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「ルノーがここにおりましたのはほんの半日のことで、わたくしがリュアミル様らしきお方をお見かけすることはかないませんでしたが、厳重に警備させた馬車を一つ、伴っておりました。あれがオルテアで大それた事件を起こしたらしいという噂は既に届いておりましたので、まさかと思いましたからルノーを問い詰めて開けさせようとしたのですが……このように」
 コレットは腫れた左頬に触れた。言葉を濁したままで終わらせたが、何が親子の間に起きたのか、アルドゥインは尋ねることをしなかった。ほんの数秒、彼女は下唇を噛み締めるようであったが、すぐに続けた。
「ですから、そこにリュアミル様がいらっしゃったのだと、わたくしは思っております。それから、ルノーの向かった先についてでございますが、あれはわたくしに一言のほのめかしさえ言い残しはしませんでした。ヤナスとヌファールに誓って、わたくしは存じ上げません」
 目を伏せるようにして彼女は言った。アルドゥインは内心の深い失望を、辛うじて表情にはほとんど出さなかった。だが思わずついたため息は何よりも雄弁に彼の心中を語っていた。コレットは慌てて付け加えた。
「ただ、南西の方角に向かうようでしたが、それ以上のことはわたくしには……。申し訳ございません」
「南西と仰ったか」
 鋭く聞きとめて、アルドゥインは問い返した。
 南西と聞いて、ルノーは国外に逃亡するつもり――というよりも、すでに逃亡したのだとアルドゥインは判断した。ブランベギンはレント山脈を国境線として持つ地方である。国外に出るには山を越えるか、麓を迂回するしかない。
 どちらのルートを採ったかを想像するに、明らかに慌てて城を放棄したルノーが、山越えの装備を万全に整えていたとは考えがたい。夏に間近いリナイスの月とはいえ、レントはその最も低い峠でも万年雪を戴く高山である。であればルノーが採った道は一つ、山脈を迂回してペルジアに抜ける一般の街道であろう。
 こちらはレント山脈の北と南、二方向にレント街道が通っている。アドリヴンから近い北街道は、山脈の北側を回ってペルジアに至る、オルテアとイズラルを結ぶメビウス‐ペルジア街道。
 タギナエ州に沿ってアヴァール森林地帯を抜ける南街道は、二年前にアルドゥインもサライやアインデッドたちと共に通った、オルテアとカーティスを結ぶレント主街道である。南街道は平易であったが険しい峠を避けているので距離が長く、北街道の方はそれよりも高低差が大きい道のりだったが直線距離にしてずっとペルジアに近い。
(どちらを行った……?)
 縁戚や協力者を探し、頼るのだとすればクラインに向かうだろうが、すぐにも別の国に逃げ込みたいのならペルジアを選ぶだろう。どちらを選ぶにしてもそれなりの理由が考えられる。
 その場で考え込んでしまったアルドゥインに、コレットはおずおずとながらこの夜はこの城で休んではどうかと勧め、ルノーの足取りが掴めるまで協力を惜しまないということを告げた。
 目的地が判らないままでは動きが取れないのは当然だったので、アルドゥインはこの申し出を受けることにした。ただちに伝令をかけて市外で待機していた第一から第三までの部隊をいったん集合させ、南西方面に偵察兵を出して情報を集め、はっきりしたことが判るまでは城内とその付近とに分かれて野営することに決定した。
 同時に、オルテアに向けてはルノーが国外逃亡した可能性が高いので、このまま国境を越えることになるだろうという経過報告を送り、長期の国外遠征になるかもしれないという見通しを告げておいた。
 国外遠征の許可は出ていないが、皇太子の奪還について全権を与えられているので、大規模な対外戦争に発展しないかぎりは事後承諾だけで充分であろうし、介入拒絶の姿勢をメビウスが既に取っている以上、協力は望めなくとも他国を相手取る事になる可能性は低かった。
 アドリヴン城の、おそらく賓客をもてなすための豪華な一室を寝室に提供されたが、アルドゥインは全くといっていいほど心も体も休まらなかった。この場所にリュアミルが一時でもいたかもしれない――そう思うだけで、心は張り裂けそうだった。煩悶と苦悩の合間に意識を失うように眠りはしたものの、それは短く途切れ途切れのものにしかならなかった。そして瞼の裏にはまるでその光景が焼き付けられたかのように、闇の深淵で助けを求めるリュアミルの姿が離れなかった。
 待ち望んでいた報告は、斥候を放った翌日の昼過ぎに早速もたらされた。
 アドリヴンから南西に二十バル下った場所にある村で、ブランベギン騎士団らしき武装した一隊が北街道をペルジア方面へと向かっていくのを見た農民が何人もいるというのである。この情報を持ってきた斥候は抜け目なく、その軍勢の外見や構成なども聞けるかぎり聞き出していたので、コレットやフォラリウスから得たブランベギン騎士団と傭兵団の様子と照らし合わせるのは容易だった。
 そこで農民たちの目撃した軍勢はルノーが率いる一軍であり、目的地はペルジアであると最終的な判断を下した。
「反逆したならば、普通はおのれの領地を拠点にして戦おうものを、ペルジアに逃亡するとは――。一体何をする気でしょう?」
 アドリヴン城の広間を借りての軍議で、この疑問を最初に投げかけたのはヤシャルであった。隣に座っていた第四隊第一千騎長ネイクレードが口を開いた。
「母の身を案じて、戦いの場を他所に移そうとでも言うのだろうか」
「馬鹿な。その母親に手を上げるような男だぞ。先のことなど考えもせず、ただ逃げ出しただけに違いない。どちらにせよ、追って捕らえるのが我々の使命だ」
 これは、さらに右隣の第二千騎長エウスタスの言であった。
「しかし大義はこちらにあるとはいえ、そうなればペルジアに対する示威行為になりかねない。ここはまずペルジアに捕縛と引渡しを求めるのが筋というものでは?」
 少々気が立ったように言うエウスタスに、二番隊第二千騎長のスガンが穏やかに返した。エウスタスは強い口調で反駁した。
「だが、スガン殿。あのペルジアが要請どおりに行動してくれるなどとは考えがたい。干渉せぬ代わりに協力もせぬと言ってくるかもしれないし、悠長に返事を待っているその間に、皇太子殿下の身に万一のことがあっては元も子もないではないか」
「まさか、それは……」
「いや。エウスタスの言うとおりだ。その『まさか』を念頭に置いた上で行動すべきだと、俺も思う」
 絶句しかけたスガンの言葉の上から、アルドゥインが言った。その声は恐ろしいほど平静だった。
「ペルジアを信用していないわけではないが、ルノーが甘言を弄してペルジアを篭絡しないとも限らない。俺の考えは一つだ。できる限り速やかにペルジアに対し、ハークラー候一味の捕縛と引き渡し及びリュアミル殿下の保護を求めると同時に、我々自身もペルジアに向かい、リュアミル殿下の奪還を目指す。異存は?」
「ございません」
 列席する千騎長、百騎長たちは一斉に同じ答えを返した。アルドゥインはその目の中の覚悟が本物であるかを確かめるかのように彼らをぐるりと見回し、頷いた。
「ではこれより直ちに出立準備にかかれ。アドリヴン市南門前に総員騎乗の上集合し次第出発する。目的地はペルジアが首都、イズラルだ。これにて軍議は解散とする」
「はいっ!」
 隊長たちが続々と席を立つ中、アルドゥインはまだ残された仕事のために背後に控える小姓騎士を振り返った。
「グンデル、紙とペンの用意を」
「は、ここに」
「イズラルとオルテアに早馬を出す。伝令を選び出して、支度を整えておいてくれ」
「かしこまりました」
 たちまち差し出された携帯用筆記具の一式を受け取り、アルドゥインはペルジアのアダブル大公に宛てた書簡をしたため始めた。グンデルは命じられた用事をこなすため、足早に広間を出ていった。
 アダブル大公に求めたのは、彼自身が口にした応援要請と同時に、ペルジア国内におけるメビウス軍の通行及び軍事行動の許可であった。昨年の遠征の結果として相互不可侵条約と有事の協力を約したペルジアであったが、不可侵・不干渉はともかくとしてすんなり協力してくれるとは、アルドゥインは実のところほとんど期待していなかった。それに協力してくれたところで、仮に兵力がルノーの軍のそれに倍していたとしても助けになるかどうか、あやしいとさえ思っていたのである。
 ともあれその日のうちに、紅玉騎士団は再び南に向けて動き出した。
 ペルジアへと軍を進めるのは二度目、ルシタニアを通過するのはこれが三度目の事となる。去年には軍籍を離れた流浪の軍勢として押し通ったものであったが、今回は正式なメビウス軍としての軍事行動である。
 ペルジア国内に入る手前でイズラルから通行と軍事行動への許可が下り、アルドゥインは重ねて、メビウスからペルジアに入る際に最初の通過地となるルシタニアの領主サルヴィアスに面会を申し込んだ。
 国内の通行許可と共に、軍籍不明の武装した一隊がルシタニア領内に無断で侵入し、南下する形で通過していったというルシタニア伯からの報告をペルジア政府が伝えてきたからである。ルノーの率いるブランベギン騎士団であろうとアルドゥインは確信していたが、詳細な情報を得たいと考えたのだ。
 サルヴィアスからは、すぐに承諾の返答を持って案内の使者が来た。会談が済み次第速やかに全体行動がとれるよう騎士団をそのまま連れてきても構わないという、こちらに全幅の信頼を寄せた上での言葉に、アルドゥインは感謝しつつ甘えることにした。
 ルシタニア伯の居城スール城に着くと、用意のいいことにサルヴィアスは既に広めの一室に会談の準備を整えて待っていた。何かにつけだらだらと先延ばしにしたがったり、不必要な儀礼にこだわってもたもたしたりするのはペルジア人の特徴であったのだが、中には当てはまらないペルジア人もいるらしい。
 サルヴィアスの返事を持ってきて、ここまで紅玉騎士団を案内してきた使者の代表が、城内までアルドゥインたち一行を引き続いて案内してくれた。会議のために選ばれたのはペルジア風の細くて小さな壁の隙間のような窓にしては、数が多くて広めなのでかなり外光を取り入れることができる一室であった。
「お初にお目にかかります。私はサルヴィアス・ルシタニア。ルシタニアの伯爵であります」
「こちらこそ初にお目にかかる、サルヴィアス殿。俺はメビウス騎士団にて紅玉将軍を拝命つかまつるアルドゥイン・ヴィラモントと申す。こたびは迅速なるご返答と寛大なるお申し出をいただき、まことにかたじけなく存じる」
 挨拶を終えると、サルヴィアスはにこりと微笑んだ。率直な物言いといい態度といい、一目見てアルドゥインはこの伯爵に好感を抱いた。年の頃は三十代半ば、鹿毛を思わせる浅い茶色の髪と鉛色の瞳を持ち、背はあまり高くないががっしりとした体格である。彼には相手の心を穏やかにさせる、天性の柔らかな雰囲気が備わっているようだった。
「さ、お掛けください、アルドゥイン殿。貴公が誰よりも時を惜しんでおられることは私も承知しておりますゆえ、よろしければ直ちに始めましょう」
「重ね重ねのお気遣い、いたみいる」
 アルドゥインは頷いて、城の従僕が引いてくれた椅子に腰掛けた。程なくしてアーフェル水のグラスが二人の前に並べられた。前置きどおり、サルヴィアスは単刀直入に切り出した。
「書簡にてお伝え申し上げたとおり、軍籍不明の武装集団がオルテア‐イズラル街道を通過していきました。これは三日前、二旬の黒の日に街道筋から上がってきた報告です」
 待っていた言葉に、アルドゥインは表情を引き締めた。



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