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 アインデッドが子供のように飛び跳ねながら手を振っているのを見て、アルドゥインは苦笑に似た表情を浮かべた。
「よう、アルドゥイン。ずいぶん時間がかかったじゃねえか」
「ああ」
 酒の壺を小姓に持たせたアルドゥインは頷いて、酒を受け取ると小姓にもう行ってよいと合図をした。
「やはり軍議はそれぞれの思惑がからむし、ヒダーバード攻めには協力してもらう立場上こちらの思い通り早く切り上げるわけにもいかないさ。だが、お前が酔って先に眠ってしまっていなくて嬉しいよ、アインデッド。俺もお前と話したくて、退屈な軍議の間中ずっと待っていたんだから」
「このくらいの酒じゃ酔わねえよ。まして今夜はお前とずっと夜通し語り明かそうと思ってたのに」
 アインデッドはアルドゥインを招き入れると、疲れたようにディヴァンに身を長々と投げ出した。
「だが、こんなに酒の瓶をちらかして……」
「いつも、こんなもんじゃねえ。一瓶、二瓶なんて酒のうちだとも思えねえ」
「以前からそんなに酒量は多かったか?」
 いくぶん気がかりそうにアルドゥインは言いながら、持ってきた酒壺を大理石のテーブルの上に置いた。
「それとも、このところとみに酒量が増えているのか? 何かわけでも――」
「そんなんじゃねえが――ちょっと眠れなくて」
 アルドゥインは頷きながら、何か考えるようだった。
「不眠症か。何か心にかかることでも?」
「そういう――そういうのじゃないんだ」
 アインデッドは大きく首を振って、体を起こした。
「よせよ。せっかく旧友どうしが語り明かそうってのに、そんな医者の説法みたいな話なんて。それより、話してくれよ、アル。俺と別れてから何があった? あれからもう二年も経ったんだ。少しくらい何かあってもいいだろう。ああ、お前が実はラストニアの貴族だったなんて話は、どうでもいいからな。それで俺の知ってたお前が何か変わるわけじゃないんだし」
 アルドゥインがそれを言おうとする前に、アインデッドはことわった。
「それよりほら、前の遠征のときのこととか――。俺も話すから、お前も話してくれ。まだ思い出話をするには俺たちは若すぎるかもしれないが、たまにはいいだろう。……俺たちみたいな人間には、ふつうの人間の一年がまるで十年分にあたるくらいにも、色んなことがひっきりなしに起こるような気がするんだ。――オルテアで別れたのも……考えてみれば、あれからまだ二年しか経ってないんだろ。だけどその間に起こったことを考えてみるともう二十年も経ったような気がする。ときどき俺は自分がひどく年取ったような気がしてならないんだ」
 アインデッドは自分の言葉でおかしくなったように声を上げて笑い出した。だがその笑い声は途中で何となく途切れてしまった。
「ある意味では、確かにそうなのかもしれない」
 アルドゥインはアインデッドと向かい合った椅子に腰を下ろし、自分で勝手にテーブルの上の皿に盛られたマリニアの実を取りながら、重々しく言った。
「俺も確かにそんな気がしないでもない。俺はもしかして、ジムハエというペルジアの小さな村に来ているんじゃなくて、まだオルテアの公邸にいて、そこでお前と会っている夢を見ているだけじゃないのか――と。魂と魂がたまたまオルテアとシャームから抜け出していってこうして会っているのであって、本当にここでお前と会っているわけではないんじゃないだろうかという」
 アインデッドは酒をグラスに注ぎ足しながら言った。
「たしかに、そういう事もきっとあるんだろうよ」
「お前と一緒にいると、次から次へと色んなことが起きて――そうだな、まるでヤナスがとっておきの物語の主人公に仕立てようと仕組んでいるように、不思議なことばかりが起こってくる人なんていうのは、お前が初めてだったよ。俺だっていろいろなことを体験してきたと思っていたけれど、お前は範囲が中原じゅうだった――まずは乾杯といこうか。せっかくの旧友との再会だというのに、まだ乾杯をしてなかった」
「ああ」
 アインデッドは足つきの杯を上げ、アルドゥインのさしあげた杯と触れ合わせた。
「再会を祝して、乾杯」
「アスキアのアルドゥインとティフィリスのアインデッドの、史上まれなる再会を祝して乾杯」
 アインデッドはちょっと気障に言った。そして一気に杯を飲み干し、自分で新しい酒を注いだ。
「アルドゥイン。俺とサライの話は、もう知ってるかな」
「詳しいことはもちろん知らないが、サライがクラインに呼び戻されたという話を聞いた時に、大体は推測できたよ。それにあいつの結婚式に出たとき、直接聞いた」
 アルドゥインは頷いた。
「俺――俺はな、王になりたかったんだ。たかった、じゃねえな。今もそう思ってる。どこのっていう、具体的なものはないけれど……。その力に、サライにはなってもらいたかった」
 アルドゥインの方は見ないで、アインデッドは遠くを見るような目をした。
「なのにあいつは、女帝に呼び戻されてクラインに行ってしまった。俺を捨てて」
 ひどく子供っぽい口調で、アインデッドは言った。
「結果として、今はラトキアの将軍様におさまっちゃいるが、俺はまだサライを許したわけじゃない」
 急に何かを思い出したように、杯の中で揺れる赤い酒をじっと見つめながら呟くように言う。
「だけど俺の恨みっていうのが、筋違いの逆恨みだということもよく判っている――あいつにはあの時、何をどう思っていたところでそうするしかなかったんだろうということも。それに、別れたおかげで俺はラトキアの将軍でいられるのかもしれないってことは俺自身よく判っているからな」
「……」
「だが、俺はサライに……自分が必要とした誰かに、同じように必要とされたかった。――俺は何も持っていなくて、誰も王になろうという俺の夢も、それどころかちょっとした将軍にだってなるだろうなんて信じるものもいなくて、俺は若く、そして何者でもなかった。――俺が今の俺であれば、俺に色々とよくしてくれるのは簡単だ。俺は力があるし、俺によくすればてめえがいい思いをできるというなら、誰だっていいやつになれるさ。だが、サライは……」
「……」
「あいつは俺の夢を笑わなかったし、ジャニュアの時だって、お前と一緒に俺を助けるために色々してくれた。そして、俺のために力を貸してくれると約束した。なのに、それでいてサライはクラインに戻っちまった。俺の存在など最初からなかったように――あの旅などしてもいなかったかのように宮廷に舞い戻った――それが俺にとってどんな事だったのか……お前に判るか、アル」
「判ると言っても信じてはくれないだろうな」
 アルドゥインは途方にくれたように言った。
 アインデッドは夢見るような目を宙にすえた。その目が何を見ていたのか――遠い昔のルーディアであったのか、それともさらに遠いジャニュアの空、青いティフィリスの海であったのか、それは判らなかった。
「なあ、アル」
「ああ」
「思い出話にふけるには俺たちあまりにも早すぎる――俺だってまだ王になっちゃいないし、この遠征も終わってない。お前だって皇女を救うためにまだ戦わなきゃならねえ。だが、な」
「ああ」
「何故だか自分でも判らない。二年前のことはもう忘れようとしてるのに、ことあるごとに俺はお前やサライのことを思い出してならないんだ。ここ最近は毎日のように。俺はそれほど未練たらしい性格のつもりはない。でも、なぜだろう――?」
「俺はお前にそんな呪いをかけた覚えはないぞ」
 アルドゥインは少し気持ちがほぐれたように笑った。
「そりゃ、そうだろうさ。――思えばあの時――もうすぐグールにやられちまう砦の中で、たまたまサライと隣になって、それからラナク川で出会って。俺はあの時、川を流されていくサライとアトを見捨てて行ってしまってもよかったのに、どうして助けて……一緒に旅なんかしたんだろう。お前とも、たまたまアトがさらわれて、俺が助けに行かなきゃ、一生出会わないままだっただろうな」
 アインデッドはグラスからアルドゥインにゆっくりと視線を移していった。
「いつだって俺は自由だった。やばいことになったら、一人だけで逃げてもよかったのに……いや実際やばいことの多い旅だったが、どうしてもできなかったのは何故だろう。サライが国を追われたクラインの右府将軍だったからでもないし、その時にお前がラストニアの貴族で、メビウスの将軍になり、ずっと後にこんな形で共闘すると判っていたんでもない。――全ては、運命だったのかな、アル」
「そうかもしれないな」
「俺だってあの時、シェハラザードとこんなふうになるなんて思っちゃいなかった――俺とシェハラザードのことはどうせ噂に聞いているんだろう?」
「そういうふうな噂は耳にしたよ」
「あいつはいい女だぜ。おまけに俺に心底ぞっこん惚れてる」
 アインデッドは自慢した。
「光の天使――そう、光の天使の予言のことは、お前にも話したっけ。俺はまさしくそいつを手に入れた――シェハラザードのことを皆がそう呼ぶ。……最初にそう呼んだのはあのサン大公だが」
 アルドゥインは何も言わなかった。その沈黙をどう取ったのか、アインデッドは急に体を起こして、神妙な顔つきになった。
「すまねえ。お前の立場も忘れて……女の話なんか、するもんじゃなかったな」
「いや、いいよ。いいんだ」
 かすかに笑みを浮かべて、アルドゥインは首を振った。
「アイン――俺が思うに、俺たちがそういったつながりを感じるのは……俺とお前とサライが……特にお前とサライは、何も持っていない、おのれの所属するところを見出していないという感覚を持っていて、それはこの世で俺たち以外の人間には見出すことのできないもので――俺たちだけが同じように感じている、その気持ちのせいなのかもしれない」
「ああ」
 アインデッドは低く言った。その目は伏せられて、いっそう注意深くその内心を長い睫毛の下に隠してしまった。
「ああ――そうかもしれないな。誰だって皆、この世で人と生まれて、てめえの墓だの、母親だの父親だの、それともせめて氏素性くらいは持っているものな。俺にはそれもないけれど――!」
「そんなことはないと思うぞ。それにその顔も体も、最初から夢にも疑う必要などないだろう」
 本人だけが知らないアインデッドの素性を知っているアルドゥインとしては、この発言に返す言葉は少なかった。
「そうだ、アインデッド。さっきお前、ルカディウス卿が全て企んでいるみたいな話をしてなかったか? それが気になっていたんだが」
「あいつに卿なんかつけなくってもいいぜ。ああ――ランとルカディウスは何か企んでる。それが何かってとこまでは裏をとってないが、きっとあの馬鹿は目先の利益――多分エトルリア大公になるための後ろ盾とか、ペルジア遠征での分け前か、そんなものでつられたんだよ」
「お前がそんなことを言うとはな、アインデッド」
 アルドゥインは驚いたように言った。
「お前は、戦況についてとか、誰がどういう立場で何を考えているのかとか、きちんと判っているんじゃないのか? 本当は」
「どうだか」
 アインデッドはいくぶん調子を取り戻してきたように不敵な微笑みを浮かべた。
「それはそうと……俺は別に外見で人を判断するつもりはないけれど、それでもやっぱりあのモリダニアの軍師とともに戦う気はしない」
「――やっぱりね」
 アインデッドは慎重に言った。
「誰もがそう言うんだが……俺だってわかっちゃいるんだが、というよりも世界で一番俺が良く判ってるつもりなんだがね」
「あの男の、お前を見る目が好きになれない。彼がお前を見るときのあの視線が何とも言えず気味が悪い。ルカディウスとお前はどんな経緯で知り合ったんだ? どうやら俺とお前の関係を疑ってるみたいだが。さっきも隠れて覗いていたぞ」
 アルドゥインは素直に言った。アインデッドはこれ以上ルカディウスについて言及したくないような、苦虫を噛み潰したような顔になった。
「ルカディウスについては俺も詳しいことは知らんが、どっかで魔道の勉強をしてたみたいだ。それ以外は生まれも育ちも知らない。サライと別れてすぐ、レント街道でいきなり呼び止められたんだ。お前を王にしてやるから仕えさせろってな。それ以来ああしてべったりさ。気味が悪いったらありゃしない。あいつが俺にそういう邪な感情を持ってるっていうのは前から知ってるよ。だが、それ以外に取り立てて何の落ち度もないものを、いきなり切り殺すこともできないだろうし。何だかなあ――俺って変わったのかな。昔はそんなことを考えもしなかったような気がするが」
「お前がそれほど単純明快だとは思わないが」
 アルドゥインは笑った。
「でもお前がそう言うのならそれはきっと正しいんだろう。それに――」
「それに――? 言ってくれ。言ってくれよ、アル。言うのは辛いがまた今度いつ会えるのか判らないんだからさ」
「それに何だか、今のお前は――俺にもなかなか危うく見える。――危ういと言うとおかしいかもしれないが、そうだな……最初にお前があの広間で座っていて、俺を見上げたとき、俺は何だかまるで俺の知っていたティフィリスのアインデッドと全く同じ人間を目の当たりにしているとは思えなかった」
「何でだよ? 俺はどこも変わってないぜ!――と思うんだけど。俺、威張るようになったか? それともなんか前と違う様子をするようになったのかな」
 アインデッドは心外だとでも言いたげな身振りで叫んだ。
「というか……」
 アルドゥインは考え込んだ。
「俺はそれを、時が経ったのだろうという一言で済ませてしまっていたから……でも今思うとそれほど単純な変化でなかったような気がする」
「……」
「ひどくお前には似合わないと思うんだが……」
 アルドゥインはさらに考え込みながら続けた。
「俺がこうしてずっと話している間中ずっと頭に浮かんでいる一つの言葉があるんだが――『傾国』という言葉。判るか?」
「ああ?」
 アインデッドは嫌な顔をした。
「俺はそんな小難しい表現は知らないぜ」
「小難しいって……」
 アルドゥインは苦笑した。
「ほら、何と言うのかな、お前に言ってはあまりに失礼だとは思うんだが――傾国の美女と言うのか。そんな感じだ」
「おい、おい、アル」
「今のお前はどういうわけか、そういう言葉を連想させるような、あやうい感じ――というか、危険な感じがあるような気がする。あのルカディウスのこともそうだし、シェハラザード大公との事もそうだ」
「……」



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