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「早くしないと通り過ぎちゃうわよ、兄さん、ミカル義姉さん。エノシュはもう来てるのに」
 マリエラは朝から大張りきりだった。吟遊詩人の装いをあらためて、ラトキア娘らしく裾のふんわり広がる花柄のスカートに襟元に刺繍をした木綿のブラウスを着て、短めの髪をリボンで束ね、未婚の娘のしるしである赤い頭巾をかぶっている。こちらは既婚の女性らしく白い頭巾で髪を包んだミカルも同じようなブラウスの上から革のベストを着込み、ダンの手を引いて出てきた。
「アインデッド将軍の出兵だから見に行くって言ったのは兄さんよ。……あんまり嬉しいことじゃないけどさ」
 嬉しくないとは言いながら、人々でにぎわう場所に出ると心がどことなく浮き立ってくるのは吟遊詩人の性としかいえないだろう。マリエラは軽やかな足取りで先を歩いた。市門の開くのを待たされている連中が立て込んでいる中を、マリエラとダン、ミカル、それからエノシュは押し分けながら何とかして前の方に陣取った。
 人々はごった返していた。皆、この急なふれを聞いて、まだ正式に発表はされていないもののその重大さを察したので、急ぎの出発を止められてもあまり文句は言うに言えなかった。逆に救国の英雄、めったにこんな近くで見られない高貴の人が近々と見られる機会を得て娘たちはいそいそして騒いでいたし、また何が起こったのだろうと不安に駆られて声高に論じ合っている人々もいた。
 そして予定を変える通知を出したりあれこれの手筈をとらなくてはならない人々が、将軍の軍隊を見るためにいい場所を占めようとして躍起になっている人々を押し退けて人ごみの外に出ようと逆の動きをしたりしているので、辺りはなんだか人数のわりには大混乱になってしまっていた。
「痛いッ! 誰か足踏んだ!」
 マリエラはぶつぶつ怒りながらエノシュにかばわれ、前を見た。
「まったくアインデッドに関わると、ろくなことがないわ――」
「アインデッド? アインデッド将軍と言ったのか?」
 押し合っていた隣の男が目を輝かせて伸び上がった。
「おお、本当だ。来たぞ、皆の衆、アインデッド将軍の軍勢が見えたぞ」
「けっこうたくさんいるぞ……これは……」
「大きい戦になりそうね」
「ええっ。じゃあやっぱりあの噂は……」
「そんなことより、万歳を叫ばないの? ルアー・アインデッド! アインデッド!」
「ラトキア! ラトキア!」
 この軍勢が通り過ぎればまた予定に戻ることもできる。市門を出て街道の旅を続けられるのだ。それもあって、人々は大声で喝采を始めた。マリエラとダン、エノシュは顔を見合わせた。
 例によって人々の歓呼と喝采を浴びながら、黒尽くめなので黒い巨大な流れのように見える一隊は、かなりの速さで北西の市門に近づいてこようとしていた。黒騎士団の後ろには赤騎士団の隊列が続いており、黒と赤の流れはこれから起こる死と流血とを予感させ、どことなく不吉なものに見えた。
「アインデッド!」
「アインデッド将軍、万歳!」
「アインデッド――アインデッド!」
 いつものように盛大な歓呼の叫びが近づいてくる軍隊を包んだ。
「おお、将軍様だ」
「例によって黒尽くめで黒い馬に乗って――あれがアインデッド様だぞ」
「アインデッド将軍よ。ほら、やっぱり素敵な方」
 人々のあげる、割れんばかりの歓呼の声を、マリエラは密かにむっとしながら聞いていた。心の中はあれやこれやと乱れていたし、いまだに信じられない気持ちがあった。
(あの女ったらしの不良が、こともあろうに本当にラトキアの救世主と呼ばれる英雄になるなんて。たしかに腕は立つし、あたしも王になれ、なんて別れ際に言ったけど、まさかほんとに、よりによってラトキアで出世するなんて……)
「ルアー・アインデッド! アインデッド!」
 人々の叫び、喝采は耳を聾せんばかりである。それを聞けば誰であれ、この英雄が本当に心底ラトキアの人々に慕われていること、崇拝され、敬愛され、生き神様のようにさえ思われているということを疑うわけにはいかなかっただろう。
「お通りだ」
 ダンがマリエラをつついて囁いたので、彼女はびくっとした。
「いま通りかかるのがアインデッド将軍だ。よく見て、記憶にとどめておくんだぞ。その顔や姿、それが物語る人格を」
(もしあいつが前と全然変わってないってんなら、そんなものいやというほどよく知ってるわ)
 マリエラは密かに考えた。そうして小旗を振り回して熱狂している人々の間から首を伸ばして、進んでくる黒騎士団の隊列、その先頭に二騎の先触れを置き、両側に旗手を従えて一筋の混じりけもない黒馬にまたがって進む救国の英雄の顔を見ようとした。
「あ――」
(アインデッド)
 見間違うわけがない。
 時に喧嘩もしたけれど、ライラア島で別れるまで何度となく顔を突き合わせ、数ヶ月を過ごしてきたのだ。
 だが――
(アインデッド……)
 馬上にあるその人には、すでに大将軍の貫禄が充分であった。もとよりその漆黒のいでたちや、豪華な黒い金の縁取りつきのマント、軍服の胸に輝く幾つもの勲章、そのようなものがきわだって彼を他の騎士たちから隔てているのも間違いない。しかし、それだけではないことを、マリエラも認めざるを得なかった。
(あ)
 マリエラの目はふと、その彼の左手にひきつけられた。真っ白い包帯がその手を包んでいる。全身の黒一色のいでたちの中で、それは奇妙に目立っていた。
(怪我……してるんだ)
 戦場でもないのに、といぶかしんだが、しかしそれはちょっと手の不自由そうな様子とあいまって、不思議に彼をドラマチックに見せていた。だが彼は今まさにマリエラの慌てて下げた頭の前を、熱狂して叫び続ける群衆になど何の興味もないように、あたかもそれは人の壁が連なっているにすぎないとでもいうかのように、すでに支配者だけの持つ尊大で横柄な、自分の姿を一目見られるとはお前たちはなんと運がいいのだとでも言いたげな様子で通り過ぎてゆこうとしている。
 漆黒の見事な将軍の衣装に包まれ、そしてあらわになっている顔は、マリエラの記憶にあるとおりだった。痩せて鋭い目つきとちょっと皮肉そうに歪んだ口もと、そして白い肌と赤い髪、緑の目を持つ沿海州の狼その人であったが、しかし――。
(なんだか、あいつじゃないみたい。何て言うのかな。双子の兄弟みたいな……)
 マリエラがそう思ったとしても不思議ではなかった。かつてのアインデッドは美しくはあったけれども、およそこのような、憂愁の貴公子然とした雰囲気など薬にしたくとも持ち合わせていなかったものである。
 そのもともと痩せて頬の削げた線を持つ顔はいっそう痩せて鋭くなり、そのせいで長い睫毛が目立って少女めいた感じをさえ与えた。その目は鋭く、沿道の群衆など歯牙にもかけない様子であったけれども、それでいながらその端麗な横顔には不思議なほどの孤独と愁いのかげりがあった。
 彼はいかにも威風堂々として勇士、軍神の名に恥じないように見えたが、それでいながらどこかしら妙に儚げであやうい風情がその姿には漂っていた。その顔は美しかったけれども冷たく近づき難い孤独と闇とをまといつけていた。
 かつてあれほど徒手空拳でありながら自信たっぷりであった彼が、これほどの降るような栄光と人気と崇拝に包まれていながら、かつては全くなかった孤愁をそのおもてに漂わせていた。
 それはシャームの婦女子たちの胸をいたくかきむしってやまなかったもので、いまや彼女たちは彼の踏んだ大地をさえ拝みかねない勢いであったのである。
(あれがあの……)
 あんなにアインデッドの顔は美しかっただろうか、あんなに貴族的な感じがしただろうか。あんなに賢そうな、いかにも貴公子らしい雰囲気をまとわりつかせていただろうか。あんなに翳りと愁いを漂わせた、倦怠と伝説の英雄らしいオーラの魅惑的な混濁を――それがいっそう、彼のその物憂げな様子に帝王の風格を与えていたのだが――身につけていただろうか。
 そのような奇怪な、彼女にしてみれば大いに不快な驚きに打たれて、マリエラが立ちすくんでいたときであった。
「見たか。あれがアインデッド将軍だ」
 ダンに腕をつつかれて、思わずマリエラは自分の声が大きい上に良く通ることも忘れて返事をしてしまった。
「見たわ。あれがアインデッド将軍ってわけね。でもそれで……」
「しッ」
 慌ててダンが制する。その時、マリエラははっとした。いつのまにか、マリエラにさえまるで古代の英雄の美しい彫像のように見えていた彼の上に、霊おろしさながらに魂が戻ってくるのをマリエラは見た。
(――!)
 アインデッドの行列は止まっている。いつのまにか、全軍停止がかかっていたのだ。人々の喝采とざわめき、そしていくぶん不審げな囁きの中で、アインデッドの馬はマリエラのいるあたりに止まり、左右に向けられているアインデッドの目はどう間違いようもなく誰かを――マリエラを探していた。
(アインデッド……)
 むせるようなマノリアの香りを、マリエラは鼻腔の奥に思い出した。ラトキアよりも数段強い太陽の光の中で輝いていた、十八の夏を。
 だがその幻は数瞬のうちに過ぎた。
「前進!」
 マリエラは久々にアインデッドの声を聞いた。凛と張った声は記憶にあるとおりの彼の声だったが、その中にはかつては全く無かった、命令をしなれた響き、支配し命令するもの特有の響きが加わっていた。
 よく訓練された軍勢は命令一下、ただちに粛々と進軍を再開する。アインデッドの目はいつの間にか、全ての興味を失ったかのように進行方向に戻されていた。マリエラは思わず力の抜けるような安堵に、深い息をしぼりだした。
 アインデッドはだんだん遠ざかってゆく。――普通の人間たちとはあまりにもかけ離れた運命を持つ者だけが持つあの、世の常の人たちとは違う物質で作られてでもいるかのようなあえかな風情、不思議なオーラがはっきりと彼を包み、彼の周囲だけ目に見えない氷の炎が包み込んで守っているかのような印象を後ろ姿だけでも感じる。
(やっぱり……変わってしまったんだ……)
 なかば投げやりな諦めとかすかな悲しみをマリエラが噛み締めていたその時、人々の歓声がひときわ大きくなった。何事かとマリエラはもう一度アインデッドのほうを見た。アインデッドはまたこちらを見つめて、何か探すようである。そのために、視線が向けられた辺りの若い娘たちが声を上げたのだった。
「アインデッド! アインデッド!」
「アインデッド将軍、万歳!」
「ラトキア万歳! 大公閣下万歳!」
 群衆の歓呼の叫びがだんだん遠くなってゆく。マリエラは世界に自分ひとりが取り残されて、全てが遠のいていくような、奇妙な感覚を覚えた。
「大丈夫か、マリエラ」
 知らず、足元がおぼつかなくなっていたらしい。エノシュが後ろから肩を支えた。マリエラはすがるようにその手を握り締めた。そして再び彼女に背を向けたアインデッドの姿を見た。確かに、アインデッドは変わったのかもしれない。遠い、伝説の中の英雄になってしまったのかもしれない。それでも、マリエラにはわかった事がある。
「約束を……あんたも覚えてたんだね……」
 翡翠のようなアインデッドの緑の目と、マリエラの目が合ったあの時。
 確かに、アインデッドが懐かしそうに微笑んだのをマリエラは見たのだ。



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