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     我がハープは悲しみの音に変わり
     我がキタラは嘆きの声となる
     神よ我を許したまえ
     かの女が無ければこの上
     我が日々は何もなきゆえ
              ――エウリピデス
      「オルフェ」より《亡き妻を想う歌》




     第三楽章 追走曲




 ルノーからの実質的な宣戦布告からは、事態は急速に展開していった。ルノーはオルテアを出た後ただちに自らの領地ブランベギンに戻り、麾下のブランベギン騎士団四千騎にさらに傭兵部隊を千五百ほども雇い入れて加え、戦いに備えたのである。
 対する宮廷側も、当初からの予定を早めてリュアミルとアルドゥインの婚約を諸国に発表し、今回の派兵は皇太子を救出する戦いであると同時に、紅玉将軍にとっては婚約者を取り戻す正当な権利を行使するものである、ということを発表した。これは、他国には手出し無用という意味に加えて、ルノーの主張を支持して参戦しないようにという牽制の意味もあった。
 これが国外向けのパフォーマンスであった事はもちろんだが、メビウス国内でもハークラー侯爵家に縁の深い貴族が、ルノーを支持して援軍を差し向けないとも限らなかった。たとえ磐石に見えるイェラインの支配でも、突付かれれば全く揺るがないとは言えなかったのである。
 これにはサラキュールが一役買った。たしかに彼は海軍大元帥としては全くの内陸であるブランベギンをどうすることもできなかったが、アルマンド一族の長として国内、特にブランベギン領内と周辺の一族に手を回し、その影響下にある貴族を抑えてこの牽制をより確かなものとした。
 これらのことは、実際には誘拐が露見してから二日で起こったことであった。その間、アルドゥインは情報収集と出征準備のためオルテア城と公邸を忙しく往復した。どんなに気持ちが急いていても、あらかじめ準備を進めていたのでもない軍勢を動かすには日数がかかったのだ。
 そのうえ紅玉騎士団はこの年オルテア駐留ではなかったため、ほとんどの者には休暇が出ており、領地を持つ指揮官クラスの者は領地に戻っていたので、それらの者を呼び戻すにも時間がとられた。
「アルドゥイン殿、よろしければ私の瑪瑙騎士団を貸そう」
 人員集めに奔走するアルドゥインに、セレヌスが最初にそう言ってくれた。ロランドとソレールも代わる代わる頷いた。
「翡翠騎士団も使ってくれてかまわない。兵だろうと、装備だろうと、とにかく必要ならば何なりと言ってくれ、アルドゥイン殿」
「琥珀騎士団からも兵をお貸しします。それに、ハヴェッドはオルテアとブランベギンの間にあります。ハヴェッド騎士団にもお手伝いできることがあれば、僕から伯父と父に頼みましょう」
 三人の友情と言葉はアルドゥインにとって嬉しいものであったが、これはあくまで自分の戦いだから、と丁重に断った。
 それでも同じメビウス陸軍である以上、紅玉騎士団の戦いは自分たちの戦いでもあるとセレヌスは主張し、命じられたのが貴殿だからといって我々がリュアミル殿下を救う義務を免れたわけではないとロランドに言われ、さらには僕たちはあなたの戦友ではないのかとソレールが涙ながらに訴えたので、とうとうアルドゥインは折れた。
 確かに急ぐ必要があったので、三騎士団から馬とその飼い葉の備蓄を借りることにしたのである。移動に莫大な費用がかかるが、アルドゥインは歩兵を主体にせず、機動性を考えてほとんどを騎兵として連れて行くつもりであった。また、歩兵の移動にも馬車を使うことにした。
 結局限られた日数でかき集められたのは七千ほどであったが、それでも五千余のルノーの軍勢には充分対抗できると考え、アルドゥインは全ての指揮官、騎士たちの集結を待たず出征することを決めた。メビウス東南部出身、あるいはそこに領地を持つものならば、幾らかはブランベギンに到着するまでに合流できるだろうと踏んでのことである。
 四日目の朝、アルドゥインは出征の支度が全て整ったことを報告し、イェラインに出立の挨拶をするべくオルテア城に参上した。準備ができしだい紅玉騎士団が発つことは判っていたので、イェラインも多くを語ることはしなかった。
「武運を祈るぞ、アルドゥイン。リュアミルを頼む」
「はい」
 それから、イェラインは思い出したように付け加えた。
「昨夜トオサ女官長が意識を取り戻した」
「それは良うございました」
 ほっとしたようにアルドゥインは言った。
「リュアミルの事もともかく、そなたが戦いに赴くと聞いて、たいそう心配していた。発つ前に会っていって、安心させてやってくれ、アルドゥイン」
「かしこまりました」
 その程度の時間はあったので、アルドゥインはそのまま紫晶殿に向かった。トオサは動かすこともできない容態だったので、現場となった部屋の隣の部屋が俄かづくりの病室になっていた。
 アルドゥインが来るだろうということが内々に伝えられでもしていたらしい。取次ぎらしい取次ぎも無く、アルドゥインは速やかに宮殿の中、病室まで通された。
「お加減はいかがでしょうか、トオサ殿」
「アルドゥイン様」
 寝台の上で寝具に包まれて横たわっているトオサは、今まで見たこともないほどやつれて、弱々しく見えた。二日間生死の境をさまよっていたのだから、それも無理のないことと思われた。普段はきりりとひっつめてある茶金色の髪は解かれて、首筋の辺りでゆったりと一つにまとめられている。着ているものはあまり変哲の無い寝巻きのようなものであったが、そのわずかに見える胸元に、痛々しい包帯が覗いていた。
 胸の傷にもかかわらず起き上がろうとするトオサを、アルドゥインは軽く手を挙げて制した。
「ご無理はなさらぬよう。安静にしておられねば」
「このような体、どうなろうともかまいません。リュアミル様を守りきれなかった私が、どうして生きていられましょうか」
 トオサは涙ぐんだ。
「それは、俺も同じことです。……殿下の騎士を名乗るのであれば、俺こそがハークラーのような不逞の輩から殿下をお守りしなければならなかったのに」
 相手への怒りと、自分自身に対する憤り。その苦渋に満ちたアルドゥインの声に、トオサははっとして目を上げた。
「アルドゥイン様……」
 自らの感情を振りやるように、アルドゥインは微笑んだ。
「トオサ殿、ご自愛ください。リュアミル様はお優しい方です。あなたが傷つけられた事を深く悲しんでおられるだろうに、さらにあなたが亡くなられたら、いっそう悲しまれることでしょう。リュアミル様がお戻りあそばしたとき、元気なお姿を見せてさしあげてください。俺は必ず、無事の殿下をお連れして戻ってきますから」
「そう……そうですわね、アルドゥイン様」
 トオサの目が再び涙で潤んだ。
「どうか、殿下をお救いください、アルドゥイン様。ご武運をお祈りいたします」
 アルドゥインが神その人であるかのように、トオサは胸の前で指を組み、目を閉じて祈るようだった。もう一度、お大事にと告げてアルドゥインは部屋を辞した。
 紫晶殿の玄関ホールを出ようとしたところで、彼を待っていた女官がいた。彼の姿を認めると、彼女は小走りに近づいてきた。
「どうか私にお供させてください、アルドゥイン閣下」
 金髪と青い瞳を持つ小柄な女官は、両手を胸の辺りでぐっと握り締めて、アルドゥインを見上げていた。その海を思わす瞳は、なみなみならぬ決意をたたえて輝いていた。アルドゥインは首を振った。
「それはできない。あなたはセリュンジェの恋人だ。彼に相談もなく俺一人が許可できる事でもないだろう」
「セリュンジェなら判ってくれます。もしもそんな理解のない男なら、こちらから見限るまでです」
 ヴィダローサは激しく言い切った。アルドゥインはどう言って彼女を思いとどまらせたものかと考えあぐねた。
「ヴィダローサ、気持ちはありがたいが、これは遠征――戦いだ。こう言うのも申し訳ないが、あなたが手伝えるような事は何もない」
「いいえ!」
 ヴィダローサは頑固に言い張った。
「むろん、私には剣も矢も使えません。リュアミル様をお救い申し上げる戦いは、殿方にお任せいたします。ですが、お救い申し上げた後は、いったい誰がリュアミル様のお世話をなさいますのか?」
 虚を衝かれたように、アルドゥインは目をちょっと見開いた。彼が何も口を挟まなかったので、ヴィダローサは勢いに乗せて続けた。アルドゥインの背が人並みはずれて高い上に彼女は小柄だったので、まるで大人に子供がすがり付いているように見えた。
「紅玉騎士団がメビウス一の軍であることは私も間違いないことと信じております。閣下がメビウス一の騎士、中原の英雄であることも疑っておりません。でも、そのように荒事をこととする騎士団の方々にリュアミル様のお世話ができましょうか? 殿方に殿下をお任せする事など、女官の意地にかけて私は断固反対いたします。本来ならば女官長が行かれるのが最良なのでしょうが、それができぬ今、私が女官長の代理として参ります。女官長にもそのように申し上げ、お許しを頂きました」
 アルドゥインがなおも黙っていると、ヴィダローサは締めくくりの言葉を言った。
「戦いの間は絶対にお邪魔にならぬようにいたします。ですから、お願いです。私をお連れください、閣下」
 アルドゥインは少々、途方にくれたような表情を浮かべた。だが彼が黙っていたのはほんの数秒だけで、ゆっくりと頷いた。
「判った。ではリュアミル殿下のお世話係としてあなたを連れて行くことにしよう。だがさっきも言ったが、これは長い旅になるかもしれないし、危険の伴うものだ。乱戦となればあなたを守るというわけにはゆかないし、あなたとて無事にはすまないかもしれない。それでもいいのだな?」
「はい」
 おそろしくきっぱりと、ヴィダローサは頷いた。アルドゥインはその目に揺るぎのない決意を見た。彼女の申し出を断ることは、彼女のリュアミルへの忠誠を無下にするということになる。それをアルドゥインは理解した。
「では三テルだけ待とう。それでよろしいか?」
「はい。充分なくらいです」
 ヴィダローサは即答した。
 許可を得てしまうと、ヴィダローサは実にてきぱきと自分の仕事をしてのけた。トオサの代わりに先輩であるはずの女官たちを指揮してリュアミルのための旅馬車を用意させ、そこに皇女が日用に使う必需品のあれこれを全て積み込んだ。更には専用の湯浴み用の桶と石鹸といったものまでが馬車の下に括り付けられた。
 そして、リュアミルのための荷駄の準備は、むろんそれまでにヴィダローサが密かに準備を進めていたこともあって、三テルの猶予をもらっていたが、たった二テルで終わってしまったのであった。
 その仕事ぶりを見るかぎり、次の女官長はヴィダローサで間違いないようであった。彼女が用意したそれらの馬車と荷物は荷駄隊の中に組み込まれる事になり、彼女も荷物とともに馬車で移動することになった。
 ドレスでは動きづらいからと急遽どこからか用意したらしい男物の衣服は、小柄なヴィダローサには大きくてだぶついていた。長い金髪は結い上げず、後ろで一つにきっちりと束ねて、男装とまではいかないものの、きりりとした格好になっていた。
 ヴィダローサとその荷駄の到着を待って、紅玉騎士団七千は宿舎前の紅玉広場からブランベギンに向けて進軍を開始した。事情が事情であるので、市民たちが大掛かりに旗を振ったり歓声を上げたりして送るような事はなかったが、この日紅玉騎士団が出立することはあらかじめ布告されていたので、彼らが通る中央大通りはいつもより人が少なく、通る人々も両脇に控えて見送っている。
 遮るものもなく進んでいく通りの真ん中に、黒いしみのような姿がぼんやりと現れた。怪訝な顔で目を凝らしたアルドゥインは、やがて全軍停止を命じた。全ての部隊が止まった頃、その影ははっきりとした人の姿となり、アルドゥインの馬の前に立っていた。その顔に、アルドゥインは見覚えがあった。
「キャスバートではないか」
 驚いて、アルドゥインは声を上げた。
「王には、ご記憶いただきまして恐悦にございます。またわが師クラメリウスをお救いいただきましたこと、遅ればせながら深く御礼申し上げます」
 キャスバートは限りなく優雅な一礼をした。騎乗したままでは失礼かと思い、アルドゥインはひらりと飛び下りた。その長身と巨躯にもかかわらず、石畳に軍靴が立てた音は軽やかなものだった。
「一別以来だな。今度は何の用だ?」
「先を急がれる事は重々承知なれど、我が予言にしばし耳をお貸しいただきたく、こうして参りました」
「先にもらった予言はことごとく当たったんだ。もちろん聞かぬという訳はない。聞かせてくれ」
 アルドゥインが言うと、キャスバートは礼を言う代わりに頭を下げた。
「これより王が向かわれる戦いに、私が申し上げるべきことは多くございません。必ず、王は勝利をおさめ、ロザリアの姫を取り戻されることでしょう」
「それは何より心強い予言だ」
 微笑むでもなかったが、アルドゥインは表情を緩めた。しかし、キャスバートの予言は続いていた。
「ですがこのいくさには狼の星が深く関わります。その関わりようによっていくさは迅速な解決を見ることもあり、或いは逆に長引くこともございます。天狼は流転の星ですが、獅子の星が揺るがねば、獅子の星に従い、その助けとなります。獅子と狼は相容れぬこともございますが、それは互いに大きな力を持つためでございます。ひとたび相反すれば世界を揺るがす動乱ともなりますが、逆にその力を合わせれば天地を二つの星の下に従える事もできましょう」
「相変わらず、よく分からん予言なんだな」
 アルドゥインは困ったように言った。
「だが覚えておこう。獅子の星と、狼の星だな」
 キャスバートは頷いた。
「最後にこれは私よりのはなむけとして――。王よ。失われた友にはご注意なさってください。ひとたび失われたものは二度とは戻りませぬ。昔の友に心まどわされますな。そしてこの言葉をご記憶ください。彼は昔の彼にあらず――このことをどうぞお心に留めてください」
「彼は昔の彼にあらず」
 アルドゥインは心に刻み込むようにゆっくりと繰り返した。その間に、キャスバートの姿はかすみのように薄くなり、やがて完全に消えてしまった。
 後ろで黙って待っていたセリュンジェたちをはじめとして、アルドゥインの周りにいたものたちにとって《星見》のキャスバートは噂の中でしかその名を聞かぬ、半ば伝説めいた魔道師の一人であった。
 それがアルドゥインに対して王に相対するかのようにうやうやしく予言を授ける現場を見たのである。彼らの気分は否応なしに玄妙なものとなった。
 そして改めて、彼らを率いる将軍が常人とは何か違った運命を持つ人なのだということを感じたのであった。
 キャスバートの姿が消えても、アルドゥインはしばらく何かを思うように立ち尽くしていた。が、やがて後ろのセリュンジェに進軍を開始するように頷きかけて騎乗した。彼の騎乗を待って、また七千の騎士たちは粛々と動き始めた。



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