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 シャームでは日常がいつもどおりに過ぎていた。参謀長であるルカディウスの不在は確かに周囲の人々に負担をかけてはいたが、それ以外の人々にはほとんど関係のないことだったからである。
 その夜はさほど大掛かりなものではなかったが、マギードの主催する夕食会が彼の邸宅で開かれていた。ツェペシュ大公の時代からステラ伯のシャームでの居宅であったそこもエトルリア兵による略奪と破壊の手を免れることはできず、調度の大部分を失い、あちこち修理が必要となっていたのだが、ようやくそれが終わったというので、祝いを兼ねて友人や知人たちを招いたのである。
 ステラ伯爵邸はシャームに居を構える貴族の館でも五指に入るほど広大なものであり、百人近くをらくらく収容できる大食堂やダンスホールを備えていた。今夜の招待客はマギードと公的・私的に親しい人々に限られていたので人数は四十名ほどであったが、宰相の知己であるからその顔ぶれはラトキア宮廷の面々がそのまま移ってきたようなものであった。
 文官からはマギードの秘書官、財務顧問のダルリアダ伯、建設大臣カビリ男爵、内務大臣エブロイン伯爵などが出席していた。武官からは年の離れた親友とも言うべきハディースをはじめ、自身の部下である青騎士団の副団長や隊長、赤騎士団長カーン、そして――恐らくマギード本人にはあまり招待する気は無かったはずだが、無視するわけにはいかなかったのに違いない――黄騎士団のスエトニウスといった面々が顔を揃えていた。
 ステラ伯爵家は大公家とゆかりの深い名家であり、ラトキア国内ではまぎれもない大貴族の一つであったから、この日の宴には当然のようにシェハラザードとナーディルも招待されていた。宴の主催者、主人はマギードだったが、主君ということで二人の席は彼よりも上座に設けられていた。
 わざわざ一段高い所にテーブルを置いて、豪華な銀製のセンターピースと花々とが飾りつけられていた。シャーム市内の屋敷に、そんな高価なものが略奪の手を免れて残っていたとは考えづらいので、恐らく最近新たに購入したか、領地のカラバルから持ってきたものに違いなかった。
 明らかな豪華さと銀のきらめきを放つ上座と比べると、その下に二列に並んだその他の招待客の席はぱっとしなかった。一応置かれている三つのセンターピースはデザインがまちまちで、欠けている部分がはっきりと判るものもあった。花をこんもりと生けた花瓶は、上座では一つで金十レアルはしそうな金彩陶器――ローレインあたりからの輸入品だろう――だったが、下座のそれは少々作りの雑な国産品と見えた。
 料理は、全ての品が大皿に盛られて一度に出されるペルジア式の給仕法だった。食べたいものを食べたいだけ取ることができるが、手の届かない場所のものは他の客か給仕に取ってもらわねばならないし、全てがいっぺんに出てしまうので最後のほうには冷め切った料理を食べる破目になるという、好きなものが目の前にあればありがたいかもしれないが、そうでなければ面倒なだけの方式である。
 飲み物も、給仕が瓶から空のグラスに一杯ずつ注ぐのではなく、ペルジア式ではお代わりがあったらその都度グラスごと取り替える。下げたグラスは洗って使いまわすのだろうが、一体どれだけのグラスを一晩で使うのか、知れたものではなかった。
 仕事を理由にしてこの手の招待は断る事が多いアインデッドだが、何もかも断っているとこれもまた自分の評判を下げるし、宮廷内での立場を悪くすると判っていたので、彼は「夕食会まで」とあらかじめ断りを入れた上で出席していた。そして周囲のラトキア人の牛飲馬食にうんざりしながら、しかしそんな思いは無表情の仮面の下に隠して、手の届く範囲の料理だけを適当に取って食べていた。
 アインデッドも、細身のわりによく食べるし、酒好きであるのは言うまでもない。そして行儀も礼儀も無視して食事することがあるのもこれまたご存じのとおりである。だがそうした一方で、アインデッドは礼儀作法が求められる場面で、彼自身がそれを必要だと認めた場合にはそれに忠実だった。
 これは一応公式の場であり、彼も高位貴族の一員として正式な招待を受けている以上、無作法は許されないものだと考えていた。たとえ周囲が普段の彼と同じくらい――がっついているくせに取り繕おうとしている悪あがきのようなものがあった分、もしかしたらもっと見苦しかったかもしれない――品のない様子であったとしても、それに倣う気はなかった。
 ラトキアの貴族社会に入りこみ、そこに溶け込もうとしていたものの、そういった意味でアインデッドは周囲に合わせることができない人種であった。
 彼は右隣のスエトニウスが自慢話をするのでなければこちらを詮索してくるのに、どうでもよさそうな相槌を打って、さりげなく自分は話し相手に向いていないということを判らせた。対して左隣のハディースとは互いの領地の話をして、経営の方針だとか税収の問題だとかいったことを話し合った。そして上座から時折もの言いたげな視線を送ってくるシェハラザードには、花の陰からこっそり微笑み返すなどして、ちゃんと気づいていることを示してやった。
 隣のナーディルは姉がアインデッドに一生懸命視線を送っていることに気づいているようだったが、そ知らぬふりをしていた。だがシェハラザードが周囲の問いかけに気づかなかったり、見つめる時間が長すぎたりした時には、料理を取ってやろうかと話しかけたりナプキンを落としたりして、たくみに彼女の注意を引き戻していた。
 アインデッドはナーディルの気配りに素直に感謝し、また感心した。彼が意味ありげな微笑みを目元に浮かべてこちらを見たときには小さな会釈でそれに応えた。
(ナーディルが俺とシェハルの仲を反対せずにいてくれるのはありがたいよな……。それに、こうして見ていてもやっぱり、生まれながらの王族って感じだ)
 亡きツェペシュ大公は自分が武力と才覚だけでのし上がってきた田舎騎士であり、教養や立ち居振る舞いは生まれながらの王侯にはとても敵わないことをよく自覚していた。そして無教養で通じるのは自分だけだということも、よく承知していた。
 そこで自らの子女には、国際社会で馬鹿にされぬようラトキアで望みうるかぎり最高の教育を施したのである。中でもナーディルは次代を担う大切な世継ぎである。彼の教育には姉たちとは比べ物にならないほどの投資がされてきた。
 その甲斐あって、この食欲だけが支配しているかと見える宴会場の中で、秩序を保っているのはナーディルとシェハラザードのテーブル、そしてアインデッドの周囲三十バルスだけであった。
 メインのコース料理があらかた片付けられた頃合いを見計らって、最後を締めくくるデザートが運び込まれてきた。それは少々エトルリアの食文化の流れを汲んだ料理で、乾しカディスと押し麦とを、ミルクベースのソースで甘く煮込んだものであった。
「アインデッド殿、それだけで良いのか?」
「ええ、これで結構です」
 甘いものは嫌いではないのだが、夕食に食べるのは主義ではなかったため、アインデッドは申し訳程度に取り分けて、ハディースがもう一匙どうかと勧めてくるのは断った。デザートが終わったら会場は隣のダンスホールに移り、その後はダンスパーティーという流れになる。
 だがアインデッドは会場を移すために出席者が席を立つのに紛れて帰るつもりで、マギードにもそのように伝えてあった。さらに念のため、リナイスの半刻から始まった夕食会が終わる時間をマナ・サーラの半刻あたりと予想して、その時間になったら自分を呼び出しに来てくれるよう、第一隊長のアルスに頼んであった。
 食堂の喧騒の合間を縫って、かすかに市内の十二神殿から鐘の音が聞こえてきた。刻を告げる低い鐘の音が八回、分を告げるそれより高い響きが三回。つまりマナ・サーラの三点鐘、半刻である。それを潮にして、マギードが咳払いしながら立ち上がった。
「では皆様、晩餐はここまでとして、これより先は舞踏会といたしましょう」
 使用人がダンスホールに続く観音開きの扉をさっと開け放つ。ダンスホールには食堂よりも多くの燭台が置かれて、惜しげもなく全てに蝋燭が灯されていたので、少し眩しく感じるくらい明るかった。
 人々はぞろぞろとダンスホールへと移りだした。その中でアインデッドはマギードに近づいていった。
「本日のお招きは大変有り難く存じますが、マギード殿。申し訳ないが俺はこれで失礼させていただきます」
「これからまた、城へお戻りに?」
 マギードは同情するような眼差しを向けた。
「ええ。今日中に目を通さねばならない書類がまだ残っているので」
 こういう時に浮かべるのがすっかり癖になってしまった苦笑と共にアインデッドは答えた。残念だが仕方がない、というようなことをマギードは返した。彼への挨拶を終えてから、アインデッドはすでにダンスホールに入っていたシェハラザードとナーディルにも途中退出の詫びと辞去の挨拶を述べに行った。
「もし、騎士団とは関係のない仕事があまり多いようなら言ってちょうだい、アインデッド。下のことは下で判断するように、私から命じるから」
 公的な喋り方か、それとも私的な喋り方のどちらをしたものか判断がつきかねたような感じで、シェハラザードは囁いた。
「いや――今日のところは軍のことだけだ。心配してくれてありがとう」
 同じように囁きを返して、アインデッドは笑顔を見せた。もちろんアインデッドの健康を気遣ってのこともあっただろうが、多忙すぎて恋人同士としての時間が取れないことも心配のかなりの部分を占めているのは言うまでもなかった。
 彼の多忙を心配しているのはナーディルも同じだったので、ダンスする人々に交じらず壁際の長椅子にかけている姉の隣に座って、何気ない調子で口を開いた。
「少し、考えたのですが――アクティバルを復帰させる理由がなかなか見つからぬなら、僕が将軍職なり、それに類する地位をいただくという方法もありますね。もちろん、姉上に大公位を譲っていただくまでの間のことになりますが」
「そうね」
 シェハラザードは考え込むような顔をした。
「父上がそうでいらっしゃったように、大公自ら一軍を率いることも多いものね。それにあなたなら、軍功がどうのといったことを持ち出さなくても、皆が納得してくれるでしょうし……。そうなると、アインデッドを今の地位のまま置いておいて、あなたを左府将軍に、ということになるかしら」
「姉上、それはとんでもない」
 ナーディルはびっくりしたような声を出した。
「僕は初陣すらまだ経験していないのですよ。世継ぎの公子、公弟だからとて功一等のアインデッド殿を差し置くなどというのは失礼ではありませんか」
「でも、あなたをアインデッドの下にということにすると、たとえそれが名目上のことであっても、あれこれと口を出す輩がいるでしょうからね。何より、グリュンが黙ってはいないでしょう」
 シェハラザードのこの言葉に、ナーディルが応えるようについてみせたため息は何よりも雄弁であった。二人は誰かをダンスに誘う事もなく、申し込みに来る相手もいなかったので、そのまま考え込む表情を浮かべて考えにふけっていた。やはり姉弟で、同じ表情を浮かべているととてもよく似ていた。
 そんな二人を遠目に見やりつつ、アクティバルは旧知の大臣や騎士たちとの会話に興じていた。アインデッドがこの場にいなかったので、彼に関する噂や評価をいくらか収集したいと考えていたのだが、あまり話の取っ掛かりが見つからなかった。
 先日青騎士団のダマススとテレンスが打ち明けたように、軍内で彼に反感を持っている者がそんなにいるのかどうか探りをいれようとしたのだが、マギードは人の悪口をこっそりとならともかく、大っぴらに言うなどということは考え付きもしない、根っから善良な若者であった。青騎士団内でのアインデッドの評価はどうだろうかと問うと、直接指揮を取るのが難しい自分の代わりに良くやってくれているし、彼個人も優秀な武人なのだから、評価されていないはずがないというのが彼の返答であった。
 ハディースがアインデッドを高く評価しているのは既にアクティバルも知っている事であったので、ことさら尋ねる事はしなかった。その他の文官系の大臣は仕事柄、接点が少なかったので関心もあまりないようであった。彼らの意見は大体「外国人ながら」か「外国人のくせに」のどちらかで始まる正反対の評価に二分されていた。アインデッドへの評価には、それがどんなものであれ、まず彼がラトキア人ではないということが第一の要件として入ってくるようであった。
(やはりこのような場で、本心からの言葉を聞きだすのは無理か)
 アクティバルは大きく息をついて、何気なく床に目をやった。白と灰緑の大理石を敷き詰めた、シャーム城の広間にも劣らぬ豪華な床である。そこに、粉のようなものが落ちていることにアクティバルは気づいた。その粉は上から降ってきたもののようで、アクティバルの上着にもぱらぱらと落ちてきた。
(何だ?)
 天井に鳥でも迷い込んできたのかと思い、アクティバルは顔を上げた。真上には枝付きの吊り燭台が懸かっていた。それが不自然に揺らいだような気がした次の瞬間、アクティバルは身に染み付いた反射だけで前方に向かって飛び込んでいた。
 と同時に、轟音を立てて吊り燭台が床に衝突した。埃と煤が舞い上がる。
「アクティバル殿!」
 女性たちの悲鳴が続く動揺とざわめきの中、顔を真っ青にしたマギードが駆け寄ってきた。
「お怪我はございませんか? なんとお詫び申し上げればよいのか……」
 華奢な透かし彫りが施された真鍮の吊り燭台は、落下の衝撃で完全にひしゃげてしまい、石張りの床の一部を砕いていた。落ちた時の風圧で蝋燭はほとんど消えていたが、まだ燃えていた数本は、同じように駆けつけてきたハディースが消した。
「ぶつかってはおらぬから、大事無い。マギード殿」
 倒れこんでいたアクティバルはようよう立ち上がりながら言った。そして、燭台を吊るしていた鎖を検分していたハディースの傍らに立ち、覗き込んだ。
「どうやら、天井に固定する金具が緩んでいたようですな」
 ハディースは言い、天井を見上げた。その言葉どおり、燭台の鎖はどこも錆びたり傷ついたりしておらず、天井に吊るすための金具も付いたままであった。そして天井には、金具がすっぽりと抜けた痕が抉られた傷のようにできていた。
「改修したばかりだというのに――。さては人夫どもめ、手抜きをしたのだな」
 どこにどう怒りをぶつけたものかといった感じでマギードは呟いた。
 だがアクティバルは、これが全く偶然の事故のようには思えなかった。何がどうといった証拠があったわけではないが、漠然とした第六感のようなものが、何者かの作為を感じ取らせたのである。



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