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「閣下、閣下――アイン!」
 背の高さゆえに、歩幅も大幅に違うアインデッドとルカディウスでは、ルカディウスが小走りにならなければ一緒に並ぶ事ができなかった。それで、ルカディウスがやっとのことで彼に追いついた所は出口に近い廊下であった。ルカディウスがその腕を掴むと、アインデッドは熱い物が触れでもしたような激しさで振り払った。
「戦士の腕に気安く触れるなと言ってるだろう」
 アインデッドはやっとルカディウスの方を、初めてまともに見た。その燃えるような敵意に満ちた眼差しに、ルカディウスははっと身をすくめた。
「す、すまない。いったい何が気に……」
「何も気にくわねえことなんかねえ」
 アインデッドは冷たく答えた。
「俺はサナアに戻ると言っただけだろう。もうあんな茶番の道化芝居には飽き飽きした。何かお前に迷惑を掛けたか? お前はあのくだらん軍議でお得意の弁舌でもふるってりゃそれでご機嫌なんだろうが。いいからさっさと軍議に戻れ――その軍議が終わってる頃には俺がゼアを一人で陥落させて待っててやるからな」
「アイン――アイン! なんて無茶なことを。アインデッド、それじゃひどすぎるじゃないか。俺はお前のためにこんなにしてやってるのに。これじゃ何のためにここまで来て何をやっているんだか……」
「てめえにゃいつだって判らねえことが多すぎんだよ」
 アインデッドは言った。
「そこをどけ。俺はサナアに帰る用意をする。一応百人程度は連れていくが、後は面倒だからお前のために残しておいてやる。感謝しやがれ。ああ、最初からお前に全て任せておけば、こんなくだらんことで一日無駄にせずに済んだのにな」
「頼むからアイン、戻ってくれ。お前が今ジムハエから離れたりしたら……」
「何で俺がここにいなきゃならねえんだ?」
 アインデッドは思い切り顔をしかめた。
「というより俺は何のためにこんなジムハエくんだりまで来なきゃならなかったんだ? まったく……ここまで来て……」
(ここに来たらアルドゥインとまた会える……だが会って何をしたいと俺は思ってたんだ? 今じゃ俺にもアルにも、互いの立場ってものがあるのに……)
 アインデッドは唇を強く噛み締めた。
「もう明日の朝にはどうせここを発つんだから――もしもう軍議がたくさんだというなら、ここで何をしていてもいいから。村の女なんかを調達させようか?」
「馬鹿野郎。結構だ。いくさの最中なんだぞ。ましてやここの田舎女なんて誰が見向きするか。俺を馬鹿にするのも大概にしておけよ」
「それじゃ……それじゃ酒を届けさせる。だから今日一日は我慢してくれ。頼むよアインデッド」
「なぜだ? なぜ俺がいないといけないんだ? お前はいつだって俺の知らない所で俺に知らせるでもなくあれこれ陰謀だの何だのをしてるじゃないか。今更俺がいないと駄目だとはどういうことだ」
「そ、そういうわけじゃ……ただ、ほら、途中ペルジア軍が襲ってきたらどうしようもないし。それにお前を一人でサナアに戻らせたら何をするか判らなくて心配だし……」
「ひとのことをお姫様か、救いようのない大馬鹿みたいに言いやがって。俺を誰だと思っているんだ」
 アインデッドはほとほとうんざりした。
「俺がペルジア軍に襲われやしないかなんて、どういう料簡で口を利いてやがるんだ、貴様は。俺を誰だと思っているんだ――誰だよ、ラトキアの右府将軍は? 貴様じゃない。俺だ。貴様なんぞ自分では剣も取れない最低の野郎じゃねえか。そんな野郎に心配されるほど俺は落ちぶれちゃいねえよ……。それに何だ? 俺が席を蹴って出て行ったって? 俺はあんな茶番劇には付き合いきれんから、一足先にサナアに戻るだけじゃねえか。これほど理性的で合理的な話があってたまるか。ともかくあんな会議、何昼夜続けたところで無駄だ。もうたくさんだよ、サライルの手下め」
「だ、だから、今夜一晩だけ我慢してくれれば……」
「何のために? 誰のために」
「俺の……」
 言いかけて、ルカディウスはかえってそれではアインデッドの神経を逆撫でするだけだと思い直したが遅かった。
「貴様のためだと? 貴様のために一秒でも我慢しろと言うのなら、俺は即刻自分の剣で自分の首を刎ねるまでだ」
 アインデッドは言った。もうすでに激昂しても声を荒げるような事はなく、むしろひどい言葉を言うたびにその声は低く、静かになり、蒼白な面持ちになって見るものを怯えさせた。
「お、俺のためじゃない。何のためでもいいからとにかく今日だけは我慢してくれ。戻ってからなら何でも好きなことをしていい、どんなひどいことでも構わないから。だから何でもいいから」
「どういうことだ? その何のためでもいいからとか、どんなひどいことでも構わないとかっていうのは? 貴様はいったい何を考えてるんだ? 俺を一体なんだと思っていやがるんだ」
「そうじゃない、――俺の言い方がまずかったなら――」
 静かに、優しいと言ってもいいような口調でアインデッドが遮った。
「一体誰が命令してるんだ。お前は俺を意のままに操縦できるとでも思っているんじゃなかろうな。だったらそれは大間違いだ。いい機会だからこの際言っておくがな、俺は髪の毛一筋たりともお前の思い通りにはされねえ。お前は絶対に俺を自由にすることはできない。俺に命令できるのはシェハラザードだけだ。それも立場上仕方ねえから従ってるまでだ。それ以外誰の指図も受けん。とりわけ貴様にだけは絶対にだ。そうなるくらいならさっきも言ったとおり、自分の剣で自分の首を刎ねてやるまでのことだ。貴様の思い通りに操られるくらいならな。貴様はなぜ、俺が自分の思い通りになるなんていう馬鹿な幻想を見てやがるんだ、ええ?」
「そ、そんな――そんなことをいつ俺が」
「いつもだよ。お前はいつもそうしてんだよ」
 ルカディウスは哀れみを請うような目でアインデッドの美しいおもてを見上げた。アインデッドはいかにも汚らわしいといったふうに顔をようやく背けた。はたからはずっと彼と向かい合っているように見えたが、実のところ一回も目を合わせずにいた。
 露骨に目をそらすよりも相手を傷つける視線のそらし方だった。彼は前よりもルカディウスと仲良く、落ち着いて見えたが、その意味では最近のアインデッドは前よりもずっと厳しい性格になっていた。
「ともかく、こんなふうに中座したままじゃ、このあとメビウスとエトルリアの間でどんな談合があるかわかったものじゃない。……俺は戻らないわけにはいかないし、アイン、お前はラトキアの司令官で寄せ手の大将なんだから……」
「やめだ、やめ。全部やめたんだ」
「アイン、アイン! 頼むから……」
「黙れよ」
 アインデッドはなおも低く言った。はたから見ていても、まさかこの、何も知らぬ者にはごく普通の主従にしか見えぬはずのラトキアの総司令官とその副官が、これほど激しいやりとりをしているとは想像もつかなかっただろう。アインデッドは穏やかに見えたし、ルカディウスは焦っても声を大きくするような事はなかった。
「アインデッド、これはお前のためでもあるんだよ。だから聞き入れてくれよ」
「俺のために、ね。そういう大義名分で、お前はきっと人殺しだの虐殺だの拷問だの、好き放題をしてるんだろうな」
 ルカディウスはその言葉に、ぎくりとしたように一瞬身をこわばらせた。アインデッドは鼻先で笑い、踵を返した。その腕をまた掴もうとしたルカディウスの手を、やられた本人以外には全く判らない自然な動作で避けた。
「アイン……」
「俺はサナアに戻ると言っただろう。そんなに心配なお前の帰りのために旗本隊を半分残しておいてやるから。いや、もうやめだ。ペルジア攻めもナーディルもアクティバルのくそ親子も、ラトキアの右府将軍ももうたくさんだ。俺はやっぱり一介の傭兵として生きていくだけでいい。好き勝手できるからな。サナアにももう戻らねえ。シェハラザードにもそう伝えておけ。なに、あいつだって俺がいつまでもおとなしく飼われているだけの男とは思っちゃいねえ。ほら、どかねえか。俺は俺の道を行くんだ」
「アインデッド、マリエラとかいう吟遊詩人に会わなくてもいいのか?」
「マリエラ?」
 アインデッドはちょっとたじろいだ。ここぞとばかり慌てふためいてルカディウスが攻めかかった。
「何か昔に会ったから、思い出話がどうのと言っていたじゃないか。もうすぐ見つかるはずだ。俺の配下に探させている」
「……マリエラ。ああ、あの女か。もういいんだあの女のことは」
「え……?」
 次はルカディウスがたじろぐ番だった。アインデッドはこれまでにないほど穏やかな、この世のものらしからぬ翳りを浮かべた。
「昔の知り合いに会って、過ぎたことを語るなんて俺らしくもない。まして恋人でもなかった女となんてな。その部下とやらは引き上げさせろ」
「そ、それならそうする」
 多少なりともアインデッドが落ち着いてきたと見て、ルカディウスはいっそう必死になった。
「ともかく会議室に戻ろう。な? もしお前が軍議なんか出たくないと言うなら、なるべく早く、なるべくラトキアに有利なように話を決めるから。……もともとランとは話を付けていたんだが……もしどうしてもジムハエで一夜泊まるのがいやというなら、夜がけのつもりでジムハエを発ってもいいんだから」
「何もここで一泊が気に入らないと言ってるんじゃない」
 むっとしてアインデッドは言った。
 彼の本音としては、ひたすらアルドゥインに会いたい一心でわざわざこんな所に足を運んだのであった。
 そしてとにかくたどり着いた待望の戦場であるエルザーレンから、みすみす敵のナーディルたちをヒダーバードに逃がしてしまったままでも待ったアルドゥインとの再会のイメージ――それが、このあまりにもしゃっちょこばった公式会見からかけ離れていたのだった。だからこそ彼はまったく失望し、かつもううんざりしてしまったのである。
(だからって……何も俺は)
 彼と顔をあわせた瞬間、アルドゥインがどのように振舞うかというはっきりしたイメージがあったわけではない。サライとは違ってアルドゥインと彼とは、何のわだかまりもなく別れてそれきりであった。
 サライとのことがいつまでも彼の心に残っていて、ことあるごとに記憶から蘇って彼を悩ませ続けていたので、それだけに、サライとの記憶を共有しているアルドゥインに会うことで多少なりとも気持ちの整理ができるのではないか、という漠然とした期待があったのだ。
 その密かに期待していたアルドゥインとの再会に、ルカディウスだのランだの、またいろいろ何とやら副官だのなにがし隊長だのといったおまけがぎっしりと居並んでいて、そのせいであるのかどうか、アルドゥインが全く落ち着き払っていて、あたかもそんなアインデッド将軍などは過去会ったことも言葉を交わしたこともないかのように振る舞った――それへの子供っぽい失望が、彼をいっそう依怙地にさせているとはルカディウスにも推し量る術はない。
(俺は一体何を期待していたんだろう。一体何を――奴のどういう反応を……)
(俺を見るなりあいつが駆け寄ってきて手を取り合い、俺を抱きしめ、神の導きによって再び会う事ができた、これからは共に戦おうとでも言って、感動の涙にくれるとでも? はっ、馬鹿馬鹿しい――あれがそんな殊勝なことをするタマかよ。俺がいちばんよく知ってるはずだぜ)
(アルドゥイン)
 全ては何と遠い昔の物語の一こまになってしまったのだろう――
 一瞬、アインデッドの緑の瞳は夢見るように遠くなっていた。彼は目の前にいるルカディウスのことすらその瞬間失念していた。――もしその彼をセリュンジェが見ていたら、ふいにアインデッドのそのするどい顔が妙に若々しく、初々しく、頼りなげにさえなり、全く異なった人格がおぼつかなげにその顔をのぞかせるのを見てずいぶんと驚いたことだろう。
(オルテア――そうだ。あれは雪の中のオルテアだった。あいつがあの曲がり角で消えてしまうまで手を振って)
(俺はじじいみたいにこの間からずっと昔の追憶ばかりに浸っている。昔を今に返せるみたいに……アルに会いさえすれば全てが良くなるとでも思っていたみたいに……いや、全てが良くなるだって? じゃあ何が良くないと俺は思っているんだ? 話が逆だ。あの時オルテアで俺たちが別れ、それぞれの道を選んだからこそ、俺はラトキアの右府将軍になったんだ。それをなぜ……?)
 アインデッドのおもてから、一瞬その若い、初々しい《災いを呼ぶ男》のおもかげが失せ、ふしぎな苦い翳りを帯びた皮肉な表情が戻ってきた。その緑の瞳はやわらかさを失い、またあの暗い、離れない憂愁の翳りを帯びはじめていた。


(2010.10.30)

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