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 そのようなわけで、その夜は何も変わったことなど起こらぬうちに過ぎたのだった。むろん、攻め手であるメビウス軍、砦を守るペルジア軍ともに歩哨を立て、ことにペルジア軍の方は夜襲への備えをおさおさ怠りなく、夜っぴてかがり火を焚き、油断なく見張りを続ける様子だったが、それもことさらに注意を払って、というわけでもなく、普通の篭城戦の警戒と見たほうが妥当な様子だった。
 それに対してメビウス軍では、アインデッドからの指令が徹底的に出回っていたので、そのもっとも注意を払っていたのは、夜襲やだまし討ちへの警戒は当然のことであったが、それにもまして「これで全軍だ」というように振る舞うこと、にしぼられた。
 その指令はすでにアインデッドがジムハエを発つ時に全軍に行き渡っていた。もとより攻める側であるから、メビウス軍が厳しく篭城軍の周囲を取り囲み、外部との接触を遮断しているのは確認できる。
 とはいえ、今日の昼に着いたばかりであるから、それがどれほどの効果を上げているのかは期待できない。しかしその様子を見るかぎり、ペルジア軍は一万そこそこの軍隊に援軍はないものとみて、少しばかり安心しているようであった。
 それというのも、アインデッドが連れてきた四百五十の旗本隊の活躍によるところが大きかった。彼らは偵察行、見張り、夜陰に紛れての潜入など、様々な形での情報収集を行い、ペルジア軍の様子を伝えていた。
 これほど伝令や斥候、また情報の収集に人員を割き、時間をかけ、重要なポジションを置いているのはラトキア軍――というよりももっと正確には、全くアインデッドの独創と言ってよい戦術なのであった。
 この時代に一般的な情報収集のレベルから言ったら、アインデッドのそれはおそらく数倍ではきかない――情報収集にあてている人員の数にせよ、それに対する重みの置き方にせよ、十倍にはのぼるものであったに違いない。
 それは、最初のうちは当のラトキア軍の面々にとってさえ、多少は面食らわされることであった。
 しかし実際にそれで戦ってみると、敵の様子が手に取るようにわかるし、細密な命令も判りやすいというので、一万の兵に対して千、つまり十人に一人というたいへんな割合の伝令、諜報部隊が割かれていること――通常ではかなり多くても五百がいいところであっただろう。たいていの、どちらかといえば後進国にあたる国であったらものの百がいいところであっただろう――の意味、その重要さはたちまち彼らには悟られた。
「俺のところの伝令兵といえば、専門に伝令をしているものは一隊に一人か二人で、後は当直の小姓が兼ねているだけだからな」
 つくづく感心してアルドゥインがその夜、酒を酌み交わしながらアインデッドに言ったのも無理はないと言わねばならなかった。しかし、アインデッドの方も同じような気持ちを抱いていたのは確かである。
「だが、アルの兵を見ているとやっぱり、ラトキア軍なんてのは軍勢でも何でもなくて、ただの野盗の集まりに等しいと言ったほうがいいんじゃないかと情けない気分になってくる。これは何も軍勢の話だけじゃない。ラトキアなんて国はまだ、国と言うのもおこがましい、ただのそのへんのちょっと大きな自由開拓民の集まりにすぎないという気が俺にはずっとしていたんだがね」
「まあ、これからの可能性はいくらでもあると言えばいいんじゃないか」
 アルドゥインは飽くまで慎重だった。
「さっきお前が言ったけれど、それだけ諜報部隊の数を増やすってのは、実戦にあたる戦力をその分減らすってことになる。むろん、きゃつらだってラトキア騎士団の成員である以上は戦闘訓練もしているわけだが、鎧も軽装にさせているし、重い武器は持たせていない。同じ兵力でもその分、実際には一割ほど戦闘力が落ちる。だけど俺としてはたとえそうでも、持っている情報量が敵の数十倍であれば、そのほうがはるかに有利であるはずだと踏んでいる。ま、その仮説が正しいかどうかを試すいい機会ではあるんだ。これでいい結果が得られたら、最終的には黒騎士団と赤騎士団だけでなく、全面的にこの方式を取り入れるように、宮廷に働きかけるつもりだ」
「そうしたらこの先、中原における戦争というものの形はがらっと変わってしまうだろうな。お前は歴史を変えてしまうかもしれないということだよ、アインデッド」
 同じく一軍の将として、アルドゥインはアインデッドの考えの重大さがすぐに飲み込めたようだった。
「いずれにせよ、俺もラトキアが世界の強国にのし上がっていくためには今のままの体制ではどうにもならないだろうと考えているよ。しかし、今はまだ、全てを俺が掌握しているわけではない――もとからのラトキアの廷臣たちも残っていれば、大公との縁故だけで動く旧態依然たる阿呆みたいな連中もたくさんいる。まともな武官はこの前の戦争であらかたエトルリアにやられちまったし、まだまだラトキアは先が長いな。今回みたいなこともあるし……」
「そのほうがいいと思う。お互いのためには」
 アルドゥインは苦笑した。
「軍事国家ではないにしろ強大な国力によって、やろうと思えば十万単位で軍を揃えられるメビウスと、見事に体制を整えなおして近代戦の最先端を行く軍事国家として新生したラトキアとがもし万一ことを構えるようなことになったら、それこそ全世界に破滅が訪れるまで互いに譲らぬすさまじい戦いが起こるだろう」
「とても無理さ、アルドゥイン。今のラトキア――いや、悔しいながら今のどんな国家にだって、メビウスに正面切って立ち向かえる国力なんかありゃしねえよ。ペルジアは問題外として、エトルリアしかり、クラインしかり、ジャニュアしかりだ。沿海州だって、沿海州連合としては何とか体裁はつくろう程度の国力を保っているにせよ、もしメビウスとぶつかってみれば陸に上がった魚みたいなものだ。今の世界にはメビウスに対抗できるだけの大国は一つもねえんだってことだよ、アル」
「それは確かにお前の言うとおりだ、アイン」
 アインデッドはそれには何も答えず、酒の満たされた杯を見つめた。アルドゥインもまた、その物思いに付き合うかのように、二人は黙りこくってしまったのだった。
 だが、それはともかくとして、そうしてゼア戦線ではアインデッドの目論んだとおりに、ゼア砦の内部へは的確な情報は一切入らぬように操作されていたのであった。
 アインデッドはアルドゥインに預けられた紅玉騎士団を使って、ゼア砦から物見に出る斥候は一人残らず切り捨てさせ、或いは偽の情報をつかませて砦に送り込んだ。ゼアとヒダーバード、或いはイズラルをつなぐ情報網はいまや、完全に封鎖されていた。
 これも撹乱のために、アインデッドはひんぴんと偽の狼煙をあげさせてこの情報網をひどく混乱させるのに成功していた。そして、ゼア砦に入る食料の補給線は全て切らせたので、大した規模でもないのに一万もの兵を抱えるゼア砦は、いかに豊富な兵糧のたくわえがあったとしても、この状態があと三日も続けばそれも底をついてくるはずであった。
 一方でアインデッドは「何でもない状態」をとりつくろうのにも苦心していた。旗指物も一切上げさせなかったし、エトルリアの目立つかぶとはあらかじめ砦から物見で見ることのできる位置に来る前に脱いで宿舎に入るように定めていた。
 このような兵略を用いさせられることは、メビウス軍にとっても、エトルリア軍にとってもなかなか珍しいことであったので、彼らはかなり驚いたようだった。いずれにせよ、そうして二日間はまた、外見にはそれまでと全く変わらぬ膠着状態がゼア戦線では続いていたのであった。
 だが、実際にはもう砦攻めの連合軍にはアインデッドから、ラトキア軍本隊が三バル圏内に近づきしだい時を移さず総攻撃、という最終的な指令が行き渡っていたので、それまでの二日間足らずとは、およそ軍の内部の士気は打って変わったものがあった。
 彼らはそもそも最初から、全力をかけた総攻撃に入りたくてかなわなかったので、その待ちに待った指令を受けて、勇気百倍のていであったのだ。
 アインデッドのいちばん恐れていたものもまた、その待ち望んだ指令を受けて喜び勇んだ兵士たちが一斉に武器の手入れを始めたり、砦の望楼から見下ろしても明らかなくらいに慌ただしい動きをして、あらかじめ敵方に近々そのような行動が起こされるということを知らせてしまう、ということであった。
 そのためアインデッドはかたく申し渡して何も特別に武器の手入れなどをしたりせぬように――平常の城攻めと同じ程度にしか陣内を動き回らぬようにとの命令を繰り返して出した。
 待ち望んでいた報告がようやくアインデッドとアルドゥインの元についたのは、その長い一日が過ぎようとしている頃だった。
「将軍閣下ッ」
 慌ただしく、アインデッドとアルドゥインがたむろしている本陣に駆け込んできた伝令は、興奮もあらわに膝をついた。
「あと三テルほどで、ラトキア本隊、かねて仰せの三バル圏内に到着する見込みでございます!」
「よし、来たか!」
「予定通り、俺が砦に総攻撃ということだな」
「ああ、あと一と半テルしたらラトキア軍を連れに出発しよう。赤騎士団に命令書を書いておいたほうがいいな。到着しだいただちに戦闘ということになるから、戦場に着きしだいお前の命令に従うように、との但し書きを付けておくぜ。直接命令しておくが、念のためだ」
「わかった」
 アルドゥインは頷き、アインデッドに文机を貸した。その命令書を書き終えたアインデッドにアルドゥインは微笑み、皮肉っぽく言った。
「連れて戻ったら砦が落ちていた、なんてことになっていたらどうする?」
「そうしたらイズラルに真っ直ぐ向かうだけのことだ。俺が立派な大将だったら、余計な手間が省けたと喜ぶところなんだろうけど――できれば、切り伏せる相手を俺にも残しておいてくれよ」
 アインデッドは真面目に答えた。
「戦場でまた会おう、アルドゥイン」
「ああ。ナカーリアの恩寵がお前の上にあらんことを」
 アルドゥインはかすかに笑うと、そのまま天幕を出ていった。アインデッドは何となく、奇妙な表情でそのあとを見送っていた。その緑の目には、どういうわけか、この二日ばかり忘れていた、あの不思議な憂悶の翳りがまたしても戻ってきていたのだった。


(2011.11.30)

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