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 一方、リュアミルのもとには別の来客――もう一人の求婚者が訪れていた。ブランベギン候ルノーである。
 姉であったユナ皇后の失脚と不名誉のうちの自殺は、彼の宮廷内での地位と権力をかなり脅かしていたが、彼はそれにもめげずにリュアミルへの接近をいまだ諦めていなかったのである。
 普通の神経の持ち主なら、いくら自分は関知しておらず無関係であったとしても、しばらく領地に引っ込んでおとなしくしていようものである。
 だがルノーはその点よほどの無神経なのかそれとも大人物なのか、平然と宮廷に残っていたのであった。それも見方によっては、皇帝の目の届くところにいて、自分には後ろ暗い所は無いのだと強調してみせていると取れなくもないのだが、それにしては彼の態度は大きすぎた。
 むしろ、彼はリュアミルに敵対していた姉がいなくなったことを自分と彼女との結婚の障壁がなくなったものとして歓迎しているふうでもあった。姉の死を悲しむそぶりを見せぬことで、自分はリュアミルの味方であると示そうとしているようであった。
 しかしそれをリュアミルがどう思っていたのかというと、これは決して印象のよいものではなかった。
 たしかに彼女の母の命を奪い、父と彼女自身の命をも狙ったユナ皇后であったし、その死をリュアミルも正直に言えば心から悼む気にはなれなかったのは事実である。だがユナは彼女にとっては大切な弟であるパリスの母でもあった。
 パリスは父から禁じられていたので喪に服することはなかったが、母親の死をとても悲しんでいた。それが自分の姉と父を暗殺しようとした不名誉な罪によるものだということ、そこまで母親が思いつめていながら自分は何も気づかず、何もしてやれなかったことが、彼の優しい心をいたく傷つけていた。
 その事を思うと、姉が死んだというのに平然と自分に求婚を続けるルノーの言動は、リュアミルにとってあまり快いものでなかった。
 今日もルノーは土産の花束片手に、空々しいほどの愛の言葉を並べ立てていた。どうやって遮ったらいいものかはかりかねるほどの勢いだったので、リュアミルはとりあえず話が途切れるのを待つことにした。
 この部屋には今、トオサがもてなしの用意のために出て行ってしまったので、ルノーとリュアミルの二人だけであった。もちろん、身分高い女性である彼女が簡単に異性と二人きりになるはずもなく、扉一枚隔てた隣の間には、女官たちが何人か控えている。ルノーは周囲の好感を上げるためか、それらの女官たちにも毎度のように色々と手土産を渡していた。
「――と、私の気持ちはもう何度も申し上げ、お判りのはず」
「ええ、判っています」
 何となくとってつけたように、リュアミルは答えた。へつらうような笑みを浮かべて、ルノーは言った。
「まさかユーリースの巫女として生涯を終えると仰せではございますまいに、なぜ私との結婚を承諾していただけぬのでしょう? たしかに姉の不始末はございましたが、それと私とは無関係である事はご存じでしょう。それを除けば我がハークラー家は殿下のお相手としてけっして不足のないものと自負しております。今日こそはお返事をいただきたく存じます、リュアミル殿下」
「わたくしも、今日こそははっきり申します、ハークラー卿」
 ようやく発言する暇を与えられたリュアミルは昂然と頭を上げ、真っ直ぐにルノーを見据えた。
「どうあっても、あなたのお申し出は受けることができません。本日の朝見にご出席しておられれば、皇帝陛下が発表なさるのをお聞きいただけたでしょうが――わたくしはアルドゥインと婚約したのです。彼と結婚いたします」
「は……?」
 瞬間、ルノーはリュアミルの発した言葉を理解しかねたように、呆気にとられたような顔をした。その喉から、信じられないといったような気持ちを何とか言葉にしようとしたかのような、かすれた声が漏れた。
「アルドゥイン――ヴィラモント将軍と……?」
「そうです。ですから、たいへん心苦しく思いますが、あなたのご求婚はお断り申し上げます」
 言って、リュアミルは立ち上がり、優雅に一礼した。それは丁寧で礼にかなった態度であったが、はっきりとした拒絶を示してもいた。ルノーの顔は真っ赤になり、ついでみるみるうちに青ざめていった。
「では……致し方あるまい」
 彼は低く呟いた。その目が物騒に輝く。
「何かおっしゃいましたか、ハークラー卿?」
 男の放つ気配が変わったことに、リュアミルは気づかなかった。荒事には全く無縁な正真正銘の姫君、貴婦人である彼女が気づけなくても無理はなかった。
「きゃあっ!」
 やにわにルノーはリュアミルに飛び掛り、抱きすくめるようにその体を捕らえた。軍人ではないといってもその動きは充分俊敏で、リュアミルには予測もできなかったし、逃げる事もできなかった。
「誰と婚約しようがかまうものか。お前は私のものになるんだ」
「やめて!」
 ルノーはリュアミルの両手を片手で掴み、さらに引き寄せようとする。リュアミルはルノーの手を振りほどこうとしたが、抵抗を抑えつけるために痛いほど腕を掴まれただけだった。恐怖と痛みとで、リュアミルは表情を歪めた。
「来い! 来るんだ!」
「何をするの、放して!」
 リュアミルは必死にもがいて抵抗したが、もとより男の力にかなうはずもない。ずるずると引きずられて、窓の前まで来た。もがき続けるリュアミルを片手で制したまま、ルノーは窓のかんぬきを外した。そこからリュアミルを連れ出そうというのである。
「誰か……!」
 この次の間には、何人かの女官がいたはずである。この騒ぎに彼女たちが気づかないはずがない。それなのに、誰一人駆けつける気配がないことに、リュアミルはルノーの策略を感じ取った。
「女官たちに何をしたの」
 噛み付くように問うリュアミルに、ルノーはふと連れ出そうとする足を止めてにやりと笑った。
「私の味方する者が、一人もいないとでも思っていたか? そやつに――小うるさい娘どもがしばらく休めるような薬を焚いてもらったのさ。ついでに眠り薬入りの飲み物も渡してやった。しばらくは起きてこんだろうよ」
 それを聞いたリュアミルは青ざめた。つまり、それが誰であるのか彼女に知るすべはなかったけれども、ユナ皇后亡き後であっても、全ての女官がリュアミルに心から仕えているわけではなかったということである。姉のユナ皇后が毒薬に通じていたように、同じハークラー家の嫡男であるルノーもまた、様々な薬に通じていた。まさか侯爵ともあろうものの土産に薬が仕込まれていようとは、誰も想像すらしないだろう。その信頼につけこんでの卑劣な行いであった。
「卑怯な! おのれを恥じなさい、ハークラー卿!」
「つまらぬことを」
 リュアミルの抗議も、ルノーには通じなかった。
 そうして彼は、リュアミルを抱きかかえるようにして運び出そうとした。邪魔立てするものはいないはず――という油断が、ルノーに全くなかったとは言えないだろう。少なくとも彼は、次の間に留まらずに部屋を出ていき、そこを通らずに戻ることのできる女官がいたことを忘れていた。
「何をなさっておいでです、ハークラー候!」
 鋭い声が、ルノーの動きを再び止めた。そこにはティーセットを載せた盆を持った女官長――トオサの姿があった。
「助けて、トオサ!」
 リュアミルの顔にわずかながら希望の色が戻った。その言葉を聞く前に、トオサは行動に出ていた。
「リュアミル様!」
 手にしていた七宝の盆を、トオサは放り出した。派手な金属音とともに銀製のティーポットが倒れ、華奢なカップたちが粉々に砕けた。陶器の流す血のように、濃い蜜色の茶が床に広がっていく。トオサはそれを踏みつけて、ルノーの手からリュアミルを奪い返そうとして猛然と掴みかかった。
「殿下をお放しなさい、無礼者!」
「邪魔だっ!」
 ルノーは言いざまに懐に忍ばせていた短剣を抜き放ち、それでトオサの体を振り払った。灰色のお仕着せの胸に、毒々しい赤が広がる。リュアミルの目の前で血がしぶき、彼女の顔にもドレスにも返り血がはねた。
「トオサ!」
 ものも言わずどさりと倒れたトオサに、リュアミルは悲鳴を上げて駆け寄ろうとした。だが、ルノーは血に濡れた剣を掴んだままの腕で彼女の細い胴を巻き込むように捕らえ、もう一方の空いた手でうなじの辺りを殴りつけた。たちまち、リュアミルはがくりと頭を垂れて気を失い、男の腕に倒れこんだ。
 ぐったりとしたリュアミルを片手に抱え、ルノーは観音開きの扉になっている大きな窓から抜け出した。抜けた所は庭園になっており、今の時間は園丁も女官たちもいないことをあらかじめ調べてある。彼は植え込みの影に隠れるようにして足早に庭園を通り過ぎ、垣根の隙間に無理やり身を押し込んで抜け出した。主人を引きとめようとするように、木の棘にリュアミルのドレスが引っかかった。
「全く、面倒な」
 悪態をついて、ルノーは力任せに引っ張ってレースを引き裂いた。垣根を抜けた所に、彼は前もって馬を用意していた。彼は最初から、リュアミルを拉致する心算で紫晶殿を訪れていたのである。
 鞍の前にリュアミルの体を乗せてから、彼は馬にまたがった。それから彼女の体を起こして腕に抱きかかえ、遠目からは貴婦人を連れて乗馬しているかのような格好に見せかけた。
 そのまま、ルノーは一目散にオルテア城を抜け、光ヶ丘を駆け下りていった。それを見咎めた者は、不幸なことに一人もいなかった。
 主のいない部屋と、切り倒された重体のトオサを発見したのは、たまたま紫晶殿の外に出ていたヴィダローサであった。次の間に控えていたはずの女官たちは、香炉と飲み物に仕込まれた眠り薬のためにその時もまだ眠り込んでいた。
 たちまちのうちに、オルテア城は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。
 紅玉将軍との婚約を宮廷に発表したその朝のうちに、何者かに皇太子が連れ去られ、その女官長が斬られたのである。
 犯人が何者かを知るのは出迎えと取次ぎをして控えの間にいた女官たちであったが、彼女らは薬の影響で前後の記憶が曖昧になっており、尋ねられてもただおのれの失態にしくしくと泣くばかりであった。もう一人、何が起きたかを知っているはずの女官長は意識不明の重体であり、何かを聞き出すことなど不可能だった。
 ただちにオルテア市の全ての門には検問がしかれ、ヒューディブラス護民長官の率いる市中警備隊が全力を尽くして市内の捜索に当たったが、リュアミルの行方も誘拐犯人の足跡も杳として知れなかった。
 時を同じくして宮廷から姿を消したルノーに当然ながら疑惑は向かい、警務大臣のリスレヴァンド公爵が一隊を率いて彼の公邸に立ち入り調査を行った。しかしルノーはもちろん使用人に至るまで、屋敷にいたはずの全員が姿を消しており、リュアミルがそこに連れ込まれたという確たる証拠も見つからなかった。彼らがどこに消えたのかも一切不明のまま、その日は過ぎていった。
 事態が進展を見せたのは、翌日の朝だった。
「陛下! これを」
 早朝からイェラインは主だった武官、文官を集めて情報収集と事件の収拾のための会議を開いていた。そこへ、侍従が書簡を差し出しながら転がるように駆け込んできた。広間の入口近くにいたアテススタン外交相が、走り続けようとしているものの、疲労のあまり歩くよりも遅くなってしまっている侍従の手から書簡を受け取り、イェラインに駆け寄った。
 イェラインはもどかしく封蝋を破り、書面に目を走らせた。居並ぶ臣下たちにも聞かせるように、低い声ではあったがはっきりと読み上げる。
「――皇太子殿下の婚約はその意に反したものであり、殿下はここに自らの意思で婚約を破棄するとともに、我、ブランベギン侯爵ルノー・ド・ハークラーを真実の夫として選ばれた。そのゆえをもって我は正式に皇太子殿下との婚姻を宣言し、メビウス王の称号を求めるものである――だと? おのれルノー、よくもぬけぬけと」
 イェラインはくしゃりと紙を握りつぶした。リュアミルが自分の意思に反してオルテア城から連れ出されたのは現場に残された数々の証拠から明らかな事であり、ルノーの言い分に一分の正当性もないことは明白だった。
 更に新たな報告を持った近衛兵が駆け込んできた。おのれが皇太子リュアミルの婚約者であると名乗り、偽の婚約者を打倒し正式な地位を求めるという名目の下に、ハークラー候が兵を挙げたというのである。
 皇帝の傍らに立つアルドゥインの表情は常とあまり変わらぬように見えた。だがその目は隠しきれない怒りに、黒い炎のように燃えていた。その怒りを向けられているのは自分ではないと判ってはいるものの、目にした人がはっと身をすくめ、目をそらさずにはいられないほどの激しい怒りが人々の肌に感じられた。
「アルドゥイン」
「はっ」
 さっと裾をひるがえして、アルドゥインはイェラインの前に膝をついた。イェラインは彼の肩に王笏を当て、厳かに命じた。
「ルノー・ド・ハークラーのその行状、申し分は余に対する反逆のみならず、まことの婚約者たるそなたの名誉に加えられた冒涜である。さればメビウス皇帝の名において、紅玉将軍アルドゥイン・ヴィラモントに皇太子誘拐犯の捕縛と皇太子の奪還を命ずる」
「かしこまりましてございます」
 ひざまずいたまま軽く頭を下げ、アルドゥインは承った。
「――あるいは、リュアミルはすでにこの世にないものかもしれぬ。余には、その覚悟はできている。弔い合戦のつもりでことに臨め」
 その言葉に、アルドゥインははっとしたように顔を上げた。が、イェラインのそれと同じくらい決然とした面持ちで言葉を返した。
「陛下のお覚悟、このアルドゥイン、確かに承りました。されば俺も陛下に我が覚悟をお聞き入れいただきたく存じます」
「言うがいい、アルドゥイン」
「リュアミル殿下は必ず生きておいでだと俺は信じています。殿下を無事水晶殿にお連れして戻るまで、俺は決してオルテアの地を踏みません。もしこの誓いを守れぬ時には、俺はそれがどこであれ殿下のおわす所に参ります。この誓い、どうぞお聞き入れくださいますよう」
 それがたとえ地上のどこでもない場所――死の国だとしても、リュアミルを追う。その決意を、アルドゥインは告げた。イェラインは答えなかった。ただ無言でナカーリアとヤナスの印を切り、彼の誓いを許したことを示した。



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