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 エレックたちから、リュアミルは本丸の塔のどこかに幽閉されているということは聞きだしていた。だが、それが何階のどの部屋であるかまでは、ルノーしか知らないことだった。アルドゥインは一つ一つの部屋を開けて確かめていった。
 一階を全て調べ終わった頃には、息が荒くなり、汗が額ににじみはじめていた。まだ戦闘は続くかもしれないが、最上階まで調べる前に疲れ果ててしまってはどうにもならない。階段を見上げたアルドゥインは、鎧をその場に脱ぎ捨てた。身軽になると、彼は再び身をひるがえして階段を駆け上がっていった。
 ほとんどの部屋は鍵がかかっておらず、開けてすぐにそこが無人であることが判った。鍵のかかった部屋も、扉を破って調べたが、どこにもリュアミルの姿は見当たらない。そうして、とうとう残すところは最上階だけになった。最上階には、扉のある部屋は一つしかなかった。
 これが最後のドアだった。
(頼む、間に合ってくれ!)
 蹴破るほどの勢いで開けた扉の向こうに、彼が捜し求め続けてきたその人の姿があった。二旬にも満たない期間であったのに、幽閉され、辛酸をなめてきた間にすっかり痩せてしまった体は、粗末な綿の白いドレスのせいで幽霊のように頼りなく見えた。
 窓辺に立っていたリュアミルは、物音に驚いてこちらを振り返った。その瞳が信じられないというように大きく見開かれ、乾いた唇がゆっくりと動いた。
「アルドゥイン……」
 それから何かを振り切るような激しさで、彼女は手に握りしめていたものを口許に近づけて、喉を反らせようとした。その意味するところを察するよりも早く、アルドゥインの体は本能的に動いてリュアミルに駆け寄っていた。
「リュアミル殿下!」
 いままさに中身をあおろうと、緑色の小瓶を握りしめたリュアミルの両手を、間一髪でアルドゥインの一回り大きな掌が包んで止めた。力を入れすぎないように気をつけてはいたが、どんなに抵抗してもリュアミルの手はびくとも動かなかった。
「離して。死なせて下さい、アルドゥイン」
 激しくかぶりを振りながら、リュアミルは叫んだ。やつれた頬に幾筋も涙が伝い、流れていった。かぼそく痩せてしまった体も手も、アルドゥインの腕の中ではまるで子供のように華奢だった。
 両手首の擦り傷は縛られたためにできたものだろう。ルノーはリュアミルの一方の手首を縄でベッドの枠に縛り付け、腕を伸ばしても届かない位置に毒薬の壜を置いていたらしい。それを解くために彼女がどれだけの時間を費やしたのかは判らないが、指先は皮膚が破れて血がにじみ、爪の間には縄の繊維が詰まっていた。殴られて腫れた頬、切れた唇や顔のあざに、アルドゥインの胸には改めて怒りがこみあげてきた。
「離して」
 うつむき、嗚咽の合間にリュアミルが言った。
「私は汚されました。もうメビウスには戻れない。戻ったとしても父の子と呼ばれる資格も、メビウスの皇女たる資格もありません。それならいっそ死んだほうがいい。皇女の誇りを失って生きるくらいなら、皇女であった誇りを持ったまま死なせて!」
「だめです、姫!」
 アルドゥインは叱りつけるように言った。
「そんな――そんなことはあなたのせいではない! あなたは被害者であって、責められるべきではない。だから、そんなご自分を責めるようなことを言わないでください。陛下も姫のご無事を信じて待っておられるのですよ? だから、死のうなどと、そんなことを思わないでください!」
「私に、生きろと言うのですか」
 リュアミルは涙で濡れた顔を上げた。
「私は……私は、もうメビウス皇女ではありません。ただの汚れた、みじめな一人の女にすぎない。そんな私に何の価値があるのです? 何のために生きろというのです? こんな汚れた娘が帰っても、父上も心から喜べはしないでしょう。あなただって、こんな女を妻にしたくはないはず。隠しても判っています、アルドゥイン。父上は、私の生死には関わらずあの男を捕らえよと――弔い合戦のつもりで戦えと命じたはずです」
「殿下……」
 痛々しいリュアミルの言葉は確かに真実であったので、アルドゥインは一瞬言葉に詰まった。
「父上が望んでもおらず、戻ったとしても、民も貴族たちも、私を軽蔑する。かどわかされ、汚された女帝になど、誰が心から従うでしょう? 私はもう充分すぎるほど傷つきました」
「……」
「それでもまた、あの茨の中に戻れとあなたは言うのですか? 何のために?」
「俺のために!」
 その声は自分で思っていたよりも大きく響いた。ずっと彼の手の中で抵抗していたリュアミルの腕の力が、ふっと緩んだ。握り締められていた小瓶が指からすり抜けて落ちた。石の床に落ちた瓶は粉々に砕けて、どろりとした黒っぽい液体が流れ出したが、どちらもそれに目をくれることはなかった。リュアミルの乾いた唇が小さく動いて、かすかな呟くような声を漏らした。
「アルドゥイン……」
「俺のために生きてください、リュアミル殿下」
 アルドゥインの瞳が、リュアミルの視線を正面からとらえた。リュアミルはその闇の色を、呆然と見詰めていた。
「俺がいます。メビウスの為に生きられないというのなら、俺の為に生きてください。もし殿下がメビウスに戻りたくないのなら、殿下の望むところへお連れします。でも、どこであろうと、殿下を傷つけるもの全てから俺が守ります。俺があなたの剣にも、盾にもなります。もう二度と、誰にもあなたを傷つけさせない。だから――あなたのために生きる俺のために、生きてください」
 苦しそうに、アルドゥインは顔を歪めた。
「それとも、俺ではあなたを引き止める力にはなれないのですか?」
「違うわ、アルドゥイン……でも私は……」
「死ぬと仰せならば、俺もお供いたします」
 リュアミルは引きつった笑顔を浮かべた。涙は止まっていたが、まだ泣き濡れた瞳のままだった。
「もう、剣の誓いに縛られる必要などありません、アルドゥイン。私はメビウス皇女ではないのだし、あなたの婚約者である資格もない」
「いいえ!」
 アルドゥインも同じくらい頑固に首を振った。
「あなたを一人で逝かせはしない」
 言うなり、アルドゥインはリュアミルの手を離し、腰のベルトに挟んである短剣を抜き放った。そしてその柄をリュアミルの手に握らせ、切っ先を自分のむき出しの喉元に触れさせた。
「何をするの、アルドゥイン。やめなさい」
 アルドゥインは慌てて剣を引こうとするリュアミルの手首をしっかりと捕らえた。彼女の言葉に押し被せるように言う。
「あなたを守りきることのできなかった俺が、こんな事を言うのはおこがましいかもしれない。けれど、死出の旅路をあなた一人で辿らせるようなことはしない。俺の剣は、初めて出逢ったあの時からずっとあなたのものだ。それは、たとえあなたが誰であろうと、どうなろうと変わらない。いや、剣の誓いがなくても変わらない。愛しています。あなたがいなくては、俺が生きている意味もない」
 そう言って、アルドゥインはさらに手を近づけさせた。鋭い刃先が柔らかい喉の皮膚に食い込み、細く血が流れ始めた。
「どうして、私のためにそこまでするのです?」
 リュアミルの目に、新たな涙が盛り上がってきた。
「私にはもう何の価値もありません。わ……私の体は、あの男に……」
「そんなことは、どうでもいい。今この場所で生きている、今のあなた――それだけが俺にとっての全てだ」
 アルドゥインはきっぱりと告げた。二人の間に、わずかな静寂が流れた。部下の誰一人として駆け上ってこなかったし、城砦を包みはじめているだろう炎の音も、彼らのいる塔には聞こえなかった。
 その静寂を破ったのは、リュアミルだった。
「本当に、守ってくれますか」
「はい」
 アルドゥインは厳かに答えた。
「本当に、ずっと?」
「命の果てるまで――死しても」
「私だけを?」
「はい」
 リュアミルはかすかにうなだれて、目を伏せた。睫毛の間から、哀しみとは別の涙の粒が零れ落ちる。アルドゥインがそっと手を離して、短剣を元のように鞘に収めてベルトに落とした。
「あなたが助けに来てくれると、ずっと信じていました」
 小さな声でリュアミルは呟いた。
「信じたとおり、あなたは来てくれた。もう無いと思っていた命を、あなたが救ってくれた。だから私の命はあなたのものです、アルドゥイン。あなたが生きろと望むのなら、私は生きましょう」
 かすかに、彼女は微笑んでみせた。
 ふらつくリュアミルの肩を支えてアルドゥインは部屋を出た。階段の手前まで来た時、ヤシャルが階段の下でこちらを見上げたのが見えた。アルドゥインとリュアミルの姿を認めて、ヤシャルがほっとしたような表情を浮かべた。
「閣下!」
「殿下はご無事だ!」
 か細い肩をしっかりと抱いて、アルドゥインは大声で告げた。
「他の者もまだ残っているのなら、早く城外に出るように伝えてくれ」
「かしこまりました。閣下もお急ぎください。ここはまだ大丈夫ですが、火の回りが予想以上に早くなっています」
 ヤシャルは怒鳴り返して、身を翻した。急がなければと思いながら、アルドゥインは傍らのリュアミルを見やった。張り詰めていた精神が解けたのか、今のリュアミルは見るからに先程よりも力なく、立っているのさえやっとのようであった。この体で歩くのもともかく、階段を駆け下りるなど、とうてい無理だろう。
「殿下、失礼いたします」
 言うなり、アルドゥインはリュアミルの脇と膝の下に腕を差し入れて抱き上げた。リュアミルは一言も言わずに、落ちないように自分から彼の首に腕を回した。アルドゥインはそのまま、あまり振動を与えないように気をつけながら、できるかぎり急いで階段を下りはじめた。ほとんど体温は感じられなかったが、腕にある重みは間違いなく生きている人間のそれだった。その重みが、アルドゥインには全てだった。
「アルドゥイン……」
 ともすると靴音でかき消されがちだったが、アルドゥインはすぐに彼女の声を聞き分けた。
「何でしょうか」
「トオサは……トオサはどうなりましたか」
 押し殺すような声だった。リュアミルが最後に見たのは、彼女を守ろうとしてルノーに切りつけられたトオサの姿である。生きているのかどうかすら、その後リュアミルが知るすべはなかった。ずっと案じ続けていたのだろう。
「トオサ殿は生きておいでです。傷は深かったのですが、幸い急所は外れておりましたから。ご安心ください」
「良かった……」
 心からほっとしたように、リュアミルは呟いた。
「それに、この遠征にヴィダローサがついてきております」
「ヴィーダが……?」
 リュアミルは訝しむような声を上げた。
「俺の部下に、殿下の身の回りのお世話などさせられない、と。危険だから駄目だと申しましても、トオサ殿がついてゆけないなら、自分が殿下のお世話をさせていただくのだと言って聞きませんで」
 その会話の間に、階段を下りきって今は廊下を走っていた。目に火は見えないが、熱と、きな臭くいがらっぽい臭いがたちこめている。火の回りが早いと言ったヤシャルの言葉は本当だった。恐らく本丸の辺りは既に燃えているだろう。
 ここから一番近い出入口は、幸い煙が流れている方向とは反対だった。だが悠長にしている暇は無く、リュアミルにすまないと思いながらアルドゥインは全力で走った。玄関ではなく、使用人の通用口のようなドアを足で蹴破るようにして出ると、ここから出ることを予測していたらしく、ヤシャルがアルドゥインの馬を連れて騎乗して待っていた。
「全隊、三の丸の広場にて閣下をお待ちしております」
「よし、急ぐぞ」
 ずっと横抱きにされていたリュアミルは、差し出されたヤシャルの手を借りて鞍の上に落ち着いた。それを見届けてから、アルドゥインも軽々とした身のこなしで鐙に足をかけ、ひらりと跨った。
「行くぞ、ロザリア」
 愛馬の首筋を軽く叩いて、アルドゥインは言った。左腕にはリュアミルの胴を支えて、右手で手綱を握る。横向きに座ったリュアミルは、縋るものはそれしかないとでもいうように、再びアルドゥインの背中に両腕を回した。
 三の丸に到着してから、アルドゥインはリュアミルをヴィダローサに任せた。やつれ果て、傷ついた彼女の姿を見てヴィダローサは悲鳴に似た声を上げて駆け寄った。
「姫様!」
「ヴィーダ……」
「さあ、こちらの馬車へ。ともあれお休みくださいませ」
 ヴィダローサに支えられたリュアミルが旅馬車に乗り込んだのを確認してから、アルドゥインは整列して命令を待つ紅玉騎士団と赤騎士団を振り返った。その背景で、ヒダーバード城の本丸が赤々と燃える炎に包まれている。
「紅玉騎士団第四隊はリュアミル殿下の護衛ならびにルノー・ド・ハークラーの監視を。以下は全隊、今よりただちに消火活動に入り、ヒダーバード住民の保護に当たる。今は亡きとはいえゼーア皇帝陛下の居城たるヒダーバードを、むざと灰燼に帰す事があってはならない。何としても全焼は食い止めるぞ」
「はっ!」
 兵士たちの顔にはどことなく緊張の色が見て取れる。ブランベギン騎士団との戦闘は避けられたが、これから更に危険な炎との戦いが待ち受けているのだから、無理もないことかもしれない。
 長い夜はまだ続くようであった。


2010.12.20

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