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     かくて星見のキャスバートは言った。
     王よ。失われた友にはご注意なさってください。
     ひとたび失われたものは二度とは戻りませぬ。
     昔の友に心まどわされますな。
     そしてこの言葉をご記憶ください。
     彼は昔の彼にあらず――と。
               ――アルドゥインのサーガ




     第二楽章 嵐の夜想曲




 アインデッドは黙りこくって、立ち尽くしていた。
(本当に判らないのはその事かもしれない。これが本当に俺の求めた事だったのか。ラトキアの右府将軍、輝ける英雄、シェハラザード女大公の半ば公認の恋人――かたわらのこのいやらしい、俺に妄執を燃やしている醜い男――自由など無く、こんな茶番に付き合わされる生活……そんなものが……)
「アイン――」
「アイン、なんて呼ぶな。馴れ馴れしいと言っただろう」
「すまない、だが頼むから、とにかくいっぺん――」
 言いかけて、不意にルカディウスの声の調子が変わった。だがアインデッドは気づかなかった。
「うるせえ、いいかげん行かねえと軍議とやらに穴を空けるんじゃねえのか? とにかくサナアに帰るんだから。どうせ泊まったところでアルドゥインと話したくても無駄だし……」
「何が無駄なんだ、アインデッド?」
 突然背後から思いもかけない――だがルカディウスにはすでに存在が気付かれていたし、アインデッドにとっては懐かしかった――声がかかった。
「アル……なんでここに?」
 ぱっと体ごと振り返り、アインデッドは信じられないといったふうに忙しくまばたきしながら言った。真紅の髪に黒い軍服のアインデッドと、黒髪に臙脂の軍服のアルドゥインが二人向かい合うと、色の対照もさることながら、その美貌の質においてもとても対照的だった。
 アルドゥインはアインデッドの狼狽など気にした様子もなく、かつかつと軍靴の踵を鳴らして大股に近づいてきた。軍議の際の無表情はどこへやら、その浅黒い精悍なおもてには、いっぱいに親しみを込めた微笑みが広がっていた。
「お前の声がしたから会えるかと思って来たが、やっぱりここにいたか。久しぶりだな。あれから変わりはないか? さっきはどういうふうに声をかけたらいいのか判らなくて、ついつい他人行儀になってしまってすまなかったな。ああ、ルカディウス殿と相談中か。邪魔だったかな」
「い、いや、別に何も……」
 アインデッドのうろたえようを、ルカディウスはじっとねつい目つきで見つめていた。アルドゥインはふっと眉を寄せた。うろたえながら、アインデッドの顔は計り知れない苦渋で歪んだ。
「アルドゥイン……」
 アインデッドは苦しそうに喉を押さえた。ルカディウスがまだアインデッドを見つめていたが、そんなことはもう気にしていなかった。
(俺がここにたどり着くまでの道をお前は、軽蔑しはしないか……?)
 言葉がつながるのなら、そうであっただろう。自分の別れた後アインデッドとサライの間に何があったかを、さらに今に至るまでのアインデッドの道のりを、アルドゥインは噂の中でおぼろげにしか知らない。だが、それを思うと切り裂かれるようにアルドゥインの胸は痛んだ。
(サライと別れたとき、お前がどれほど苦しんだのか、俺にはわからないけれど……)
 しかしアルドゥインが同情的なまなざしを向けたのはほんの一瞬だけで、すぐに明るい声で尋ねた。
「こうして会うのは、二年ぶりになるか? 人づての噂でしか聞かなかったから、ずいぶん心配していたんだ」
「俺の心配なんて、お前がするのかよ」
 アインデッドは視線を床にさまよわせた。それから、ふと気付いたようにルカディウスに目をやった。
「てめえ、何をじろじろ見てやがるんだ。せっかくの再会に水をさすんだよ、お前の存在は! お前とする話なんざ、俺にはねえんだ。失せろ、失せろってば!」
 最後の方はほとんど怒鳴っているのに近かったが、ルカディウスは何も言わずすみやかに消え失せた。アインデッドはルカディウスの姿が完全に見えなくなったと確認してからアルドゥインの方に向き直り、さっきまでの物憂げな表情をすっかり拭い去って、にっこりと笑った。
「これで話しやすくなったぜ。――俺には、心配するような事は何もなかったと思うよ。あの時の約束どおり、お前より偉いってわけじゃねえけど、それなりの地位にはなったしな。おかしなことだ。あれからたった二年しか経っていないというのに。お前はメビウスの紅玉将軍、俺はラトキアの将軍なんて……あの時誰が想像しただろう。これがまだ十年か二十年後ならともかく、たった二年で」
「アインデッド」
 アインデッドは照れくさそうに、アルドゥインの瞳を見返した。彼は急にいきいきと、明るくなったようだった。
「もう軍議なんてルカディウスにでも任せて、こっちはこっちで楽しく酒でも飲んで過ごそうぜ。――まあ、色々気がかりはあるだろうが、そういうことは少しおいといて。何か不都合があったら言ってくれ」
「じゃあ言うが」
 アルドゥインの言葉に、アインデッドは少し不安そうな顔をした。断られてしまうのではないか、というような一抹の怯えに似たものがその若々しいおもてをかげらせた。
「ちゃんと軍議に出ないとな。お前がラトキアの武の責任者なんだから、お前がいないことには軍議はなりたたないんだぞ」
「わかってるよ」
 アインデッドはふてくされたように言うと、そっぽを向いた。アルドゥインはなだめるように言葉を続けた。その間に、彼はちらりと周囲を見回し、ルカディウスらしい人影が向こうの茂みから駆け出してゆくのを見て眉をひそめた。
「ずいぶん痩せたな。そのせいかな……前よりずっと大人びてきたみたいだ。だけど何となく……」
「何となく、何だよ? 言ってくれ。何でも言えよ。俺は腹蔵なく話すというのに飢えてるんだ!」
 アインデッドは叫んだ。自分でも思いがけないくらい、ここ最近では出したこともないような大きな声だった。
「ラトキア宮廷の馬鹿どもの中では言いたいことも言えやしねえ。まったく、ここまで来てまた軍議軍議と騒ぎやがって。わかっちゃいるが、どうにもめんどくさくってね。食料のことだの何だのと。俺は戦争なんてのは――ほら、今まで前線で戦ってりゃそれでいい傭兵だったもんだから、とんとそういうことには疎くてな。将軍閣下とかの偉い人のやる戦争ってのが、ああいう大所帯みたいなことだと思ってなかった」
「お前も成長したな」
 アルドゥインが言うと、アインデッドはじろりと彼の顔を見て言い返した。
「俺だってもう今年で二十四だぜ。何で俺がここまで来たか知ってるか? 戦いたかったんだ。むろんそれだけじゃねえ政治とかなんやらってのがあるのは判ってるけどさ。とにかく戦いたかった。なのに軍議! ああまったく、これじゃ何のために来たんだか、と俺は思っていたんだ」
「その気持ちは判るよ」
 アルドゥインは肩をすくめた。
「それよりアインデッド、本当に軍議をさぼるつもりか?」
「まあな。どうせみんなルカディウスが全部決めてしまっているんだから、出たところで俺にとっては時間の無駄だ。……全部決まっちまってるんだよ。どうあってもあいつの決めた方向で強引に行くだろうな。……お前だから教えるが、ランはエトルリアを裏切るつもりだ。今すぐにではないだろうが。幽閉中やつとルカディウスが何度も会ってたのを知ってる。その間に何らかの密約でも交わしたに違いない、あの馬鹿は。きっと……せっかくメビウス軍という心強い共闘相手がいるっていうのに何だかんだ言って引き離し、別行動を取るつもりだ」
「よく読んでるな。それで軍議が嫌だなんて、本当にお前は戦うことしか好きじゃないんだな」
 アルドゥインの皮肉っぽい賛辞に、アインデッドはくすぐったそうな、それでいて暗いものを秘めた瞳で彼を見つめた。
「とにかく、もう軍議には出ないんだな? まあいいよ。お前がいなくても大丈夫だと当の本人が言っているなら。俺は出ないわけにはいかないけれど」
「よし、判った」
 アインデッドは頷いた。
「それなら、おとなしくいい子にして軍議の終わりを待ってるよ。なるべく早く切り上げてほしいけどな。ちょっと相談したいこともあるし。それに――」
「……?」
「それに、何と言っても久しぶりだからな」
「ああ」
 心からアルドゥインは言った。
「本当に、久しぶりだな」
「早く来いよ。俺が酔いつぶれて寝ちまう前に」
 アインデッドは言った。
「それはお前の軍師の腕次第さ」
 アルドゥインは笑った。アインデッドはアルドゥインと《金の鳩》亭の会議室まで一緒に行き、広間の前まで彼を見送った。だがドアを閉めた瞬間に明るくなっていた顔がまたふっとかげり、特に何処がどう変わったというのでもなかったが、微妙な変化が彼を訪れた。それはちょうど再び逃れかけていた憂悶の手がゆるやかに彼を捕らえたかのように見えたのだった。
 その夜、約束どおりアルドゥインが酒の壺をみやげにアインデッドの部屋を訪れたのはずいぶん遅くになってからであった。シナリオどおりの軍議とてもやはり会議であり、紛糾すればするほど長引くのはしかたのないことであった。
 アインデッドはずっと一人で酒を飲んでいたのでかなり酔っぱらっていたが、それでも話ができないほどではなかった。それにアインデッドとしても、せっかくのアルドゥインと話せるチャンスを自分の酩酊でふいにはしたくなかったのだ。
 それで、かなり気をつけて自分をコントロールしながら飲んでいたので、彼は誰かが扉を叩いたとき、やっとアルドゥインがやってきたのだと思って飛び起きて扉を自分で開けた。
 旧友とゆっくり、ラトキアにいてはできない昔話を楽しみたかったので、当番の小姓も遠ざけてたった一人で待っていたのだ。そんなわけで、戸を開けたとき、そこに心配のあまり顔を真っ青にしたルカディウスを見つけた時には、アインデッドは失望と怒りのあまり恐ろしい形相でうなった。
「す、すまない。眠っていたのか?」
 おどおどしながらルカディウスは叫んだ。アインデッドはすさまじい顔をしてみせた。
「何の用だ」
「いや、ただ、軍議の結果の報告をと思って」
「俺がそれをどんなにか知りたいだろうと思って、親切にそのけったくそ悪いつらを見せに来たわけか」
 アインデッドは獰猛に言った。
「あいにくだが俺はそんなものに興味はない。どうせお前の筋書き通りの話なんだろう。俺が知る価値のあることは明日どのくらいの軍勢を率いてヒダーバードを攻めればいいのか、それともナーディルを追ってイズラルを攻めるのか、そのくらいだ。さっさと言え。そしたらそのとおりに動いてやらあ。――もっとも、ナーディルをペルジアのどれかの公女にくれてやって片付け、さっさとシャームに戻れなんていう馬鹿な命令だったら、どうしたって従えねえがな。まあそんときゃ自分の手勢を率いて街道暮らしに戻るが。いいか、俺はそうしたくてたまらねえんだからな」
「アイン、アイン、めったなことを……」
 慌ててルカディウスは言った。アインデッドは気にも留めなかった。酒がかなりまわっていたので、しらふの時よりずっとルカディウスに我慢しやすくなっていたのだ。
「いいからとっとと言っちまえ。お前の寝床はここじゃねえだろ。明日の何刻にここを発つことになったんだ?」
「ルクリーシスの三点鐘に」
 ルカディウスは慌てて答えた。それから声を低めた。
「何とかうまくやった――と思う。ラトキア軍はメビウス軍とともにゼア砦とヒダーバードを攻め、落ち次第メビウス軍はヒダーバードに残り、ラトキア軍はエトルリア軍と合流してイズラルを攻める。俺としてはランがこの分担に賛同するとは思っていなかったから、非常に満足している。――もちろん、この連合軍の総司令官がお前だということはしっかり主張したし当然だろう。ただ、ランは少し不満らしいが。問題はとにかくメビウス軍で、イズラルを落とす時先陣を取られては困るからな。それさえなければあとは満足ゆく展開になる」
「お前の言うことを聞いていると、まるでペルジアってのは国じゃなくて切り取り自由のケーキか何かみたいだな」
 アインデッドはそっけなく言った。
「まあ、いくさは生ものだってことを忘れたことはないぜ。――まあいいや。じゃあ俺は当分はアルドゥインと一緒に戦えるって事だな。それさえ聞けばあとはどうだっていいさ。それじゃお前はサナアに行って、とっとと軍隊を連れて戻って来い。俺はヒダーバードに直行する」
「まあ、それでもかまわんと思うが」
 ルカディウスは奇妙なねじくれた満足と不満がいりまじった表情を見せながら言った。
「ともあれ、今日の軍議の結果がそういうことになったと報告しておくから――これからアルドゥイン将軍と一夜飲み明かそうというわけか?」
「てめえの知ったこっちゃねえ」
 と言うのが、アインデッドの薄情な応えであった。
「これ以上くっちゃべることがねえならさっさと手前の寝床に戻れ――俺はまだ当分寝ないし、お前と添い寝だけは舌を噛んででもお断りだからな」
「あまりひどく飲み過ぎないよう願いたいが。アルドゥイン将軍のほうが見たところ酒に強そうだが……」
 陰険に目を光らせてルカディウスは言った。アインデッドは無視した。
「さあ、行けよ。さぞかし大好きな陰謀をたくさんできて幸せだろう」
「たくさんというほどでもないさ」
 ルカディウスはアインデッドがいつもよりも、ずいぶんと機嫌が良さそうだと見て取って、上目遣いに見上げながら言った。
「それに、陰謀と言うほどのことは今回は必要なさそうだし。ランさえつまらん動きをしないようだったら、俺はシャームに戻ろうかと考えている」
「それがいい。そうしろ。そうすりゃ俺も飯がうまくなる」
「また、そんな冗談を」
 ルカディウスはおとなしく言った。アインデッドは歯をむいて笑った。
「冗談だと思うのか? 本当に」
 だがルカディウスは慌てて逃げ出してしまったあとだった。アインデッドはくっくっと笑い、扉を閉めようとしているところへ、廊下の向こうからこちらに歩いてくるアルドゥインの姿を見つけたので、急いで差し招いた。



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