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 エレックの答えを聞いて、アルドゥインはしばし何かを考えているようであったが、それは一分にも満たない間のことだった。彼は振り返り、よく通る声で命じた。
「伝令! 第五隊はこれよりヒダーバード市城に入る。目的は皇太子殿下の奪還および保護、ならびにルノー・ド・ハークラーの身柄確保。全ての指揮は俺が直接執る。五テルジン以内に前衛に集まり、一定人数に達し次第出発する。第一、第二隊は市城の北門に、第三、第四隊はそれぞれ、西門と東門に回り、退路を断て。赤騎士団は引き続き南門に待機し、万一の抵抗に備えよ」
「はっ。伝令、伝令!」
 アルドゥインの言葉が終わるやいなや、その場にいた者が急遽伝令役として一斉に陣内のあちこちに散っていった。命じ終えてから、アルドゥインはまたエレックたちに視線を戻した。
「それからエレック殿、ヴルフェリウス殿。二方には同行し、城内の捜索を手伝ってもらいたい」
「かしこまりました」
 制限時間は五テルジンと言ったが、三テルジン後には捜索に向かうに充分な人数が集まったので、アルドゥインはそれ以上待つことなくヒダーバードに向けて馬を走らせた。完全にエレックが指揮権を掌握したというのは真実で、南門前に陣を広げていたブランベギン騎士団とブレトン傭兵団は紅玉騎士団第五隊が近づく前に門への道を空け、すでに臨戦態勢を解除していた。
 その中を真っ直ぐに突っ切り、アルドゥインたちは二年ぶりのヒダーバード市城に入った。二年前と同様、三の丸や二の丸の情景に目を留めている暇などなかった。数少ない住民たちは建物の中で息を潜めているのだろう。真夜中ということもあるが、人影一つ見当たらなかった。
「エレック副団長!」
 乗り捨てるように馬を降りて本丸の城館に入ると、エレックの名を呼びながら反対方向から廊下をこちらに駆けてくる数人がいた。先に彼が遣った騎士団員らしい。彼らは戸惑ったり迷ったりする様子もなく合流すると、エレックに近づいた。当然、アルドゥインにも近い位置ということになる。
「リュアミル殿下は見つかったか?」
 エレックは大人数の足音に負けないように、怒鳴るように尋ねた。
「いえ。いずれかの塔の上階であるらしいことは判っているのですが、何しろ我々には全く近づけさせまいとしておりましたので、それ以上の手掛かりは」
「ルノー様は」
 騎士団員は再び首を横に振った。
「我々が向かう前に、こちらの動きに気づいたようです。いつも使っておられた部屋にはもうおりませんでした。時間から考えて、まだこの城館からは出ていないはずですが」
 この会話の間にも、第五隊の騎士たちは命じられる前にそれぞれ数人ずつに分かれて、捜索のためにあちらこちらへと駆け出していっていた。むろんアルドゥインたちも、目に入るドアを全て開けて無人を確認しながら進んでいた。
「問題はルノー様が見つからないことよりも、あちこちに火をつけられたことです。消火に人手を取られ、捜索が思うようにいきません」
「何だと?」
 その言葉にぎょっとしたのはエレックだけではなかった。全員の視線がその騎士団員に向けられた。
「これまで、見つけた火は消し止めましたが、全てを見つけたわけではございませんでしょうし……」
「急ぐぞ」
 彼の言葉を遮るようにアルドゥインは言い、足を早めた。無言で全員がそれに従う。この階では最後の部屋となったドアを開けた瞬間、アルドゥインは驚いたような顔を一瞬だけした。
 その部屋は無人ではなかった。いたのは、白髪白髭の老人が数人。そのうちの一人に、アルドゥインは見覚えがあった。彼はいくぶん拍子抜けしたように、目の前の人物を確かめるように大きな瞬きを数度した。
「ハイラス……大僧正?」
「アルドゥイン! アルドゥインではないか!」
 それはまさしくゼーア帝国の大僧正、ハイラス・レヴィであった。ハイラスは立ち上がろうとしたのだが、果たせずに座り込んだ床でじたばたする結果になった。その理由はすぐに判った。六人の老人がそこにいたのだが、彼らは円陣を組むように背中合わせで一緒くたに縛り上げられていたのである。
 セリュンジェが短剣を取り出して、もとはカーテンを留めていたらしい古ぼけた絹の太縄を切ってやった。このような事態でなかったら、ぼやきの一つくらい出ていたかもしれない。そんな表情であった。
 解放されるなり、ハイラスは自由にしてくれたセリュンジェへの礼などそっちのけでアルドゥインにまろび寄った。
「おお、アルドゥイン。どうかあの男を捕らえてくれ。あの男は弔問使節を偽ってヒダーバードに入ってきたのだ。おまけに、あろうことか神聖なる陛下の霊屋を冒し、立てこもるなどという不敬、不埒の行いを……!」
 大僧正は涙ぐまんばかりに――というか、もはやその皺深い目には涙らしきものが光っていたが――なりながらアルドゥインに訴えた。
「霊屋と仰られたか。ではルノーは祭礼室にいるのですね?」
「そうじゃ。わしは陛下の玉体を守り参らせようとしたのだが、力及ばず、このように……」
 ハイラスはまたも涙声になって頷いた。
「お嘆きあそばされるな、大僧正。俺に全てお任せください」
 ほとんど背を返しながら、アルドゥインは言った。
「セリュンジェ、ヤシャル、行くぞ。エレック殿も同行を頼む。他の者は老人がたを無事に本丸の外まで避難させてやってくれ」
「はっ」
 既に駆け出したアルドゥインを追って、名を呼ばれた三人も走り出した。
 ゼーア皇帝の祭礼室は、室と名のついているものの、この本丸の中央部に設けられている広間であった。本来ならば朝晩の祈りや季節ごとの儀式が行われるはずであった場所だが、椅子などは全て取り払われ、中央に位置を占める皇族と、広間の周囲に並ぶ臣下を分ける大理石の囲いだけが残されていた。
 最後のゼーア皇帝の亡骸は柩の中で、この祭礼室の祭壇前に花々や香立てに囲まれて安置されていた。その香りのおかげで、いくらかは漂っているはずの死臭はほとんど感じられなかった。
 そして今、そこにはもう一人の人物がいた。
「よく見つけたな、ヴィラモント将軍」
 ウジャス帝の霊には申し訳ないことと思いながらも荒々しく扉を開けた時、ルノーは待ち構えていたように薄笑いを浮かべて帝の柩の前に立っていた。起き出してすぐに城内を逃げ回ったらしく、着ているものは寝巻きに近い衣服であったが手には剣を携えていた。柩を囲む燭台の光が、まるで地獄の亡霊のように不気味な影を周囲に投げかけ、揺らめかせていた。
「ルノー・ド・ハークラー。メビウス皇帝イェライン陛下の命により、貴様を逮捕する」
 祭礼室の囲いの中に足を踏み入れたアルドゥインに続こうとしたセリュンジェたちに手振りで下がっているように命じ、彼は言った。
「こうとなっては、お前に一矢報いることもなかなか難しそうだが、私がおとなしくお前に捕まってやるとでも思っているのか?」
 ルノーは薄笑いをおさめぬまま返し、左手に握ったままでいた剣の鞘を投げ捨てた。鞘は床に置かれた背の高い枝付き燭台の一つに辺り、柩の周囲に並べられた他の燭台を巻き込んで倒れていった。
 あらかじめ油でも撒いていたのだろう。蝋燭の炎がぶつかった緞帳をたちまち炎の舌が舐め、天井へと駆け上っていった。ウジャス帝の柩もまた、瞬く間に炎に包まれた。その炎を背に受けて、ルノーは剣をアルドゥインに向けて突き出した。
「私を捕らえたいのなら、殺すつもりでくるのだな。さあ、来い!」
 挑発的なルノーの言葉に、アルドゥインはゆっくりと剣を抜いた。背後に控えるセリュンジェたちが息を呑んだ。
「閣下……」
 アルドゥインはヤシャルの押し殺した声に応えて、視線を動かさぬままわずかに顔をそちらに向け、彼らの懸念は承知しているとでも言いたげに頷くような仕種を見せた。
「貴様は殺さん――死なせてなどやらん」
 殺意に燃える目をしながらも、ゆっくりとアルドゥインはそう言った。
「少なくとも、この場ではな」
 言うなり、目にも止まらぬ速さでアルドゥインは踏み込み、剣を突き出した。しかしトーナメントの時とは違い、ルノーはその動きについていけぬこともなければ、うろたえることもなかった。きわどい所ではあったが脇腹を狙ったその一撃を躱し、なかなかに鋭い太刀筋で返し突きを入れてきた。
 ルノーをこの場で殺しても構わなかったならば、アルドゥインは狙い定めた一撃で迷うことなく殺していたに違いない。だが、リュアミルをまだ救い出していない以上、あくまで生かしたまま捕らえる必要があった。
 本来のアルドゥインの実力ならば、トーナメントで見せたように数合を待たず相手をねじ伏せていたはずである。だが今、アルドゥインはルノーを圧倒することができず何度も刃を交えていた。相手を殺してしまいたいほどの憎悪と瞋恚、殺してはならないと命じる理性とのせめぎあいが、剣をも鈍らせたかのようだった。
 二人の周囲をじりじりと焦がしてゆく炎は、さながらアルドゥインの心中を映しているかのようであった。
 だが怒りと理性のせめぎあいはやがて一つの均衡に落ち着いた。アルドゥインの瞳に燃えていた炎がふいに静まり――怒り以外の感情を排した心は氷の刃のように冷たく研ぎ澄まされた。
 底知れぬ闇のような瞳で見据えられた瞬間、ルノーはその迫力に圧倒されたように、僅かにたじろいだ。その一瞬の隙だけで充分であった。
 鋭く高い金属音が響きわたり、セリュンジェたちは思わず息を呑んだ。腕ごと刎ね飛ばしたかに見えたアルドゥインの一撃であったが、手首を押さえながら剣の勢いに負けて倒れこんだルノーは五体満足であった。だが、やや間を置いて床に転げ落ちたルノーの剣は籠手の辺りから見事に両断されていた。
 息を呑んで凍り付いていたセリュンジェたちであったが、アルドゥインが剣を鞘に収める金属音が響くと、それがまるで目覚めの鐘であったかのようにはっと身を震わせた。そしてまだ腕を押さえて倒れこんでいるルノーに、わっと駆け寄って取り押さえにかかった。アルドゥインは無言のまま、それを冷たく見下ろしていた。
 程なくしてルノーは後ろ手に縛り上げられ、炎が完全に回った祭礼室から引き出された。消火している時間は無いし、別に安全な場所を探していては時間の無駄だと判断して、アルドゥインは祭礼室を棟一つ隔てた一室にルノーを連行して尋問することにした。
「リュアミル殿下をどこに幽閉した」
 怒りを押し殺した低い声で、アルドゥインは言った。だがその場に膝をつかされたルノーは、不敵な、あざ笑うような表情を浮かべて彼を見上げただけだった。
「本当は私が憎いだろう。この場で切り捨ててしまいたいだろう。だがお前はできない。大切な皇女殿下がどうしているのか、気になって仕方がないからな。私を殺したら、あの女がどこにいるのか、お前にはわからないものなあ」
 ルノーはせせら笑った。アルドゥインが拳を硬く握り締めるのを、背後にひかえていた部下たちは見た。
「……だから聞いているだろう。リュアミル様は何処だ。答えろ」
 アルドゥインは努めて冷静になろうとしながら、もう一度尋ねた。ルノーはあざ笑うような表情を浮かべた。捕らえられ、すでにおのれの負けは明白であるのに、いまだ自分が優位に立っているかのような態度であった。
「さて、何処だろうな? もう少し私の話に付き合ってくれてもよかろう」
 ルノーはにやにや笑うのを止めなかった。
「この遠征はイェラインに命じられたか、それとも志願したのか? 褒美はメビウス王の地位か、それとも何だ? どんなに汚れようとそれでもメビウス皇女、皇太子に変わりはないからな。あの女について来るメビウス王の地位だけでも、ちょっとした遠征をするだけの価値はあるだろうな」
「てめえ、何て口を利きやがる……」
 隣にいたセリュンジェがかっとなって剣の柄に手をかけたが、アルドゥインはそれを片手で制した。
「ルノー・ド・ハークラー。その薄汚い口を閉じろ」
 アルドゥインの声はすでに怒りを隠さないものとなっていた。
「誰もが貴様のような考え方をしていると思うな。お前にリュアミル殿下の何が判る。メビウス皇女だ、メビウス王の地位がついて来るだ? そんなもの、俺にとってはどうでもいい。あの方の価値は――人間の価値は、そんなもので計れるものじゃない」
「これはまた、お熱いことだな」
 縛られたままだったが、ルノーはうんざりしたように顔を背けて肩をすくめた。
「私のお下がりにしか過ぎない女が、そんなに愛しいか?」
「っ……」
 既に予想はついていたし、覚悟は決めていたことだったが、アルドゥインは一瞬ひるんだ。それをルノーは見逃さなかった。
「誇り高い、尊いメビウス皇女とやらにはずいぶん楽しませてもらった。皇女の誇りだ何だとうるさい女だが、体だけは良かったぞ。我が姉を差し置いてイェラインに気に入られていた女の娘だけはあった。まあ、なかなか思いどおりにはならなかったがな」
「貴様、リュアミル殿下を……」
 アルドゥインが何かを言いかけたが、ルノーはそれを遮るように続けた。
「あの女の目が気に食わん。殴ろうが蹴ろうが、決して私を認めようとしないあの目だ。どうせ俺の思うままになるしかないくせに」
「貴様、殿下を殴ったのか」
 彼の質問には答えず、ルノーは憎々しげに吐き捨てた。血走ったルノーの眼は半ば狂気めいたものを宿しながら、アルドゥインを真っ直ぐに睨みつけていた。
「結局、あの女はイェラインの娘だ」
「何だと?」
「姉上があんなにも愛したのに、姉上を愛そうとしなかった男の娘だ。それは初めこそ侮っていた、地位が目当てだった。だがリュアミルの何がそんなに良いのかなど、今さらお前に説かれるまでもない。そんなことはこの私が一番よく知っている。ずっとあの女を見てきたのだからな」
「貴様、まさか……」
 心の底から驚愕したような呟きが、アルドゥインの唇から漏れた。ルノーは歪んだ笑みを浮かべた。
「そうだ――私は本当にリュアミルを愛していた。私は私なりのやり方で、お前が現れるよりもずっと前から愛していた。姉上がいなくなった今こそ、私の愛を受け入れてくれるものと思っていた。なのに後から来たお前が、あの女の心を横から奪っていったんだ」
 ルノーの独白めいた言葉は次第に熱を増して、最後には絶叫となって静まり返った部屋に吸い込まれていった。
「挙げ句――婚約だと? どうしてお前が選ばれる? この私ではなく! だからお前から、あの女の体を先に奪ってやったんだ。だがどうしてこの期に及んであの女の口から、お前の名前を聞かねばならないんだ!」
 瞬間、アルドゥインは目の前が真っ暗になったような気がした。父の宮殿から連れ去られ、暴力にさらされながら、愛しい人が助けを求めて呼んでいたのは、他でもない自分の名前だった。それなのに、自分は今も彼女を救い出せないままここにいる。
 アルドゥインに充分ショックを与えることができたことにやっと満足したのか、ルノーは荒い息をつきながら続けた。
「いいことを教えてやろう。お前らが押し寄せてくる前に、あの女の部屋に毒薬を置いてきてやった。誇り高いメビウス皇女だ、今頃どうしているか」
「何だと?」
 激するのをやっとのことで押し殺して、アルドゥインはルノーを睨みつけた。
「尤も、あの女が壜を手に取る前にお前が見つけてやれば、止められるだろうがな」
「この……っ」
 何かを言いかけて、アルドゥインはぐっと全ての言葉を飲み込んだ。やにわに彼は踵を返した。
「この男を連れて行け。俺は殿下を探す」
 走り出したアルドゥインの耳に、勝ち誇ったようなルノーの声が突き刺さった。
「せいぜい無駄な努力をするんだな!」



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