の宮廷のあまりの腐れ果てよう、駄目さかげんに、ほとほと愛想が尽きた思いであったよ」
「……」
「が、ともかくもそれでわしが駆り出されたというわけなのだ。だが病の身をおして軍議に出てみれば、またしても興奮して怒鳴りまくるリール公女と、訳の分からぬことを口走るばかりの大公、おろおろしてしまいには居眠りでごまかそうとする宰相、右往左往する馬鹿ども」
 トティラはうんざりしたように歯をむいて笑った。
「そのようなどうもこうもならぬ連中が大騒ぎを繰り広げているだけだ。リール公女ががむしゃらに出兵の支度をしていることもわかっていたので、少なくとも、間違ってもリール公女がラトキア軍なりエトルリア軍あいてに戦端を開いてしまうことがないよう、この老病躯に鞭打ってかけつけてきたのだ。
 アルドゥイン――わしにはわかっておる。というよりも、今のペルジアではもうこの身動きままならぬわしにしか、物事はわからなくなってしまったのだ。わしには判る。今のペルジアを野望といくさへの渇望、血に飢えた欲求に燃えるラトキアとエトルリアの蹂躙から救い出すことができるのはおぬししかいないと。
 このような腐れてどうにもならなくなった国家、いっぺん滅び去ってみるのもこの国のためかも知れぬとさえ思わぬでもないが、そうも言っておられぬ。このわしの苦しき願いを聞いてくれ。ペルジアを救ってやってほしいのだ。狼たるラトキアとエトルリアに鎖をつけ、引き戻し、その牙がイズラルに襲い掛からぬようにしてほしいのだ」
「トティラ将軍――」
 アルドゥインはいくぶん困惑した様子で、この病人の言葉を聞いていた。
 しばらく、トティラ将軍はアルドゥインの手を握り返したまま、うつむいて黙っているようだった。アルドゥインもどう話を切り出したものかと考えあぐねているようだったが、やがて大きく頷いた。
「たしかに――俺の読みが甘かったのです。ラトキアは復活間もなき混乱から完全には回復しておらず、またエトルリアも対ラトキアの紛争で受けた痛手からはすっかり回復したわけではないゆえ、この内乱もナーディル公子たち首謀者を取り返せばそれで終わると。そう信じていた。俺が読みきれなかったことにあります――ラトキアの、というよりも、モリダニアのルカディウスの野望と焦慮、そして一歩もおくれをとるまいとするエトルリアの焦りとを」
「モリダニアのルカディウス」
 トティラはうなるように呟いた。
「この頃、妙にむやみと聞かされる名だ。――そして妙に、何も知識がないにもかかわらず、不吉な響きを帯びた名に感じられる名でもある。……おぬしはそのルカディウスと会ったのか」
「クーナウ近辺の、軍議で」
「どのような男だ」
「サライル――にしては風采が上がらぬようですが」
 アルドゥインにしてはずいぶんと痛烈な言い方であった。
「根性はサライルにも勝り劣りなきところがあるように見受けられた。――もしラトキアの遠征軍がアインデッドのみに率いられているのならば、俺にせよご病身のトティラ将軍のおいでをわずらわすことなく、しかるべく彼がはからったと思うのだが、あの男がいるということが――またそのルカディウスがエトルリアのラン公子とともに北上してくる、というのが気になる」
「おぬしがそういうからには、アルドゥイン」
 トティラはだいぶ疲れてきたらしく、苦しげに息をついた。
「そやつは今に中原の災厄になるような、できうれば今のうちに叩き切っておいたほうがよいような男なのだろうな。どうもこの期に及んでゼーアにも、その腐肉にたかるグールどもが忍び寄ってきた、というわけか」
「おそらくは」
「わしがこのような死も間もない体でさえなくば、何はともあれ叩き切って中原全体の災いを除いていってやるのだが。――死が間近であろうとなかろうと、この体が自由に動きさえすれば」
 口惜しげに握りしめた手を見つめながらトティラは言い、それからアルドゥインに視線を戻した。
「……おぬしはそうせんだろう、アルドゥイン。いや、できぬだろう」
 それに対して、アルドゥインははじめ小さく首を傾げただけだった。



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