前へ  次へ






「このような言い方をしてもよいものならな、アイン」
 アルドゥインは慎重に言葉を選びながら続けた。
「今のお前はとても――そう、はかなげに見える。はかなげで、あやうく、脆く、おのれのあやうさに気付いていない、そんな奇妙な――怒らずに聞いてくれよ、なまめかしさを感じさせるんだ。それが多分あの男がお前にそれほど執着する理由の一つだろうし、その執着がお前を取り込んでしまって、容易に切り捨てられなくしているのだと思う」
 アインデッドはひどく意外なことを聞いたように、目を見開いた。アルドゥインはいくぶんためらいがちに続けた。
「もちろん、お前は常に自分の選んだ道を絶対として来たんだと思う。だが、もしまだ俺にお前の道をともに歩く権利があるとするなら、できるだけ早く今の状況を打破するように勧めるね。何か少しでもお前が、今の状況に不安を感じたり、何かが違っているのではないかという違和感を感じているのなら」
 アルドゥインの黒曜石のような瞳が奇妙な光にくるめいた。彼は深い物思いをこめて、目の前の旧友を見つめた。
 彼の目に映ったのは、まだ充分に――たった一つ下とは思えないほど――うら若く、そしておのれがまだあまりにも若いということにさえ気付かないほどに生き急いでいる、不思議なほどに思いつめた表情をしたほっそりとした赤毛の若者だった。
 その瞳は彼が『傾国』とはからずも表現したあの、見つめられるものを誰もが妙にこの若者を見捨ててはおけないという切迫した感情に誘ってしまうような、自分でも気付かぬ苦悩に追い詰められた生贄の苦悶をたたえていた。
「アイン」
 ふいに、こみあげる感情に身を委ねたようにアルドゥインは手を差し延べた。まるでアインデッドはこの世に生れ落ちたばかりの赤子で、自分はそれを守ってやらなければならない母親であるかのような切ない気持ちになっていた。
「アイン、お前が心配だ」
「俺は――俺は、間違っているのか?」
 アインデッドはその差し延べられた手を反射的に掴んで、囁くように尋ねた。アルドゥインは友人のいくぶん青ざめたおもてに目を当てながら、呟くように言った。
「それは、俺には判断できないよ。けど、お前の副官――モリダニアのルカディウス。あいつはお前がいた時は何だかお前のご機嫌を伺いながら喋っているようだったが、お前がいなくなったとたん、急に居丈高になってな。ランもだが。彼がお前によからぬ思いを抱いていると言ったな。それは疑うところなく全て真実だと思う。それも並大抵でなく。彼は嫌らしく、おぞましい妄想の中でいつもお前を裸にし、この世では叶うべくもない欲望のありったけを浴びせかけているような目つきでお前を見ている。俺がお前と喋っただけで、あんな凄い目で俺を睨むんだからな。アインデッド、彼はきっとお前にとって災いになる。どうしても切ることはできないのか?」
「ルカを、か。でもあれはあれでよくやってくれているし、さっきも言ったようにべつだん表だっての落ち度があるってわけでもない――それに、あれでも今のラトキアにはやっぱり必要なんだ」
 アインデッドの答えはいくぶんしどろもどろになってきていた。
「みんながあいつは俺に惚れていると言うが――俺は、少し違うような気がしなくもないんだが、とにかく俺に妙な執着を持ってるのは確かだと思う。だからって、それ以外に迷惑をかけるでもないし、俺さえ我慢すればみんな平和にやっていけるんだもの」
「お前は先に、あいつを嫌っているといったように思ったが」
「嫌いだよ。大嫌いだ、あんな奴。あいつを何度切ろうかと思ったことか……。だけどお前も判ってると思うけど……ラトキアは何と言っても新興の国で人材がないんだ。……優秀ともいえんがそこはまあ尚武の国、武官はけっこういるんだが文官が少ない。あんな奴でもシェハラザードや気のいいマギード殿があいつを全面的に信用しちまってて、俺も迂闊に動けないんだ」
 アインデッドは苦々しく言った。
「それは判る。たしかに人材はないな」
 アルドゥインは率直なところの感想を述べた。アインデッドは握りしめた左手の包帯を睨みつけているようだった。
「そう……ずっと我慢するしかないんだ。あいつがいつか、俺が切り捨ててもいいくらい――誰もがもっともだと思うくらいの過ちを犯すか、あいつの悪事の証拠を掴むかするまで、ずっと」
「……」
 アルドゥインが黙っていたので、沈黙に耐え切れないかのようにアインデッドは言葉を次いだ。
「あの野郎は、俺の大事な手下たちを殺しやがった。……赤い盗賊の話は、メビウスでも聞いただろうな、アル?」
「ああ。噂ではな」
 いくぶんあいまいに、アルドゥインは頷いた。
「お前はきっと軽蔑するだろうな。俺がその首領だったなんて打ち明けたら」
 アインデッドは自嘲気味に笑った。それに対してアルドゥインはただ首を振っただけだった。
「そんなことはしないが……しかし、本当なのか」
「こんな所でお前に嘘をついたってはじまらねえよ。本当だ。シェハラザードを助け出し、金と軍勢を集めるためにはそれしかなかったからな」
 アインデッドは目を伏せた。
「……そんな打ち明け話をしたいわけじゃないんだろう。何かあったんだな」
 アルドゥインが畳み掛けると、アインデッドは顔を上げた。
「そいつらは、シャームを追い出された挙げ句、俺の目の前で殺されたよ。連れ戻そうと追いかけたけれど、間に合わなかったんだ。俺は目の前で奴らが殺されるのを見ていた。ただ、見てただけだ。何もできなかった。二人だけ助ける事ができたけれど、一人はもうまともに生活できねえ体にされた。やったのは雇われ兵みたいな奴らだったが、裏でルカディウスが糸を引いていたに違いない。俺が奴らの力を借りたばっかりに、むざむざ殺されるような羽目になったんだ。俺のせいで……」
「アイン、そういうふうに自分を責めるのは良くない」
 アルドゥインは腰を上げて、うつむいたアインデッドの肩に触れた。
「それはお前のせいじゃない」
「俺のせいだよ!」
 俯いたまま、アインデッドは激しく首を振った。
「俺のせいで死んでいったんだ。皆……死にたくもないのに、殺された。これからも殺されていくんだ。俺が自分で手を下すならまだいい。それは俺の責任だし、俺は自分が殺すぶんには覚悟をしてる。だけど、だけど――」
「アインデッド、落ち着け」
 テーブルを回って、アルドゥインはアインデッドの横に膝をついた。そして広い胸にアインデッドの頭を抱え寄せて、なだめるように背中を軽く叩いてやった。子供にするような仕草だったが、そうしなければ彼が壊れてしまいそうな気がしたのだ。
 抱きすくめられるような格好のアインデッドはしばらく荒い息をついていたが、やがていくぶん落ち着きを取り戻したようだった。アルドゥインの肩に額を押し付けるようにして、呟いた。
「あいつを生かしておく限り、ずっと続くんだ。俺のためと言いながら。ナーディルもきっと……」
「ナーディル公子が、どうしたっていうんだ」
 アインデッドは酔った勢いで全て話してしまう覚悟を決めた。
「……シェハラザードはナーディルに大公位を譲るつもりだったし、戻ってきてすぐのナーディルとシェハルは仲が良かったんだ。なのに突然反乱を起こしたなんて、おかしいだろう。あいつがナーディルを、その周りの連中を焚きつけたんだ」
「アインデッド、お前はその計画を……」
「誤解しないでくれ」
 アインデッドは厳しい声で遮った。
「あいつの陰謀の片棒を担いだことなんて、俺にはない。ましてや同意する事だってない。事前に知っていたら、どうやってでも止めたさ。後から聞かされて、俺がどんな気持ちだったか解れとは言わない。だがシェハラザードがこうして大公としてナーディル公子を討てと俺に命じた以上、俺はそのとおりに動かざるを得ないんだ。……アル、お前にも判るだろう。俺だって本当はこんな戦争は嫌なんだ。でもナーディル公子は挙兵してしまい、俺はそれを討つように命じられてしまった」
 アルドゥインは一言も言わずにアインデッドの目を真っ直ぐに見た。二人の視線が絡み合い、そしてアインデッドは逃げるように目を伏せた。
「何か言いたいみたいだな。何だよ。言ってくれ」
「アインデッド、お前は王になりたいと言ったな。それは今でも変わらないのか。何を犠牲にしても、お前はそれを貫くつもりか?」
「何を……言ってんだ。アル」
 いつになく真剣な面持ちの彼に、アインデッドは少なからずぎょっとしたようだった。しかしその目は例のあやうげな光をたたえたままだった。
「その計画はやはりルカディウスの立てたもので、お前を王にするための布石なんだろう。だとしたらお前が王になりたいと望むかぎり、ルカディウスを傍においているかぎり、何度でも同じことが起きるんじゃないのか」
「アル、誤解しないで聞いてほしい。俺は王になりたいと今も願っているし、それは枉げられない」
「ならお前は……」
 これからも戦いの火種を作るつもりなのか、と言おうとしたアルドゥインの言葉を、アインデッドは遮った。
「誤解しないでくれって言っただろう? 何を犠牲にしてもいいとか、誰が死のうがかまわないなんて思っていない。確かにお前の言うとおり、このままでいたら俺は――俺のために、誰がいつ犠牲になるか判らない。まして戦争になったら、何百、何千という人間がそれに巻き込まれるだろう」
「それはたしかに、そうだと思う」
 アルドゥインはやっと自分の心を打ち明け始めてくれたアインデッドの調子を崩さないように気をつけながら相槌を打った。
「だから俺は迷ってる。俺はこの野望を捨てる気なんかない。だが俺が野望を貫こうとすればそれはきっと必ず、ゼーアを巻き込む戦いになるだろう。そこに住む人々の平和、幸せを奪うことになるだろう。でもそれは俺の望むところじゃない。――こんなの、矛盾してるけどさ」
「それを聞いて安心したよ。お前はまだ、悪魔に魂を売り渡したってわけじゃないみたいだな」
「まさか」
 アインデッドは力なく笑った。どこか重い沈黙が、しばらく二人を包んだ。ややあって、口を開いたのはアインデッドだった。
「アルと、サライと一緒にいた頃にさ――思ったことがあるんだ。生涯何があってもお前らとだけは敵になりたくないと。でも一方では、戦死するのなら二人のうちどちらかと戦って死にたい、とね」
「アインデッド……」
 アルドゥインは何といったものかと考えあぐねて、ふと口をつぐんでしまった。アインデッドはかまわずに続けた。
「それに、戦いでお前らが死ぬのなら、相手は絶対俺じゃなきゃ駄目だとも思ったよ。俺以外の奴にお前らがやられるなんて我慢ならないって。まあ――アルにそう思ったことはあんまりなかったけど、サライにな。盗賊をやっていたときに、何度も夢に見た。サライを殺すためにクラインを滅ぼしてやる、あの美しい石の街を火の海に沈め、ことごとく焼き払ってやると。最初はそんなふうには思っていなかったのに。ただ、どうすれば見返してやれるかと、俺を捨てた事を後悔させてやれるかと、それくらいだったのに。それがどういうわけか、だんだん考えることが陰惨になってきたような気がする。思い出すのも気分が悪いくらいに、だ」
 アインデッドは陽気に言った。その陽気さが、その脳裏に浮かべられた想像とどれだけ相反しているものか、アルドゥインは考えたくなかった。
「俺にどの程度、人と異なるものの感じ方があるかは知らないが。――だが、俺にとってたったひとこと言える事は――お前が自分で思っているより以上にはるかに、あの男の妄執がお前を蝕んでいるに違いないということだ。――そしてそれをもしそのままにしておくというのなら、それはお前の心を蝕み、そのままいつかは手の打ちようのないあの狂気をお前の高貴な魂にまで広がらせてしまうだろう」
「……」
 アインデッドは驚いたようにアルドゥインを見つめた。
「おまえが――」
 彼はまるで冗談に紛らわせてしまおうとしているように、じっとアルドゥインを見つめた。
「おまえがそんなことを言うなんて、思いもよらなかったな、アル」
「なぜ」
「だってさ――だって、お前はいつだって……そうだな、いつだって……」
 アインデッドは言葉を探すようだった。それから、ふいに身を起こしてワインを杯に注ぎ、ぐいと飲み干した。
「酒はいいな――!」
 つくづくと感じ入ったように言う。
「女はいらねえけど、酒は人生に欠くべからざるものだよな!――なあ、そう思わねえか。俺はこのところとみにそう思うよ」
「アインデッド――」
「お前と肩を並べて戦うのはこれが初めてのことだな、アルドゥイン」
 アインデッドは妙にしみじみとした口調でかぶせるように言った。
「そう……セルシャで賊どもとやりあった時は別行動だったし、ユーリ姫を助けたときはそれどころじゃなかったから……」
「アイン――」
「これから先、俺たちどうなっていくんだろうな」
 ほとんど陽気と言っていい口調でアインデッドは続けた。
「あと一年したら――それからまた一年したら? これほど変転の多い、常ならぬ人生を歩んでいる俺たちだ。これで決まりだと思ったところで決してそのままでは終わる気遣いはない。またものの一年も経つと、全然違う人生、まるきり今とは似ても似つかない人生を生きてるかもしれない――そんな気がする。あと一年経ったら、それこそ俺が言ったとおり、お前と俺が敵同士になって兵を率いて戦っているかもしれない。……それもだが、人生だな!」
「アイン――アインデッド――酔ったのか?……それとも、俺の言うことに答えるのが嫌なのか?」
 アルドゥインは低く、囁くように言った。だがアインデッドは聞いているようではなかった。
「……俺は王になる。俺は嵐になりたいんだ。立ちふさがるものは全て壊してやる。――夢はもう手の届くところまで来た。俺は絶対後悔しない。後戻りしない。――誰にも何も言わせない。俺は……俺は――」
「アインデッド――酔ったんだよ」
 アルドゥインは静かに言った。その目からはさきほどの光は消え、その代わり何か、無限の悲しみに似たものがあった。
(彼は昔の彼にあらず――)
(ひとたび失われたものは二度と戻りませぬ)
 あの、いんいんと響く予言者の声。
(アインデッド――)
 アルドゥインは何もかもを振り払うように、彼もまたアインデッドに負けじとするように、酒に手を伸ばしたのだった。


(2010.11.20)

前へ  次へ
web拍手


inserted by FC2 system