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     災いが目覚めようとしている。
     闇から黒い死の翼がやってくる。
     ああ、私の大切な人たちが、翼に
     連れ去られてしまう、影に呑まれてしまう!
     止められるのは東の狼だけなのに、かれは
     不吉な影に囚われてしまった。
     かれを救えるのは北の獅子だけ。
     翼の訪れは迫っているけれども、
     獅子の牙はまだ翼に届かない。
               ――アトの予言の言葉




     第一楽章 闇より来たりて




 ウジャス皇帝への弔問のためヒダーバードに向かい、その後ラトキア東部の視察を行っているルカディウスとグリュンは、現在ファセリスに滞在していた。ファセリスはラトキア北東部、ペルジアからずっと続く広大な平原に位置する伯爵領である。エルザーレンと同様、耕地のほとんどをミール麦の畑が占める穀倉地帯である。
 この日はファセリス伯爵ジロ・デュシーの案内でファセリス市近郊の農地の視察を行い、夕方からは彼の館で宴が催された。ラトキア人の宴会好きは東北部でも全く変わらぬことのようで、視察旅行に入ってから一体何回歓迎の宴に出席したのか、ルカディウスは数えるのも億劫な気分になっていた。
 グリュンの年齢のことを考えたのか、さすがに連日深更まで宴を続けるということはなかったにせよ、この日はファセリスの中心に入ったということで、領内の貴族や荘園主はもちろん市内の有力市民も招かれ、百人は下らないかなり大規模な宴が開かれた。それでも宴会自体は短かった方で、日付の変わる前にルカディウスとグリュンはそれぞれに割り当てられた客間に戻った。
 だが、部屋に入ったグリュンはそのままやすむことはせず、半テルほど経つと再び出てきた。蝋燭一本の明かりだけを頼りに、人目を避けるように向かった先は屋敷の中央部、主人の住まう一画であった。大して迷うこともなく、グリュンは一室の扉を叩いた。すぐに返事があり、扉が開かれた。
「お待ちしておりました、グリュン閣下。どうぞ」
 待っていたのはジロであった。あらかじめ約束をしていたらしく、驚いた様子もなくグリュンを迎え入れ、そっと首だけを廊下に伸ばして目撃者がいないことを確かめてから扉を閉めた。
 宴会が果ててまだ間もないので、グリュンは夜会服の上着だけを脱いでガウンを羽織った姿、ジロも似たような化粧着姿であったが、互いにそれは暗黙の了解としていたらしく、断りを入れることはなかった。
「お話とは、何でございましょうか」
 絨毯の上に幾つも重ねたクッションに座り、グリュンも腰を落ち着けたところでジロは尋ねた。勧められたアーフェル水に手を伸ばしながら、グリュンは逆に尋ねた。
「デュシー卿。そなた、こたびのいくさの恩賞に満足しておるか?」
 ジロが黙っていると、グリュンは身を乗り出してきた。
「納得しているわけではあるまい?」
 ジロは困ったように曖昧な笑みを浮かべた。
「グリュン様、私の口から、そのような畏れ多い事は申せません。それに、さしたる武功がなかったことは事実ですので……」
「実はだな」
 言葉を濁そうとしたジロであったが、グリュンは構わずここぞとばかりさらに声を低くした。
「わしも、そなたら東北部の諸卿への恩賞は少なかったのではないかと思っておるのだ。悲しいことだが、シェハラザード様は建国より我がラトキアの民を治める一員として尽くしくれた者たちをさしおいて、異国者の成り上がり風情に目をかけておられる。これは全く憂慮すべき事態だ。そうは思わんか?」
「……」
 ジロは答えずにいた。グリュンの言う『異国者の成り上がり風情』が誰を指すものなのかは何となく理解できたが、それについてどういった反応を示せばいいのかを探るような視線でグリュンを見つめていた。そして一分ほども黙り込んだ後で、ようやく口を開いた。
「グリュン様は、いかがお考えなのでございますか?」
「今のままで良いわけがなかろう」
 やや語気強く、グリュンは言った。
「異国者などが将軍を名乗って軍をほしいままにしていては、ラトキアに真の平和、安寧は訪れん。そのような者に目をかけ、厚遇し続けるようなことがあれば、これは大公閣下の将来のためにも宜しからぬ」
「ではグリュン様は、我々東北諸卿に一層のお引き立てを下さるよう、大公閣下にお執り成し下さるおつもりがある――ということでございますか」
 慎重に言葉を選びながら、ジロは確かめた。
「それだけではない、というよりも、それだけではシェハラザード様のためにならぬし、ひいてはラトキアのためにならぬ」
 グリュンは言い切った。ジロはまだ、この話を本気にしているようではなかった。口許にはまだ愛想笑いの名残のようなものを浮かべていたが、彼の目は冷徹で、その内心を知ろうとするかのように注意深くグリュンを観察していた。
「あの男をラトキアから追い払わねば、根本的な解決にはならん」
「――あの男とは、イミル将軍のことでございますね?」
 ようやくジロは自分から本題に切り込んできた。それには、グリュンは深く頷いて肯定の意を示した。
「しかしイミル将軍はラトキア再興の立役者と言われる武将。それを、グリュン様の仰るようにラトキアから出ていってもらうということも、簡単にはできかねるのではありませんか?」
 するとグリュンはしたり顔で口許を緩めた。
「実はな、わしにはそのための考えがあるのだ」
「それはどのような? お聞かせ願えますか」
 話次第では乗るつもりがある、ということをにおわせつつ、ジロは先を促した。二人は額を寄せ合うようにして更に声を低めた。
「要はあの男よりも我らラトキア人の武将たちの方がより優れているということ、あの男では頼りにならぬのだということを、シェハラザード様に理解していただければよいのだ。そのために、貴殿にしてもらいたい事がある。これはケラメイスのタシェト殿にもご同意いただいたことだがな……」

 話はそれよりも前、グリュンらがケラメイスに滞在していたときに遡る。
「本日もお疲れ様でございました、グリュン閣下」
 ケラメイス男爵フオジ・タシェトが屋敷で開いた宴会の後、召使を先に立てて廊下を歩きながら、ルカディウスは傍らのグリュンに話しかけた。はちみつ酒をだいぶ聞こし召していたグリュンは、頬や鼻の頭を赤くしながらとろんとした目を上げた。
「日程は、残すところあと何日であったかな?」
「東北部の主要な土地は残すところファセリスばかりとなっております。予定通りならば五日程でシャームへの帰路につくことができましょう」
 如才なくルカディウスは答えた。
「あと五日で終わりか。長かったのか短かったのか……。全てを見てまわるには短ろうが、まあ、わしが長らく不在にしておるのも問題だからな。これくらいがちょうど良いのであろう」
 グリュンはしみじみとした様子で頷いた。
「やはりシャームがご心配でいらっしゃいますか」
 ルカディウスの愛想笑いの片隅には嘲るような色があったが、酔っぱらっていた事もあってグリュンは気付かなかった。
「心配――心配と言うのではないがな、気がかりなことは幾つもある」
 不快なことを思い出したていで、グリュンは眉をひそめた。それぞれの寝室に続く居間に彼らを通すと、召使は退去と就寝の挨拶を述べて下がっていった。そのまま寝室に引き取るかと思われたが、グリュンはテーブルに置かれていた水差しを取り、グラスになみなみと注いだ水を一気に飲んだ。
「わしのいない隙に、あやつが姫様やナーディル殿下に何を吹き込んでおるものか……。まったく、油断ならぬ」
 ぼそぼそと呟いたつもりだったが、それはルカディウスにすっかり聞こえていた。誰のことを指しているのかは明白だったが、彼は気付かないふりをした。そもそも、ルカディウスはアインデッド側の人間だということをこの老人がきちんと理解しているのかどうかも怪しいものであった。
「何やらお心を煩わせていることがございますようですね。わたくしめでよろしければご相談くださいませんか? グリュン閣下」
 ルカディウスはいかにも案じているといった表情でグリュンの座り込んだ椅子の隣に席を取った。グリュンは再び水差しに手を伸ばした。独り言のように言う。
「姫様もナーディル殿下も、あの男にすっかり篭絡されてしまっておる。わしがしっかりせねばならぬというのに、こうしてシャームを空けておるというのが不安なのだ」
「それは、しかしまもなく帰路につくことができましょう」
 なだめるようにルカディウスは言った。グリュンは半分飲んだ二杯目の水を飲み干し、ふうっと大きく息を吐いた。
「わかっておる。だがあの男を見張っておけぬ時期がわずかでも生じたというのがいかにも痛い。わしがおらぬ間にあの男がつまらぬことを姫様に吹き込んでおったらと思うと気が気でならぬ。軍を私物化するに飽き足らず、ラトキアまでも……」
「閣下が仰るあの男とは、我が主アインデッドのことでございましょうか?」
 グリュンの愚痴を遮るような形でルカディウスは尋ねた。とたんにグリュンはきっとなった。
「他に誰がいるというのだ」
 口角に泡を飛ばして声を荒げるグリュンに対し、ルカディウスは表情も声音も平静さを保っていた。信じられないといった感じで首を振る。
「まさかそのような大それたことを、主人が考えるとは思いませんが……」
 その否定に対してかっとなりかけたところに、ルカディウスは両手をちょっと挙げて抑えるような仕種をした。
「しかし、グリュン閣下のそれとはまた違うものですが、私もいささか心配しておる事がございます」
「とは、何だ?」
 片眉をひくつかせながら、グリュンは尋ねた。
「確かにシェハラザード様は主に大変目をかけてくださっておられます。こればかりはわたくしめの判断でどうこうできる問題ではございませんが、分に相応せぬ――と閣下がお考えになられても、致し方ないことかもしれません」
 ルカディウスはもったいぶって声をひそめ、身を乗り出した。グリュンもつられたように上体を傾けた。
「私のような者から申し上げるのはあまりにも無礼であるのは重々承知ながら、その……シェハラザード様は、我が主にひとかたならぬご好意を――というよりも、男女の間の特別な感情をお持ちのようです」
「……」
 グリュンはまたしてもかっとなりかけたが、何とか自制して続きを聞こうとした。
「そこでシェハラザード様がご結婚をお考えになるだけならば良いのですが、私が心配なのは、よもやご結婚を機に主に大公位をお譲りになろうなどとお思いにはなりはすまいかということでございまして……」
 ルカディウスがいかにも心配そうな顔をして言った途端、グリュンは青ざめた。ルカディウスが続けた当たり障りのない相槌めいた言葉も就寝の挨拶も全く耳に入らず、上の空で応えると扉を閉めてしまった。
 グリュンがフオジと深夜の密談を交わしたのは、それから間もなくである。
 それはこの数日後、ジロにした問いかけとその後の提案と全く同じ内容であった。グリュンはひたすらアインデッドをラトキアから追い出したかった。それには、シャームにはいない第三者の――ジロとフオジの協力が不可欠であったからだ。
 シェハラザードのため、ラトキアのためと言いながら、それがラトキアにどのような影響を与えるものか、グリュンは全く考えていなかった。立てはじめた陰謀に加わった二卿が、どのような思惑を持っているか――それがどのような結果を招くかさえ、彼は想像してみることをしなかったのである。



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