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     美しい人、僕の心よ
     僕は貴女のために生き、貴女のために死ぬ
     貴女は運命の人なのだから
     貴女は僕の(いのち)、僕の死
     僕の運命がどうであろうと
     僕の生も死も、この身を捧げた貴女のもの
           ――「幸せな恋人たち」より




     第一楽章 皇女をめぐる輪舞曲(ロンド)




 六月は北国メビウスが本格的に春めく季節である。どんなに雪深い北の地でも根雪が融け、港を閉ざしていた流氷も消えて、紺碧の海が姿を現す。つまりは――若き海軍大元帥が内陸の生活に耐えられなくなる季節でもあった。
 サラキュールは三月にめでたくイルゼビルと華燭の典を挙げ、四月にリュアミルの誕生祝いの宴に出席し、そうしてようやくアラマンダに戻ったのであったが、二、三ヶ月に一度ほど、海軍の仕事の合間を縫ってオルテアに伺候することにしている。
 ほとんど半年ぶりになる船上での軍事演習や航海訓練などもつつがなく終え、流氷が消えると活動を始める海賊の鎮圧にも一段落ついたので、サライアの月三旬の半ばからサラキュールはイルゼビルを連れてオルテアに一旬ほど滞在する予定で伺候した。
 サラキュールは朝見でイェラインに伺候の挨拶をし、二ヶ月分の報告などの海軍大元帥としての仕事を午前中に済ませて、夕方は皇家主催のパーティーに出席した。この日の夜会は小規模なものであったが、領地のオブシディアに帰っていたベルトランや、このところ療養生活を送っていたため滅多に社交界に顔を出さずにいたアリアガも久々に顔を出しており、軍関係者の顔ぶれはずいぶんと豪華なものであった。
「お久しぶりですね、サラキュール殿」
「こんばんは、ロランド殿、ベルトラン殿、セレヌス殿。お変わりございませんか?」
「おかげさまで」
 それぞれの妻を伴った将軍たちが挨拶を交わしている横で、独身者で恋人もいないアルドゥインは何となく腕が寂しい気分を味わった。しかし将軍仲間ではソレールも独身なのだから、連れる女性がいないのは同じかと思ってその姿を探してみると、意外な光景が目に飛び込んできた。
 ソレールが白銀提督のアリアガと親しげに話をしているのは、同じメビウス軍の将だからさほど不自然なことではないとして、彼の左腕に軽く手を添えるようにして少女が傍らに立っていたのである。
 暗い銀髪からセラード系の血を引いていると思われるその少女は、年の頃は十七、八と見えた。ソレールと並ぶとずいぶん小さく見えてしまうが、彼の胸の辺りに頭があることを考えると女性としてはそれなりに背の高いほうだろう。何回かハヴェッドを訪れたが一度も見たことがない人物なので、親戚というわけではないらしい。
(てことは……)
 考えられる可能性は一つしかない。そう思いながら見ていると、ソレールの方がアルドゥインの視線に気づいた。アリアガに一言二言告げてから、毎度のことだが主人を見つけて尻尾を振る犬さながらに喜色満面で近づいてきた。もちろん、少女もついてきた。
「アルドゥイン殿!」
「やあ、ソレール」
 彼が恋人らしき女性と手に手を携えていることが面白くないアルドゥインは、取ってつけたような挨拶をした。しかしそれには気づかず、ソレールは笑顔のままアルドゥインの隣のサラキュールにも手を差し出した。
「お久しぶりですサラキュール殿! たった二ヶ月とはいえ懐かしい気がしますね。ああ、お話ししたいこととお聞きしたいことがありすぎて、どうしていいのか! 海ではいかがお過ごしでしたか? 今日はおいでになっていないようですが、ジークフリート殿はお元気ですか? ジークフリート殿のご活躍はいかがでしたか? あっ、いえ、もちろんサラキュール殿もさぞやご活躍なさったのでしょう? お二人とも、新しい武勇伝がまた幾つか付け加わったことでしょうね! いつまでオルテアに滞在なさるご予定です? よろしければまた僕と一手、お手合わせ願えませんか」
「うむ、それはまあ、都合のよいときにな」
 ソレールは二ヶ月ぶりとなるサラキュールにずいぶんと懐いた様子で――言葉のつながりがややおかしくて、空回りしている感があったが――再会の喜びを告げていたが、サラキュールは唇の端に苦笑いに似たものを浮かべているだけだった。サラキュールを助けてやるつもりなどなかったが、アルドゥインはそれとなく口を挟んだ。
「そちらの姫はどなただ? ソレール」
「ああ、ご紹介が遅れて申し訳ありません。彼女は僕の婚約者です」
 アルドゥインが尋ねると、ソレールは恥ずかしげに、しかし誇るような口調で傍らの少女を紹介した。
「私はエルセリア・デ・エストレイルと申します。将軍のことはソレールから聞いてよく存じております。以後お見知り置きを、アルドゥイン様」
 少女は微笑みながら一礼した。貴婦人らしく優雅な仕種であったが、どことない元気のよさは隠しきれなかった。燻し銀にも似た色合いの髪はふんわりとした形に結い上げられ、動くたびに涼しい音を立てる鈴のような髪飾りがそこに白銀の輝きを添えている。瞳は紫がかった青で、明け方の夜空のようだった。白い肌に映えて、その髪と瞳の色がより深みを増すようである。
 すらりとした身にまとうのは、数年前から流行している肩を大きく開けたデザインのドレスであった。それは落ち着いたロザリア色で、金の小さな蔓草模様が織り込まれている以外に大仰な飾りなどはないシンプルなものだったが、手の込んだレース刺繍が胸元や袖口に施されており、さりげない品の良さと高級感を醸し出していた。
「こちらこそよろしく、エルセリア姫」
 アルドゥインは彼女に応えて、エルセリアが差し出した手に軽く唇を近づけるだけで口づけはしない略式礼を返した。婚約者というのはだいたい予想していたので、それほど驚かなかった。
(こいつ、興味ないような顔をして、案外ちゃっかり婚約者なんかいたんだな……)
 しかし内心悔しいような思いがあったのは事実だった。アルドゥインとの挨拶を終えると、エルセリアはサラキュールの隣で話したそうな顔をしていたイルゼビルに近づいていき、若い娘らしく親しげにその手を取った。
「三ヶ月ぶりですね、イルゼビル! どうですか、アラマンダでの暮らしは?」
「聞かなくても察して欲しいわ、エルセリア。とても幸せよ」
 イルゼビルは早くも人妻の余裕を見せて微笑んでみせた――とはいえそこはやはりまだ十七歳の少女であったので、すぐにはしゃいであれこれとお喋りを始めた。そんな若妻をサラキュールは微笑ましげに――というか実際とろけんばかりの微笑みを浮かべて見つめていたので、アルドゥインはすっかり中てられたような気分になった。ロランドとベルトラン、冷たげに見えるセレヌスすらも妻に対しては同じようなものであるので慣れたと思っていたが、やはり目の前でやられるとげんなりきてしまう。
 彼の表情に気づいて、サラキュールがからかうような口調で尋ねた。
「どうした、アルドゥイン?」
「何でもない」
 ぷいと顔を背けたアルドゥインに、サラキュールはさらにしたり顔で続けた。
「さては羨ましいのか。そうだな、さもあろうよ。この中で決まった相手がおらぬのはおぬしだけだものな」
「誰がっ」
 むきになって反論するあたりでそれが図星であると露呈していたが、アルドゥインは気づかなかった。しかしこれ以上サラキュールと会話していると不用意な発言を引き出されたり、もっとからかわれたりおちょくられたりすることは目に見えていたので別の方向に逃げ道を探した。
「ところでソレール、お前の婚約者殿には今までお会いしたことがなかったが、エルセリア殿のご実家はどういった家なんだ?」
 ソレールはにこやかに答えた。
「アルドゥイン殿はご存じなくても仕方ないかもしれませんね。エストレイル家はエストレラ伯の遠縁に当たる子爵家で、港湾警備を代々なさっている家柄なので陸軍との接点はありませんから」
「なるほど」
 それで、先ほど二人がアリアガと親しく言葉を交わしていた理由や、彼女の苗字が『エストレラ』に似ている理由が判った。遠縁の姫君とその婚約者というなら頷ける。それに海軍関係者の娘であれば、黄金提督の娘であるイルゼビルと友人――恐らく、この様子からすると幼馴染みだろう――というのも何らおかしな話ではない。
「イルゼビルはずっとサラキュール様と一緒にいられるのですもの、羨ましいですね。私なんて、ソレールに会える日を指折り数えて待つしかできないんですよ」
「あら、そんな事はないのよ。だってサラキュールったら、アラマンダに戻ったらすぐに海に出てしまったのだもの。それはもちろん、二人でいられる時間は増えたのだろうけれども、陸に戻るのを待っているのは何も変わらないわ」
 言外に自分も早く結婚したいとほのめかしながら、羨む視線を友人に向けるエルセリアにイルゼビルは苦笑してみせた。そこにサラキュールが割って入る。
「私とて、本当は一刻も早く君のもとに戻りたいと願いながら海に出ているのだ。恋うる心は同じだよ、イルゼビル。だが逢えぬ日々がある分、共にいる喜びはより大きいと私は信じているが?」
「まあ」
 そういうものが苦手な人からしたら耐え難いような甘ったるい台詞であったが、サラキュールは涼しげな顔で言ってのけ、周りも毎度のことなので全く気にも留めなかった。一人顔をしかめたのはアルドゥインだけである。
「やめろよな、お前。こんなところで馬鹿みたいに惚気るのは」
「己の幸せを天下に知らしめて、何が悪い」
 たしなめたつもりだったが、胸を張って言い返されてはもはや返す言葉もない。アルドゥインはがっくりと肩を落とした。
「……もういいよ」
「対抗したいのなら、アルドゥイン殿も早く我々の仲間入りをすることだな」
 ロランドが慰めにもならない慰めの言葉をかけてくれた。
「はあ……」
 どう答えていいのか判らなくて、アルドゥインは曖昧な声を出した。今まで会話に加わらず遠目に見ていたセレヌスがにやりと笑った。
「ロランド殿、それはアルドゥイン殿の一存だけでは簡単に進められないことでしょう。皇帝陛下のご意向も関わってまいりますからね」
「それは確かに」
 ロランドは軽く首を縦に振って同意の意を示し、ベルトランは重々しく頷いてアルドゥインの肩を叩いた。
「大変だな、アルドゥイン殿」
「な、なな、何を言ってるんですか、セレヌス殿。それに何なんですか二人とも、その反応は?」
 アルドゥインはたちまち顔を赤くして食って掛かった。
「何と言われても、申し上げたとおりだが? 貴殿こそ何を慌てておいでなのかな?」
「それこそ言わずもがなのことでしょうよ、セレヌス殿。全く、こやつの奥手ぶりときたら、思春期の少年でももう少しはうまく立ち回れるであろうと思うほどですからな」
「お前は黙ってろサラキュール!」
 あまりと言えばあまりの発言に、アルドゥインは声を荒げた。とはいえ怒鳴りたいのは何とか我慢した。彼らの奥方、奥方予定の女性たちにくすくす笑われているのも恥ずかしい。穴があったら入りたいとはこのことだった。
 歯噛みしたいような気分で睨みつけていると、サラキュールはなだめすかすような笑顔で上座を指した。
「ほらアルドゥイン。リュアミル殿下がダンスフロアに下りられたぞ。行って参れ」
「いちいち腹の立つ言い方だな。俺は犬じゃないぞ」
 反発しながら、言われるまま足を向けている彼も彼であった。これ以上言い返してもさらにからかわれるだけだし、それなら後で笑われようが何を言われようが、リュアミルのもとに行った方がいい。そう判断して、アルドゥインはおざなりに挨拶をしてその場を足早に離れた。
(だけど……)
 そうして人々の合間をすり抜けながら、アルドゥインはふと遠いものを見るような目をした。
(結婚、か……)
 ついたため息は、何となく重いものだった。



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